日本で唯一現存する女性用の鎧という意見もある「紺糸裾素懸威胴丸」、それを実際に着用して戦ったといわれている女武将がいます。 戦国時代(16世紀半)の伊予国(愛媛県)、18歳という若さで水軍を率いて周防国(山口県)の大内氏と何度も戦い、瀬戸内海に浮かぶ故郷・大三島を守り抜いた「大祝鶴姫」です。
大三島は、南北朝時代から安土桃山時代にかけて、瀬戸内海最強と言われた「村上水軍」(むらかみすいぐん)が海賊衆として勇壮な海のロマンを繰り広げた芸予諸島(げいよしょとう)の島々をつなぐ46.6kmの「しまなみ海道」の中ほどにある島です。
大祝鶴姫は、この島にある大山祇神社の大祝職(大宮司)の娘として1526年(大永6年)に生まれます。神職の家に生まれた彼女がなぜ、水軍の将になったのでしょうか。
父は大祝31代・「大祝安用」(おおほうりやすもち)で、安舎(やすおく)と安房(やすふさ)という2人の兄がいました。実は、大山祇神社のしきたりで、安舎が神職である大祝職を、安房は大三島を警護する水軍大将を継いで、島内・三島城の陣代になると決まっていたのです。鶴姫が生まれたときは、まだ、父が大祝職についており、兄の安舎が陣代を務めていました。
鶴姫は、顔立ちが整い、大柄で体格にも恵まれたていたばかりか、父の手ほどきで神道書をはじめ様々な書物を読みこなし、横笛や琴も奏でる、非常に利発な少女だったようです。鶴姫が誕生した室町時代後期は、各地で戦国大名が台頭した時代。
父はそんな時代の空気を感じていたのか、娘にも武術の修行を勧めました。5歳から本格的な剣術を学んだ鶴姫は、兄達の武術の鍛錬にも加わり、しばらくすると10歳も年が離れている次兄の安房との立ち合いで、何本かに1本は取れるようになったのです。
鶴姫が8歳のとき、父が病死し、安舎が大祝職を継ぎ、安房が水軍の大将に就任します。すでにその当時、大三島には戦国の嵐が吹き始めていました。中国地方の強大な守護大名・「大内義隆」(おおうちよしたか)が度々攻撃を仕掛けてきており、大祝氏は同族の河野氏や村上水軍と組んで死闘を繰り返していたのです。それでも、鶴姫はまだ、兄2人に守られ、何不自由ない生活を送っていました。
しかし、鶴姫が16歳になった1541年(天文10年)6月、その生活は一変します。大内氏が瀬戸内海の覇権を握るために、かつてないほどの大船団を率いて大三島に攻め込んできたのです。何とか激闘の末に大内軍を追い払ったものの、三島水軍の陣代であった兄・安房は討ち死にしてしまいます。
同年10月、大内軍は三島軍の陣代の死を知り、追い打ちをかけるべく、再び大軍を大三島に送ってきました。それに対し、策を練り、夜明け前に早船(小型船)による奇襲をかける三島軍。そのとき、何と、陣代として三島水軍の陣頭に立っていたのは、ほかならぬ鶴姫でした。大祝職を継いだ安舎はしきたりにより戦場には立てないため、鶴姫が安房の遺志を継ぎ、大三島の神を守るという熱い思いをたぎらせて出陣したのです。
甲冑を身にまとい、大薙刀を携えて馬にまたがった鶴姫の姿は、神々しいほど威風堂々としていたと伝わります。「われこそは三島大明神の使いなり」と名乗りを上げます。そして大薙刀を振るい、敵の大将であった「小原中務丞隆言」(おはらなかつかさのじょうたかとき)を討ち取るのです。指揮官を失った大内軍は撤退。三島軍は大内軍の上陸を再び阻止したのです。
二度も煮え湯を飲まされた大内氏は、2年後の1543年(天文12年)、猛将として知られた「陶隆房」(すえたかふさ)を大三島に送り込みます。鶴姫、18歳のときです。安房の死後、三島城陣代の職についたのは、大祝氏の同族で鶴姫とは幼馴染の「越智安成」(おちやすなり)。思いを寄せ合う関係でもあった鶴姫と安成は、力を合わせて三島水軍の立て直しを行なっていました。
そんなさなかでの三度目の襲来だったのです。勇猛で深い知識を持ち、機知にも富んでいた安成は、巧みな戦術で大内軍を苦しめますが、大艦隊を相手に、時間経過と共に敗北は避けられない状況に陥っていきます。そこで安成は自らが敵の指揮船をめがけて突撃する捨て身の作戦に打って出たのです。これは鶴姫達の退却の時間を稼ぐ作戦でもありました。これにより、敵の艦隊を沈めることには成功しますが、安成は戦死します。
兄の安舎は、「これは大明神のご託宣だ」と戦いを終わらせる道を採り、大内氏の軍門に下ることを表明。しかし、鶴姫は、安房や安成の無念を思い、再出撃を敢行します。残った早船を動員し、夜襲をかけると、これほど早く逆襲に遭うとは思ってもいなかった大内軍は大混乱に陥ります。嵐も鶴姫を援護してくれるかのように吹き荒れ、多くの船が沈没し、隆房は戦闘の継続を断念します。鶴姫は大三島を守り抜いたのです。
しかし、安成を失った悲しみは癒えることがなく、夜の海にひとりで船を漕ぎ出し、再び戻ってくることはなかったと言います。
戦国時代、瀬戸内海の大三島を守るために、三島水軍の女武将として活躍した大祝鶴姫。瀬戸内のジャンヌダルクとも呼ばれる彼女が着用した物ではないかとされるのが、大三島の大山祇神社所蔵の「紺糸裾素懸威胴丸」(こんいとすそすがけおどしどうまる)です。一説には、実はこれが、日本に現存する唯一の女性用の鎧であると言われています。
大祝鶴姫の一族が代々神職を担っていた大山祇神社は、古くから朝廷や武将の尊崇を集めてきた神社で、有力な武将が武運長久を祈って武具を奉納しており、国宝や重要文化財に指定された刀剣や甲冑が数多く残されています。その中のひとつが、紺糸裾素懸威胴丸と呼ばれる甲冑です。
紺糸裾素懸威胴丸は、1901年に「紺糸威胴丸」(こんいとおどしどうまる)の名称で他の甲冑武具類と共に当時の古社時保存法に戻づく国宝(旧国宝、現在の重要文化財)に指定。胴高は34cm、胴回りが71.5cmと細くくびれており、紺糸威の胴丸の胸部はふっくらと膨らんだ形状。さらに、鎧の胴から下がる装甲板である草摺(くさずり)は、通常4~8枚のところ、この胴丸には11枚もあり、緩やかに腰に添う形になっています。
その形の特殊さと共に、「大祝家記」(おおほうりかき)に記されている「鶴姫の比類なき働き、鎧と共に今に伝はるなり」という一節から、鶴姫が着用した物ではないかと考えられているのです。そしてそれが事実であれば、日本に現存する唯一の女性用の鎧ということになります。
一方で、室町時代末期の胴丸の形状は、当時、山城での攻防を中心に徒歩戦が一般化したという背景があり、歩行の便の向上のために様々な工夫や変化が施された経緯があり、これはその進化のひとつだとも言われています。
どういうことかを簡単に紹介すると、胸回りを大きめに張り出しているのは呼吸を楽にするためであり、ウエストが絞ってあるように見えるのは、胴裾を腰骨に乗せるように細く絞った形に仕立てることで肩にかかる胴の重量を分散させ、疲労を減らして長時間の甲冑着装に耐えられるようにした物。
さらには、腰回りから大腿部のあたりを防御する草摺を、足さばきを良くするためにそれまでの定数の4~8枚に分割した物から、さらにより細かく分割し、11枚にして動きやすくした物だというのです。
ただ、どちらであっても、大祝家記に記されているように、大祝鶴姫が鎧を身にまとい活躍したであろう姿を思い浮かべながら、紺糸裾素懸威胴丸を眺めると、思わずその時代にタイムスリップしたかのような思いに駆られるのではないでしょうか。
戦国時代、瀬戸内海の三島水軍の女武将として、のちに瀬戸内のジャンヌダルクと呼ばれる活躍をした大祝鶴姫。彼女のゆかりの地をご紹介しましょう。
瀬戸内海のしまなみ海道の中ほどにある大三島にある大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)の大祝職の娘として1526年(大永6年)に生まれた大祝鶴姫。18歳という若さでこの世を去った大祝鶴姫の一生は、まさにこの大三島と共にありました。
大祝鶴姫がその生涯のすべてを過ごした大三島は、愛媛県今治市の芸予諸島の中の有人島のひとつで、同県の中では最大の島です。「島」という名が付いてはいますが、各地にある三島神社の総本社・大山祇神社のことを「大三島」と呼び、それが島全体の名前の由来になったものです。
有史以来、「神の島」として信仰を集めてきたため、現在まで開発の波にさらされることなく、非常に豊かな生態系を保持する島です。
大祝鶴姫の生涯が語るように、瀬戸内海は内海としての穏やかさとは裏腹に、日本の歴史においては戦いの主戦場としての顔を幾度も見せてきました。
いわゆる海賊衆と呼ばれた瀬戸内海で活動した水軍の代表格に村上水軍がありますが、大祝鶴姫達の大三島にも三島水軍と呼ばれる水軍があり、大山祇神社は日本の山々と海を守る戦いの守護神として古くから崇められてきたのです。そのため、大山祇神社の宝物殿の所蔵品には歴史上の名だたる武将が身に付けていた刀剣や甲冑類が数多くあります。
では、大山祇神社の宝物殿にはいったいどれほどの貴重な宝物があるのでしょうか? 何と国宝8点、国の重要文化財は682点もあります。
「源頼朝」や「源義経」の鎧や、あの「武蔵坊弁慶」の物とされる長い薙刀もあり、甲冑だけで言えば、国宝と重要文化財の4割がここにあると言われています。これらは宝物殿の奥で眠っているのではなく、実際に観ることができます。
なかでも注目は、大祝鶴姫が身に付けたのではないかと言われ、もしそうであれば日本に現存する唯一の女性用鎧となる紺糸裾素懸威胴丸。これにはまだ明らかになっていない部分もありますが、そこも楽しみながら、当時の大祝鶴姫達の活躍の様子を思い浮かべるのも楽しいものです。
また、神の島・大三島は、島そのものがパワースポットです。大山祇神社の境内にある大山積神(おおやまつみ)の子孫が神社を創建したときに植えたという推定樹齢2600年以上のクスノキも見ごたえたっぷりです。