江戸時代、徳川将軍家に次ぐ家格を持つ「徳川御三家」の中で筆頭格と言われていた尾張徳川家 (おわりとくがわけ)。度々将軍家と争いになるほどの権力を持った名家でしたが、尾張藩から将軍を輩出することはありませんでした。江戸300藩のトップに君臨していながら、なぜ将軍の座をつかめなかったのか。尾張藩の指針となる思想とは何なのか。 今回は、尾張徳川家が歩んできた歴史をさかのぼると共に、名家に伝来した日本刀「貞宗」(さだむね)についてご紹介します。
1600年(慶長5年)、「徳川家康」の9男として生まれた「義直」(よしなお)。2歳で甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)24万石を与えられたあと、亡くなった兄の遺領を継ぐために尾張国清洲(きよす:現在の愛知県清須市)に移封となります。
この頃、尾張藩が本拠としていた「清洲城」は「織田信長」の故地(こち:ゆかりのある地)であり、尾張の中央に位置する交通の要所となっていた場所でしたが、低地で「庄内川」(しょうないがわ)の河川流域にあったため、水害が起こりやすいという問題を抱えていました。そこで家康は、尾張藩の新たな本拠地として名古屋に城を構えることを命じ、「加藤清正」(かとうきよまさ)などの西国の諸大名が築城にあたることとなったのです。
まだ幼かった義直は、父・家康が隠居していた「駿府城」(すんぷじょう)に留まっており、名古屋城が完成するまでの間、幕府から送った「附家老」(つけがろう:幕府から親藩に監督や補佐として付けた家老)たちが城代を務めて領国経営を行なうことに。そして家康の死後、義直は初めて尾張の地へ足を踏み入れ、名古屋城の完成と共に、義直の初代尾張藩主としての人生が始まりました。
江戸時代に流行した民謡「伊勢音頭」(いせおんど)に、「尾張名古屋は城でもつ」というフレーズがあるように、名古屋城の築城をきっかけとして、新拠点・名古屋は大変な賑わいを見せることとなります。義直は清洲から名古屋へ神社や仏閣を移設させ、城下町の整備に努めました。やがて清洲の町人たちも大挙して名古屋へ移り、もともと城下町として栄えていた清洲の町は急激に過疎化が進むことに。この清洲から名古屋への大移動は「清洲越し」と呼ばれ、歴史的な都市移転として尾張藩史に刻まれることとなったのです。
名古屋城と言えば、「金の鯱」 (きんのしゃちほこ)をイメージされる方が多いでしょう。この金鯱は、尾張徳川家の権威を示すためのシンボルとして築城時に大天守に掲げられた物で、当時の金鯱の鱗は1,940枚もの慶長大判(けいちょうおおばん:江戸時代初期の大判金)を使用して制作されていたとも言われています。
金鯱は何度か盗難に遭っていることでも有名で、江戸時代には「柿木金助」(かきのききんすけ)という尾張の盗賊が、大凧に乗って金鯱の鱗を盗んだ、といった伝説も語り継がれています。
幼い頃に家康のもとで教育を受けたためか、義直は謹厳実直な性格で、学問を好んでいました。特に儒教を奨励していたため、儒学者の「堀杏庵」(ほりきょうあん)を招いて城内に孔子廟(こうしびょう:儒教の創始者・孔子を祀る建物)を建立し、書物を所蔵する場所として「蓬左文庫」(ほうさぶんこ)を創設。主に文教政策を進めていた義直ですが、武術にも関心があったようで、尾張徳川家に仕えていた剣術家「柳生利巌」(やぎゅうとしよし)から「新陰流」(しんかげりゅう)を伝授されています。
また、義直という人間の最も特徴的な部分は、勤皇思想 (きんのうしそう:天皇に忠義を尽くす考え方)の持ち主であるところ。徳川将軍家の分家という立場でありながら、勤皇家だった義直は、御三家の中でも浮いていたと考えられます。この思想は代々尾張藩に受け継がれ、「王命に依(よ)って催(もよお)さるる事」すなわち「朝廷と幕府で争いが起きた際は、迷わず朝廷側につくこと」という藩訓が、その後の藩主たちの指針となっていったのです。
このような義直の勤皇思想には、甥にあたる3代将軍「家光」(いえみつ)との確執が関係しているのではないかと言われています。義直は家康の子というプライドを持っており、将軍家から家臣のように扱われるたびに、ひどく拒んで反発。たとえ将軍であっても、自分たちと同じように朝廷の臣であることに変わりはないと考えていたようです。こういった義直の自尊心こそが、尾張藩の核となる部分になっていたのかもしれません。こうして尾張藩は、義直の教えを尊守し、将軍後継争いに参加することはありませんでした。
1650年(慶安3年)に初代藩主・義直が亡くなって以降、義直の子孫が藩主となり尾張藩を護っていきます。しかし、4代から6代藩主に亘って不幸が続いたため、藩主が相次いで交代する事態に。そこで、尾張から移って陸奥梁川(むつやながわ:現在の福島県伊達市梁川町)藩主をしていた「宗春」(むねはる)が呼び戻され、7代藩主となりました。
宗春は、3代藩主「綱誠」(つななり)の20男で、6代藩主「継友」(つぐとも)の弟にあたります。兄・継友は、奇行奇癖な人物として知られていましたが、どうやら宗春もその血を受け継ぐ奇異な人物だったよう。なんと、宗春は初めて尾張名古屋入りした際、大煙管を片手に派手な衣装を靡(なび)かせ、牛に乗っていたのです。傾いた(かぶいた:異様な風体をすること)姿で登場した宗春は、民衆を驚かせました。
宗春は藩政においても、異端ぶりを発揮しています。当時、江戸では「享保の改革」(きょうほうのかいかく)によって質素倹約を強いられていました。しかし、宗春は庶民を苦しめていた幕府の政策に疑問を呈していたようで、尾張藩主として幕府とは真逆の政策を打ち出したのです。
宗春は、江戸で禁止されていた芝居小屋や遊郭を名古屋の城下町に次々と開店させ、上方商人による出店やお祭りの奨励など、自由で開放的な政策を行なっていきます。これによって名古屋城下は治外法権的な場所となり、名古屋の町は大変な賑わいを見せることとなったのです。こうして名古屋では、華やかな芸術の文化が発展していき、宗春は「名古屋は芸どころ」と称されるようになったきっかけを作りました。
しかし、宗春の「自由経済政策」は町の繁栄とは裏腹に、藩の財政難や風紀の悪化を招いてしまうことに。この状況を幕府が見逃すはずもなく、8代将軍「吉宗」(よしむね)の逆鱗に触れた宗春は、幕府から隠居謹慎を命じられ、家督を譲ることになるのです。
江戸幕府の長い歴史の中でも、幕府に盾をついて、ここまで大胆な行動をした藩主はいないのではないでしょうか。宗春の政策は、尾張藩の興隆には繋がらなかったものの、名古屋の町や文化には色濃く影響を与えることとなりました。
その後、藩政時代に尾張徳川家は17代まで続き、17代藩主「慶勝」(よしかつ)が明治維新後に侯爵を授けられました。
この最後の尾張藩主である慶勝の11男「義恕」(よしくみ)の代に、相州伝(そうしゅうでん)の代表的な刀工「貞宗」(さだむね)の日本刀が伝わったと言われています。
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 南北朝時代 | 特別重要刀剣 | 尾張徳川家伝来→ 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |
相州伝とは、刀工が栄えた五ヵ国の地域で生み出された流派「五箇伝」のうちのひとつで、南北朝時代に相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)を中心に繁栄しました。貞宗は、この相州伝を確立させた刀匠「正宗」(まさむね)の門人で、のちに正宗の養子となったのです。
正宗の作風を継承し、味わい深い沸出来(にえでき)を得意としていた貞宗。本刀においても、その美しい沸(にえ)が全体に感じられます。また、ゆるやかな湾れ(のたれ)も貞宗らしく、落ち着いた品格を醸し出す1振となっています。