徳川家の守護神としてトップに君臨していた「徳川四天王」。このうちのひとり「本多忠勝」(ほんだただかつ)は数々の武勇伝を残した武将で、あの「織田信長」や「豊臣秀吉」からも一目を置かれる存在でした。今回は、江戸幕府創立時から、「徳川家康」を軍事的にも文事的にも支えてきた本多家の人物をご紹介すると共に、本多家に伝来した名刀「伝倫光」(でんともみつ)のルーツを見ていきましょう。
本多家は、もともと藤原姓の「助秀」(すけひで)という人物が祖であり、豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県)の「本多」という町へ移り住んで本多を名乗ったことから、本多姓が始まったと言われています。
助秀の子「助定」(すけさだ)は「足利尊氏」(あしかがたかうじ)に仕え、尾張国横根(おわりのくによこね:現在の愛知県大府市)・粟飯原(あいはら)の領主となり、その子孫である「助時」(すけとき)が三河に移住し松平家に仕えたことで、代々松平家の家臣を継承していくことに。本多家は松平家にとって腹心の部下であり、一般的な主君と家臣の関係以上の絆を深めていました。
なかでも、最も松平家(徳川家)に貢献した本多氏と言えば「本多忠勝」でしょう。忠勝の祖父「忠豊」(ただとよ)と父「忠高」(ただたか)は、「徳川家康」の祖父である「松平清康」(まつだいらきよやす)に仕え、戦国時代に「織田信秀」(おだのぶひで)との戦いで討死しています。このとき、忠高は22歳という若さで、忠勝はまだ生まれたばかりでした。幼くして父を亡くした忠勝もまた、幼少期から家康のもとに仕え、松平家のために奔走していくこととなります。
忠勝が初陣を飾ったのは、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)。13歳の忠勝は、家康に付いて「大高城兵糧入れ」(おおだかじょうひょうろういれ)に加わりました。その後、共に岡崎に移った忠勝は、この戦い以降、家康のそばを片時も離れることはなかったと言います。
1562年(永禄5年)、家康が「織田信長」と和睦し同盟を組んだ「清須会議」(きよすかいぎ)においても、忠勝は家康侍従22名のうちのひとりとして同行していました。
家康のもとで戦歴を重ねた忠勝は、19歳で精鋭部隊の騎兵隊長に任命されます。この頃すでに、忠勝は戦場において不可欠な存在となっていました。
1572年(元亀3年)の「三方ヶ原の戦い」(みかたがはらのたたかい)では、家康は「武田信玄」に大敗してしまったものの、忠勝の勇猛ぶりがうかがえるエピソードが残っています。先陣で三加野に進出した忠勝は、武田軍の攻勢に勝ち目がないと悟り撤退の判断を下しました。
しかし、両軍の距離が近すぎたために身動きが取れなくなっていたところ、「黒糸威」(くろいとおどし:黒糸でつづった鎧)に身を包み、鹿角の兜をかぶった忠勝が、槍を提げて武田軍の前に馬を入れて駆け回ったのです。忠勝は徳川軍を退陣させ、追撃してくる武田軍を食い止めました。これに対して家康は「まことに我が家の良将である」と、忠勝の機敏な判断力を褒めたと言います。さらに、武田軍の精鋭達は「家康に過ぎたる物が2つあり、唐の頭に本多平八」と、敵ながら忠勝の勇猛さに感心していたとのこと。
また、1582年(天正10年)に起こった「本能寺の変」(ほんのうじのへん)のあと、家康を京都から三河まで帰国させた「伊賀越え」では、信長の死にうろたえていた家康を忠勝は必死になだめ、常に先頭を進んで舵を取り、ほとんど不眠不休で家康の警護にあたって無事岡崎まで帰国させました。家康は、このときも忠勝に「この間の危機、万死を免れたのも、ひとえに忠勝の力なり」と労いの言葉を掛けたのです。
その後、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で挙げた功績により、伊勢国桑名(いせのくにくわな:現在の三重県桑名市)10万石の初代藩主となった忠勝は、1609年(慶長14年)に嫡男である「忠政」(ただまさ)に家督を譲り、翌年、桑名の地で逝去しました。
徳川家の重臣として、勇敢に、時には冷静に、家康を護ることに徹底していた忠勝。本多家に多大なる功績を残しただけでなく、戦国一の勇士としてその名を歴史に刻みました。
実は、本多家には忠勝以外にも家康を支えた重臣がいました。それは忠勝同様、祖父の代から松平家の家臣をしていた「本多正信」(ほんだまさのぶ)です。正信は、忠勝のような武将タイプの人間ではなく、幕府政治を担っていた文臣(学問・文学などで仕える家来)でした。
幼少時より家康に忠義を尽くしてきた正信でしたが、「三河一向一揆」(みかわいっこういっき)では、家康に背いて浄土真宗本願寺派(じょうどしんしゅうほんがんじは)の門徒側にまわり離反しています。
その後、家康の家臣である「大久保忠世」(おおくぼただよ)の仲介で帰参した正信は、再び家康の重臣として尽力し、関東総奉行として江戸城の整備や、江戸の組織作りに邁進していきました。一度は心が離れた2人でしたが、正信も家康もお互いのことをよく理解していたようで、言葉を多く交わさなくとも打てば響く、といった古くからの友人のような間柄だったそうです。
1565年(永禄8年) には、正信の嫡男「正純」(まさずみ)が誕生し、父と同じく幼くして家康に仕えました。文臣気質なところも父親譲りで、のちに「武家諸法度」(ぶけしょはっと)や「公家諸法度」(くげしょはっと)の制定にも関与しています。
また、正信・正純父子は、政敵である「大久保忠隣」(おおくぼただちか)を失脚させるために策謀をめぐらせたとも言われており、その内容は、家康の家臣である「大久保長安」(おおくぼながやす)の死後に、長安が利己的に幕府のお金を不正利用していたことが発覚したとして、残された家族達が罰せられたという物。
これが、正信・正純父子による虚偽報告だったのではないかという見解があるのです。真偽のほどは不明ながら、この事件によるものか、あるいは政治的能力があまりにも優れていたためか、正信は悪い意味でも「謀臣」(ぼうしん:計略に巧みな家来)と捉えられ、忠勝らの本多家武功派とは、しばしば対立関係にあったと言われています。
1616年(元和2年)、家康が逝去した53日後、正信は家康のあとを追うかのように、この世を去っていきました。
こうして本多家は、忠勝を祖とする家系や正信を祖とする家系など、複数の分岐した家系が存在する一大族党となり、その多くが大名家として栄えました。今回紹介する「伝倫光」は、忠勝の孫「忠晴」(ただはる)の代に本多家に伝来した名刀です。
倫光は、備前国(びぜんのくに:現在の岡山県)で興隆した刀工流派「長船派」(おさふねは)の「兼光」(かねみつ)の子、または弟とされている人物で、南北朝時代に備前国で活躍しました。
倫光の師・兼光は、長船派の中でも功績を残した人物で、長船派を打ち出した「光忠」(みつただ)の子である「長光」(ながみつ)の子、あるいは弟子にあたり、南北朝時代の主に延文年間に活躍したことから、別称は「延文兼光」(えんぶんかねみつ)。兼光の日本刀は当時から評価を得ていて、南北朝の軍記物語である「太平記」(たいへいき)にも「長船打の矢根をもって、鎧の前後二重にかけて、大の男の胸板を背へぐさと射通したり」という一文があり、兼光の日本刀の斬れ味の良さが述べられています。
1350年(正平5年)には、足利尊氏から太刀の制作の要望を受けており、兼光は第10代天皇である「崇神天皇」(すじんてんのう)を祀る天皇社の境内に鍛冶場を作って太刀を鍛えました。尊氏はこの太刀の褒賞として、兼光に屋敷を与えたと言います。
1658年(万治元年)に「御三家」の紀州徳川家の依頼で、刀剣鑑定を行なっていた「本阿弥家」(ほんあみけ)によって金7枚とした「折紙」(鑑定書)が発行されており、紀州徳川家にも伝来していたことがうかがえます。さらに、1713年(正徳3年)、本多忠晴が再度鑑定の依頼をし、新たに金15枚として折紙が発行されていたことが、当時の本阿弥家の記録台帳である「留帳」(とめちょう)の写しに記されていました。
したがって、伝倫光は、この時代に本多家へ伝来したのではないかと考えられています。