江戸時代において、尾張・紀州・水戸からなる「徳川御三家」に次ぐ家格を持っていた「徳川御三卿」(とくがわごさんきょう)。田安(たやす)・一橋(ひとつばし)・清水(しみず)の三家からなる御三卿は、江戸幕府第8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の子孫を当主とした大名家で、江戸城の田安門、一橋門、清水門内に屋敷を与えられたことから始まっています。 今回は、御三卿のうちのひとつである「一橋徳川家」のルーツと、一橋家に伝来した九州古典派の刀匠「豊後国行平」(ぶんごのくにゆきひら)の在銘刀についてご紹介します。
第8代将軍・吉宗は、徳川将軍家と御三家の血縁関係が薄くなっていたことから、将軍家の後継者を輩出する新たな家系を創設。吉宗の2男である「宗武」(むねたけ)には江戸城田安門内の屋敷を、4男である宗尹(むねただ)には江戸城一橋門内の屋敷を与え、それぞれの所在地の名称を取って田安家、一橋家と名乗るようになりました。
加えて、吉宗の長男である第9代将軍「家重」(いえしげ)の2男「重好」(しげよし:吉宗の孫)に清水門内の屋敷を与えて清水家を創設し、この三家を合わせて「御三卿」と呼ぶようになったのです。ちなみに、御三卿という名称の由来としては、三家の歴代当主が公卿(くぎょう)と称される職位に就いていたためと言われています。こうして、御三卿・一橋家の初代当主となった宗尹は、1746年(延享3年)に兄・宗武(田安家当主)と共に、幕府から10万石の領地を与えられました。
吉宗が将軍時代に武芸奨励を政策に取り入れていたことは有名ですが、そんな父の影響を受けてか、宗尹が最も熱中した趣味は「鷹狩り」でした。
当時、鷹狩りへ出掛けるのは年に10回までというルールがあったのですが、なんと宗尹は兄・宗武に交渉し、何度か鷹狩りの回数を譲ってもらっていたほど。1755年(宝暦5年)には、兄に獲物の鶴2羽を贈った記録も残されており、回数を譲ってもらったお礼だったと考えられるのです。
また、宗尹は多趣味だったため、武芸だけでなく工芸にも精通していたようで、陶器作りや染色も行なっていました。ときには自身で染めた手ぬぐいを家臣へ与えたことも。さらに、手作りの和菓子を兄・家重将軍や大御所となった父・吉宗に献じていた記録も残されており、1751年(宝暦元年)には病に臥せる吉宗に手作りの陶器も献じています。宗尹がいかに多芸多才な人物であったのかがうかがえる記録です。
実は、父・吉宗においても、宗尹の3男の御宮参りの際、手作りの人形を贈ったというエピソードがあります。お互いに手作りの物を贈り合う、仲睦まじい親子関係を築いていたのでしょう。吉宗は、自分と似た感性を持つ宗尹に対して、格別に愛情を注いでいたように感じられます。病床にある父・吉宗の面会に宗尹が訪れた際には、喜んで宗尹を病室に招き入れたそう。この翌日吉宗は亡くなりましたが、最期に最愛の息子である宗尹に会えたことで、安らかな眠りに就くことができたのかもしれません。
1764年(明和元年)、初代当主・宗尹が44歳で亡くなると、宗尹の4男である治済(はるさだ)が、13歳で家督を継ぎました。
宗尹には子どもが8人いましたが、長男の「重昌」(しげまさ)と3男の「重富」(しげとみ)は、越前松平家の養子に出して福井藩主となり、次男は幼いときに亡くなったため、残された治済が一橋家を継いで第2代当主となったのです。
こういった背景から、御三卿は将軍家の後継者を輩出するためだけではなく「大名家に養子を送り込む」という意図もあったのではないかと考えられています。
実は、治済は策略家として知られていました。江戸幕府の老中「田沼意次」(たぬまおきつぐ)と組んで、御三卿の田安家2代目当主の弟「定信」(さだのぶ)を久松松平家へ養子縁組させ、これによって田安家直系の後継者を排除していたのです。
3代目からは、一橋家の人間が養子となって継いでいるため、実質田安家は一橋家・宗尹の血筋ということに。さらに、治済の狙いはこれだけではありません。江戸幕府第10代将軍「家治」(いえはる)の世継ぎとして期待されていた「家基」(いえもと)が病死すると、将軍後継の対抗馬のいないまま、治済の長男「家斉」(いえなり)が候補となり、あれよあれよと第11代将軍の座に就くこととなったのです。治済の用意周到な工作によって、見事一橋家から将軍を輩出することに成功しました。
その後、治済は将軍・家斉の後見役として幕政にも関与するようになり、実父であることを理由に、みるみるうちに権威を振るうようになっていきます。ついに治済は、自分を大御所として西の丸入りさせることを要求するほどに。しかし、当時老中を務めていた「松平定信」(まつだいらさだのぶ)などの幕府の人間に反対され、この狙いが実現することはありませんでした。このとき、治済と家斉の怒りを買った定信は失脚しています。
こうして治済は、当時の江戸幕府と大きくかかわり合いながら一橋家を護り、1799年(寛政11年)、6男の「斉敦」(なりあつ)に家督を譲り、隠居することに。1827年(文政10年)、77歳でこの世を去りました。
3代当主「斉敦」(なりあつ)以降、およそ30年の間に当主が4代から8代まで交代していた一橋家。歴代当主は皆若くして亡くなり、1847年(弘化4年)に8代の「昌丸」(おさまる)が2歳で夭逝(ようせい)すると、治済の血統は途絶えることに。昌丸が亡くなった翌月、水戸徳川家の藩主「斉昭」(なりあき)の7男である慶喜(よしのぶ)が一橋家の養子となり、9代当主を継ぐこととなりました。
1858年(安政5年)、慶喜は幕府が天皇の勅許がないまま「日米修好通商条約」に調印したことを咎めるために、一橋派と共に一斉に不時登城(決められた日以外に江戸城に入城すること)します。
しかし、この行ないによって一橋派は隠居・謹慎を命じられることになるのです。さらに慶喜はこの頃、第13代将軍「家定」(いえさだ)の後継を巡って、紀州藩主「家茂」(いえもち)と共に有力候補のひとりとなっていましたが、家茂を推す南紀派に敗れ、将軍職もつかみ損ねていました。一橋家は将軍後継争いにも負け、当主(謹慎を命じられた慶喜)も不在という事態に陥ることに。
しかし、1860年(万延元年)に「桜田門外の変」で「井伊直弼」(いいなおすけ)が倒れると、一気に情勢は変わり、慶喜は謹慎を解かれて一橋家を再相続することになったのです。さらに、将軍・家茂の後見役にも任命され、慶喜は好機を得ることに。
こうして家茂との信頼関係を築いた慶喜は、1866年(慶応2年)家茂のあとを継いで将軍家を相続し、江戸幕府最後の第15代将軍を務めました。徳川将軍家の長い歴史の中でも、一度後継争いに負けた者が返り咲くという事態は、珍しかったのではないでしょうか。
慶喜が将軍家を継ぐと、一橋徳川家10代当主には、尾張藩主を務めていた「茂栄」(もちはる)を養子に迎えて継がせました。こうして一橋家は、江戸時代の終幕を見届けながら、1884年(明治17年)に華族令により伯爵を授けられて、一橋徳川伯爵家となったのです。
将軍を輩出し、御三卿の中でも将軍家に親しい存在となっていた一橋家。多くの大名家に養子を送り出し、一時は「一橋家が天下を取るのでは」と噂されたことも。そんな一橋家の家格を表すかのように、一橋家には南北朝期の刀匠「信国」(のぶくに)の名刀や、変わり兜、最も著名な刀装金工・後藤家の刀装具なども伝来していました。
その中から、刀剣ワールド財団に所蔵されることとなった「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)の「御番鍛冶」で知られる「豊後国行平」の在銘刀をご紹介します。
時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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鎌倉時代 初期 | 特別重要刀剣 | 一橋徳川家伝来→ 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |
鎌倉時代初期の特徴でもある踏張り(ふんばり)があり、先幅が細く小鋒/小切先である古雅な太刀姿をしています。行平の作風を存分に感じられる刀身で、同作の中でも非常に保存状態が良く希少な作品。また、当時は珍しかった佩裏(はきうら)に銘を彫る行平独自のスタイルも見受けられます。
さらに、金梨子地(きんなしじ)に徳川家の「葵紋」を散らした、極めて芸術性の高い太刀拵え(こしらえ)と、江戸幕府に刀剣の鑑定や研磨で仕えていた本阿弥(ほんあみ)家11代当主「本阿弥光温」(ほんあみこうおん)による、1661年(寛文元年)に代金子5枚と極めた「折紙」(鑑定書)が付帯しています。品格を感じる本刀は、まさに一橋家の歴史にふさわしい1振だと言えます。