「因州池田家」(いんしゅういけだけ)は、因幡国(いなばのくに:現在の鳥取県東部)と伯耆国(ほうきのくに:現在の鳥取県中部・西部)を領有した「鳥取藩」の歴代藩主を務めた大名家で、初代藩主「池田光仲」(いけだみつなか)からおよそ240年間、12代に亘って鳥取藩を存続させました。今回は、鳥取藩のルーツから因州池田家による藩政を振り返っていくと共に、因州池田家に伝来したと言われている「恒光」(つねみつ)の太刀をご紹介します。
戦国時代、小大名による勢力争いが頻発していた因幡国と伯耆国。中国地方の統一を画策する「織田信長」に仕えていた「豊臣秀吉」が、鳥取城主である毛利氏を討ったことで、因幡国が信長の配下となりました。
このとき、秀吉は兵糧攻めで鳥取城を攻略しましたが、城内では餓死者が続出。食糧を食べ尽くしてしまった者達が人肉を喰いあさるといった地獄絵図が広がっていたと言われています。
信長の死後、秀吉の家臣が鳥取城主となり、中国攻めの際に武功を挙げた「宮部継潤」(みやべつぐひろ)が6万石で入封。しかし、継潤の後継となった「長煕」(ながひろ)は、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」で「石田三成」を中心とした西軍に属したため改易となり、「池田輝政」(てるまさ)の弟である「長吉」(ながよし)が鳥取藩に入封しました。
兄・輝政は家康の家臣として武功を挙げた武将で、播磨国姫路(はりまのくにひめじ:現在の兵庫県南西部)52万石の藩主として「姫路城」を築城したことで知られている人物。こうして長吉は、兄の出世にあやかって鳥取藩主の地位を獲得したのでした。
1617年(元和3年)、長吉の跡を継いだ「長幸」(ながゆき)に代わって、「姫路藩」から池田宗家3代目の「光政」(みつまさ)が転封してきます。光政は当時8歳の幼君で、幕府から「山陽道」の要所である姫路藩を任せることはできないと判断され、国替えを行なうこととなったのでした。
このとき、因幡国と伯耆国からそれぞれ廃藩となった領地を統合して、鳥取藩32万石を池田家が拝領することに。旧領地の姫路藩における光政の石高が42万石だったことから、実際は10万石の減封でした。
そのため、入封当初は家臣の知行(ちぎょう:武士に支給された俸禄)分配に苦労。そこで光政は、鳥取城の増築と城下町の拡大に着手します。下級家臣は、村里へ出て普段は農民として生活し、藩から招集されたときに武士となる「半農半士」として暮らすようになったと言われているのです。
1632年(寛永9年)、光政の叔父にあたる備前国岡山(びぜんのくにおかやま:現在の岡山県)藩主の「池田忠雄」(いけだただかつ)が亡くなります。家督を継いだ忠雄の嫡男「光仲」(みつなか)はわずか3歳だったため、鳥取藩への国替えを命じられることに。
もともと幼君を理由に鳥取藩主となった光政は、今度は反対の立場で転封することになったのです。16年間鳥取藩主を務めた光政は、のちに岡山藩で名君と称えられることとなりました。
光政と国替えをして鳥取藩に転封となった光仲。以後、鳥取藩は光仲の家系に受け継がれ、ここに光仲を初代とする因州池田家が誕生しました。このときまだ光仲は幼君だったため、しばらく鳥取の地へは渡らずに江戸で養育されます。その間、鳥取藩の藩政は家老に委ねられていたのです。
1648年(慶安元年)、19歳になった光仲は、鳥取に入国します。鳥取藩は、因幡国と伯耆国の二国に及ぶ広大な領地だったため、有力家老に知行地を分与して、その土地の統治を任せる「自分手政治」 (じぶんてせいじ)と呼ばれる制度を導入。
特に、伯耆国米子(よなご:現在の鳥取県米子市)を任された「荒尾成利」(あらおしげとし)と、伯耆国倉吉(くらよし:現在の鳥取県倉吉市)の「荒尾嵩就」(あらおたかなり)は池田輝政の従兄弟ということもあって、兄弟で重用されていました。
鳥取藩の初代藩主・光仲は、「徳川家康」の曾孫。そのため、外様大名でありながら松平姓と徳川家の家紋である「葵紋」の使用を許されるなど、親藩さながらの家格を与えられていました。こうした事情を背景として、藩主である自身を中心とした政治体制を固めていきます。
着任後から対立を深めていた筆頭家老・荒尾成利については、幕閣に働きかけることで隠居に追い込むことに成功。このような光仲の手法によって、鳥取藩政が確立していったのです。
1685年(貞享2年)、初代藩主・光仲の隠居に伴い、嫡男の「綱清」(つなきよ)が2代藩主となると、光仲は次男の「仲澄」(なかずみ)に2万5,000石を新田分地して鳥取東舘新田藩 (とっとりひがしだてしんでんはん)を立藩。
また、1700年(元禄13年)には、2代藩主・綱清が異母弟である「清定」(きよさだ)に1万5,000石を新田分地して鳥取西舘新田藩 (とっとりにしだてしんでんはん)を立藩します。
のちにこの2つの藩は、それぞれ「鹿野藩」(しかのはん)と「若桜藩」(わかさはん)と呼ばれ、鳥取藩の支藩に。こうして鳥取藩は、明治維新まで2支藩体制で歩むこととなりました。
3代藩主となった「吉泰」(よしやす)の時代には、城下や江戸屋敷で火災が起こり、風水害による災害も被ったため、藩財政は一気に傾くこととなります。吉泰は財政再建に努めましたが、飢饉や凶作が重なると、農民達は一揆を起こし、藩政は安定しない状態が続きました。その後の藩主達は、幼君や短期間の在位などが続き、藩政改革を思うように行なえないまま鳥取藩は困窮・衰退していったのです。
厳しい藩運営に、さらなる大打撃を与えた出来事が9代藩主「斉訓」(なりみち)の時代に起こった「天保の大飢餓」。冷害や風水害により1833~1837年(天保4~8年)に亘って続いた江戸時代最大規模の飢餓は、日本全国に大きな被害をもたらしました。
鳥取藩では、この飢餓を「申年がしん」(さるどしがしん)と呼んでいましたが、餓死を意味する方言「がしん」と、鳥取で最も被害を出した1836年(天保7年)が申年だったため、この名で語り継がれるようになったのです。
1850年(嘉永3年)に鳥取藩として最後の藩主となった12代藩主「慶徳」(よしのり)。彼は江戸幕府最後の将軍である15代将軍「慶喜」(よしのぶ)の兄に当たります。もともと徳川家との関係が深かった鳥取藩ですが、慶徳が藩主となったことで、さらに家格を意識することとなったのです。
慶徳は、常陸国水戸(ひたちのくにみと:現在の茨城県水戸市)藩9代藩主を務めた父・斉昭(なりあき)に倣い、財政改革、軍制改革、学制改革などを推進していきました。
その後、「大政奉還」(たいせいほうかん)へと発展していく中で、徳川家との関係が深い鳥取藩は、立場に悩みつつも家老達の進言もあり新政府軍に加勢。鳥取藩兵達は、官軍として東北へ出兵した際に活躍したことで知られています。こうして1871年(明治4年)の「廃藩置県」(はいはんちけん)によって、鳥取藩は鳥取県となりました。
現在、鳥取県鳥取市国府(こくふ)町には「鳥取藩主池田家墓所」があります。この地は、1693年(元禄6年)、初代藩主・光仲が逝去した際に埋葬された場所で、光仲を継いだ11人の藩主も、この墓所に眠っています。
また、藩主達の墓だけでなく、正室、側室や子、支藩の藩主の墓も一部建立。1923年(大正12年)に起こった関東大震災を機に改葬され、1981年(昭和56年)に国の史跡に指定されました。
明治維新後、15代将軍・慶喜の5男として生まれた「池田仲博」(なかひろ)は、1890年(明治23年)に因州池田家の婿養子となって家督を継ぎ、14代当主となった侯爵です。因州池田家に伝来する恒光(つねみつ)の太刀が重要美術品に指定された際、仲博が所持していたことが分かっています。
恒光は古備前の刀工で、平安時代末期から同名工が数代続いており、本刀には「正安三年」の年紀が入っていることから、鎌倉時代末期に備前長船派として活躍した恒光ではないかとの説が有力。これにより、古備前が平安時代末期から鎌倉時代末期まで継続していたことが分かる、歴史資料としても貴重な1振です。
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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正安三年四月日 恒光 |
鎌倉時代 | 重要美術品 | 因州池田家伝来→ 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |