「堀川国広」(ほりかわくにひろ)は、桃山時代を代表する刀工。優れた技術を誇っただけではなく、多くの弟子を育てたことでも有名です。彼らは「堀川一門」と呼ばれています。ここでは、新刀の第一人者と称される堀川国広についてご紹介します。
国広は、本名を「田中角左衛門」と言い、武士の子として生まれました。父と共に、日向国・飫肥城(ひゅうがのくに・おびじょう:宮崎県日南市)の歴代城主を務めた「日向伊東氏」(ひゅうがいとうし)の家臣であったと言われています。
しかし、日向国・佐土原城(さどわらじょう:宮崎県宮崎市)の城主「伊東義祐」(いとうよしすけ)が、日向伊東氏11代当主であった時代の1577年(天正5年)、日向伊東氏は島津氏との戦いに敗戦。
姻戚である豊後国(現在の大分県)の「大友宗麟」(おおともそうりん)を頼って、日向伊東氏が本拠としていた飫肥の地を離れてしまいました。
このとき、国広は、日向伊東氏には同行せず、日本刀作りの技術を学ぼうと、日向国や豊後国の刀工を巡る旅に出るのです。
現在、残っている国広最古の日本刀は1576年(天正4年)の物。伊東家ゆかりの人物から注文を受けて作りました。銘文には「日州古屋在之住」(日州とは日向国の別名)とあり、この頃はまだ、日向を拠点に生活していたことが分かります。
国広の父は、修験者(山伏)でもありました。九州最大の修験道の修行地・英彦山(ひこさん:現在の福岡県と大分県にまたがる山)はもちろん、修行地の遺跡が今でも多く残る国東半島で国広の父も修行をしたに違いありません。実は、国広も父と共に修験道修行を志し、刀工修行は暮らしをたてるためだったとの説も。
しかし、国広は山伏も刀工もひとつの物、また、父のように、武士でもあり山伏でもあることをごく自然に受け入れて修行をしたのではないかと考えられます。
例えば、1584年(天正12年)に作られた作品には、「日州古屋之住国広山伏之時作之」との銘。一般に「山伏国広」と呼ばれる名刀です。この刀には、「武運長久」の文字、立ち不動王が彫られています。ここで国広は自らを「山伏」と名乗っており、山伏と刀工、両者を一体として修行を行なっていたと考えられるのです。
豊後国平高田(現在の大分県豊後高田市)や筑前(現在の福岡県)は、刀工達で栄えた土地でした。英彦山、国東半島、豊後国、日向国は、国広にとって、父が修行した馴染み深い土地であり、同時に修験者修業をしながら刀工としての腕をみがくにはうってつけの場所だったのです。
国広の主・日向伊東氏は、先述の通り、1577年(天正5年)島津氏に敗れた際、大友宗麟に匿って貰うため身を寄せました。
しかし、1578年(天正6年)、匿った大友宗麟が島津氏に破れ衰退。さらに1588年(天正16年)、今度は豊臣秀吉の島津攻めによって島津氏が劣勢となり、この年、日向伊東氏は日向飫肥城に入りました。
その頃、国広は、下野国(現在の栃木県)の足利学校に入学していたと言われています。足利学校は、平安時代後期から鎌倉時代に開校したとされる教育機関。室町時代から戦国時代には高い教育力を持ち、儒学や兵学、医学を学ぶために全国から入学者が絶えませんでした。
国広は足利学校で学び、1590年(天正18年)には、足利城主・長尾顕長のために日本刀を作っています。有名な「山姥切国広」(やまんばぎりくにひろ)です。
「写し」を依頼した長尾顕長は、秀吉の小田原征伐で北条氏に加勢。北条氏の敗北により領地を没収され、山姥切国広は北条氏の遺臣・石原甚五左衛門の手に渡りました。石原は妻と共に信州小諸へ向かうとき、生まれたばかりの子どもを老婆に食われそうになりますが、山姥切国広で老婆を切ったところ、老婆の姿は消えてしまった逸話が残されています。
また、山姥切国広は、関東大震災で消失したと言われていましたが、近年、井伊家ゆかりの人物が所蔵していたと分かりました。名刀ゆえに、こうしたエピソードには事欠かないと言えそうです。
1585年(天正13年)には、「日向在信濃守国広作」と銘のある日本刀があり、「信濃守」(しなののかみ)に任じられたようです。これには諸説あり、刀工としての任官か武士としての任官か等、詳細ははっきりしていません。
その翌年、作刀された脇差には、「藤原国広在京時之打」の銘があり、国広はこの頃すでに京都にも拠点を持っていたことが分かります。もちろん、作刀技術を学ぶことに邁進。小田原相州(現在の神奈川県)や島田(現在の静岡県)、加えて美濃(現在の岐阜県)の大道との合作も残されています。各地で修行していたのです。
また国広は、1587年(天正15年)、秀吉の朝鮮出兵・文禄の役に参加し、朝鮮で活躍したと言われています。刀工達のまとめ役として、刀作りや刀の修理を請け負っていたと言いますが、残念ながら、朝鮮半島で作った日本刀は現存しないため事実であるかどうかは確認できません。また、石田三成に仕え、三成の下で日向検地に参加したとも言われています。刀工としてはもとより、武士としても積極的に働いたのです。
そんな国広も、1599年(慶長4年)から亡くなる1614年(慶長19年)まで、京一条堀川にようやく定住。ここで多くの弟子を育てます。
年齢を重ねて、国広の心境も落ち着いたためか、堀川に移住するようになってからは、これまでとは異なる作風の日本刀を作るようになりました。そのため、定住までの日本刀を「天正打」、定住後を「堀川打」と呼んで、区別しています。
天正打が豪壮で朴訥なのに対し、堀川打は円熟した技巧で作られ、前者は長く、反りが深く、後者は反りの浅く身幅の広い物。刃文は、前者が沸にまかせた大互の目乱で、後者はより細かく粒がそろっていて美しい物と、その特徴は真逆です。
この頃に作られた日本刀のひとつが、幡枝八幡宮(京都市左京区)に寄進され、現在、東京国立博物館に残っています。
国広はこの神社に優れた刀工になれるよう、日頃からお参りを欠かしませんでした。古希を機に、大願成就のお礼として神前での刀鍛冶を行ない、その刀を奉納。これには、「幡枝八幡宮 藤原国広造 慶長二年八月彼岸」との銘が刻まれました。
なお、幡枝八幡宮の境内には岩清水が湧いており、国広が刀鍛冶に使った水と伝わっています。
また、この時期に多くの弟子を育てたことも有名です。門人には、出羽大掾国路、国安、大隅掾正弘、越後守国儔、和泉守国貞、河内守国助、山城守国清等の名工が多数。
彼らは「堀川一門」で、一門の作は「堀川物」と呼ばれています。国広の掘川打には、一門の弟子の代作が多いと言われますが、これは師匠・国広と弟子が切磋琢磨しあい、距離が近かったことの証。国安は国広の弟で、国広の兄弟には戦死した者もおり、残った家族を京都に呼び寄せ、一緒に刀工として働こうという国広の気持ちが垣間見えます。国安は「正宗」の写し等が得意だったようです。
また、出羽大掾国路は美濃系統の刀鍛冶だとする説が有力。そこには、出身地にこだわらず良い日本刀を作るという国広の願いがあったのです。
そして国広は、1614年(慶長19年)に亡くなりました。生年ははっきりしませんが、80歳前後まで生きたと言われ、当時としては珍しい長寿。乱世に生まれながら、刀工としての人生を全うしたと言えます。