「能登国」(のとのくに)は、現在の石川県能登半島に位置し、日本海が入り込む七尾湾に囲まれた能登島や美しい海岸線など古代から景勝地が多いことで有名です。能登国は、足利一門である「畠山氏」が代々「守護職」を務めました。11代に亘る「能登畠山氏」の歴史を振り返ると共に、畠山氏に伝来した「吉岡一文字」(よしおかいちもんじ)の名刀をご紹介します。
畠山氏は、1391年(明徳2年)、足利一門の「畠山基国」(はたけやまもとくに)が能登守護職に就任すると、翌年には幕府の侍所当人に起用され、さらに山城国(やましろのくに:現在の京都府南部)の守護職と、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の守護職も兼任するなど、室町幕府において目覚ましい活躍を見せていました。
さらに1398年(応永5年)には幕府の管領の地位にまで上りつめ、紀伊国(きいのくに:現在の和歌山県、三重県南部)の守護職の座も手に入れることに。こうして畠山氏は、基国の時代に各地に基盤を固め、「細川氏」(ほそかわし)、「斯波氏」(しばし)と並ぶ足利一門の「三管領家」として、地位を確立させました。
1406年(応永13年)に55歳で基国が亡くなると、嫡男の「満家」(みついえ)が室町幕府3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)の怒りを買って蟄居(ちっきょ:自宅の一室に謹慎させる刑罰)。そのため、次男の「満慶」(みつのり)が家督を継ぎました。
しかし、1408年(応永15年)に将軍・義満が逝去すると、満慶は自ら畠山家当主の辞退を幕府に申し出て、兄・満家に譲ることを認めてもらいます。この弟の善意に感謝した満家は、父の代から引き継いだ守護分国4ヵ国のうちの「能登国」を満慶に与えました。
こうして、管領家畠山氏の有力分家となる「能登畠山氏」が、満慶を初代として誕生したのです。
室町時代後期になると、管領家である畠山氏と斯波氏の家督争いを発端に、将軍家の相続問題も絡み合って「応仁の乱」へと発展していきます。
この争いによって、畠山氏一族の間にも亀裂が入ることに。初代・満慶から家督を継いで2代目当主となった「義忠」(よしただ)は、家督争いで畠山宗家を支持したため、応仁の乱では「山名宗全」(やまなそうぜん)率いる西軍に属しました。
1477年(文明9年)、およそ10年に亘って続いた応仁の乱が終息すると、能登畠山3代目当主「義統」(よしむね)は、8代将軍「足利義政」(あしかがよしまさ)の弟である「義視」(よしみ)と共に出京し、しばらく美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)に滞在したあと、翌年の1478年(文明10年)に能登国に下りました。
これ以降20年間に亘って鹿島郡八田郷府中(かしまぐんやたごうふちゅう:現在の七尾市府中町)に置かれた守護所を拠点とし、義統はここから改めて能登国支配の礎を築いていったのです。
1497年(明応6年)、能登畠山氏の政治的安定を担っていた義統が亡くなると、有力家臣達による4代目当主の後嗣争いが勃発します。
嫡男「義元」(よしもと)派と次男「慶致」(のりむね)派に分裂して抗争を繰り広げましたが、義元が家督を継いで1506年(永正3年)に両派は和睦。一度追放されたのちに6代目当主にも復帰した義元は、慶致の子である「義総」(よしふさ)を後継者として指名しています。その後、能登で起こった内乱の際には、両者が協力して鎮圧を行なっていきました。
能登の七尾城は、七尾湾が一望できる石動山(せきどうさん)系の最先端に位置する山城で、城郭の中核部にあたる本丸は、標高300mの尾根上に築かれました。
しかし、16世紀前半に築城されたと言われている七尾城は、城とは言うものの小規模な建造物だったため、畠山家は府中に守護所を置いて活動をしていました。
その後、時代の流れと共に増築、改修が進められ、5代目・慶致の頃には七尾城は居城となり、守護所も城内に置かれるようになったのです。畠山家の能登における新しい本拠地として城下町も整備され、府中にあった家臣団屋敷のほとんどが七尾城下に移転してきました。
7代目「義総」(よしふさ)は文芸を愛好していたため、京都から公家や禅僧、歌人などの多くが訪れ、城下町は大いに繁栄しました。また文化が興隆したことで、家臣からも文化的教養に富んだ人材が多く輩出されたと言います。
義総による30年間の統治時代は能登畠山氏の最盛期となり、七尾の発展と共に、安定した平穏な時代が築かれました。
1545年(天文14年)、能登の平和を築いた義総が死去すると、政治的混乱の時代が訪れます。
8代目「義続」(よしつぐ)の代には、畠山家の重臣で構成される「畠山七人衆」が実権を握ることとなり、守護である義続は傀儡化(くぐつか:あやつり人形のように言いなりに動いて利用されること)してしまうことに。
その後も畠山家は9代目、10代目と実権を握っては没落を繰り返し、畠山家の権力は次第に衰退の道を辿っていくこととなったのです。
こういった混乱の中で10代目「義慶」(よしのり)が変死を遂げると、弟である「義隆」(よしたか)が家督を継いで11代目当主となりましたが、1576年(天正4年)越後国(えちごのくに:現在の新潟県)から「上杉謙信」(うえすぎけんしん)が能登攻略のため侵攻し、翌年に至るまで能登各地で交戦が繰り広げられることに。
このとき、七尾城は上杉謙信の猛攻に1年以上耐えたことから、のちに天下屈指の堅城と讃えられました。しかし、この間に11代目・義隆が、七尾城で病死。統制の取れない畠山家は、猛攻に耐えてきたものの上杉謙信の包囲の前にあえなく落城となり、これをもって能登畠山氏は滅亡したのです。
その後、七尾城は謙信が派遣した上杉家の家臣「鰺坂長実」(あじさかながざね)と、畠山七人衆のひとりである「遊佐続光」(ゆさつぐみつ)が管理することになりました。
能登畠山氏の黄金時代を築いた7代目・義総は、七尾の町が「小京都」と呼ばれるようになるほど能登の発展に貢献しました。義総の佩刀だと伝わる本刀は「吉岡一文字」の作品で、鎌倉時代において「長船派」(おさふねは)と並んで、備前物の二大巨頭とされる「一文字派」(いちもんじは)の流れを汲む1振です。
吉岡一文字は、一文字派の代表格である「福岡一文字」に続いて鎌倉時代後期に吉岡という地で繁栄した刀工集団。福岡一文字の祖と言われる「則宗」(のりむね)の子「助宗」(すけむね)の孫である「左衛門尉助吉」(さえもんじょうすけよし)を祖として、一派の代表工は「助」を通字にしていたようです。
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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無銘 | 鎌倉時代後期 | 重要美術品 | 能登畠山家伝来→ 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |