江戸幕府初代将軍「徳川家康」の次男「結城秀康」(ゆうきひでやす)は、武勇の士と称されていたものの、母親の身分が低いこと等のため、父である家康から冷遇され不遇な人生を送った人物です。幼いときに人質のようなかたちで「羽柴(豊臣)秀吉」(はしば[とよとみ]ひでよし)の養子となり、その後、北関東の大名である結城氏の婿養子となって結城姓を名乗るようになった秀康は、一度も徳川姓を名乗ることはありませんでした。 今回は、そんな彼の跡を継ぎ、結城家を継承した「結城直基」(ゆうきなおもと)を初代当主とする「前橋松平家」(まえばしまつだいらけ)の歴史を中心に、前橋松平家に伝来した「越前国住兼法」(えちぜんのくにじゅうかねのり)の名刀についてご紹介します。
結城秀康(ゆうきひでやす)の5男として生まれた直基(なおもと)は、秀康の義父である「結城晴朝」(ゆうきはるとも)に育てられ、1607年(慶長12年)結城家の家督を相続しました。養祖父・晴朝が亡くなってからは松平姓を名乗るようになりましたが、その後も結城家の家紋を用いてその祭祀を継承していたようです。
1624年(寛永元年)、秀康の長男で、秀康の後継として越前国福井藩(えちぜんのくにふくいはん:現在の福井県嶺北中心部)の藩主を務めていた「松平忠直」(まつだいらただなお)が、乱行により改易処分となります。そして、弟の直基は兄に代わって越前国内で勝山藩(かつやまはん:現在の福井県勝山市)3万石を受領。
さらに1635年(寛永12年)大野藩(おおのはん:現在の福井県大野市)5万石を経て、1644年(正保元年)には、直基と同じく家康の孫にあたり、名君として知られる「保科正之」(ほしなまさゆき)の転封(てんぽう:領地を他に移すこと。国替え)を受けて、直基が出羽国山形藩(でわのくにやまがたはん:現在の山形県山形市)15万石の藩主を務めることになります。
その4年後には再び転封を命じられ、奥平松平(おくだいらまつだいら)家の幼君に代わり、姫路藩主を務めることとなりました。そして、およそ25年の間に各地を転々とした直基は、姫路に入封(にゅうほう:領地を与えられること)したわずか2ヵ月後、藩主の準備期間中に急死してしまったのです。
直基が急死したことにより、当時まだ7歳だった直基の長男「直矩」(なおのり)が松平直基家の家督を相続することに。しかし、姫路藩は本州の瀬戸内海側に位置する山陽道の拠点として重要な役割を持っていたため、幼君には任せられないという理由で、幕府から転封を命じられ、直矩は越後国村上藩(えちごのくにむらかみはん:現在の新潟県村上市)へと移りました。
当主になると共に転封を命じられた直矩には、「引越し大名」という異名があります。その名の通り、成人後も各地へ移動を重ねる直矩。一度は姫路に戻るも、越後松平家の御家騒動、いわゆる「越後騒動」に巻き込まれたことで、豊後国日田藩(ぶんごのくにひたはん:現在の大分県日田市)に移ることとなり、しばらくすると、今度はかつて父がいた出羽国山形藩に移ります。
その後、さらに陸奥国白河藩(むつのくにしらかわはん:現在の福島県白河市)への転封を命じられました。南から北へ何度も転封を重ねた直矩は、その移転経費のために藩に多大な借金を抱えさせることとなってしまったのです。
引越し大名・直矩の死去により、17歳で陸奥白河藩主となった3代目の「基知」(もとちか)。
父の代からの莫大な借金は、その後もふくれあがる一方でしたが、藩政では農民への厳しい租税取り立てを行なうことしかできませんでした。そこから藩内対立を引き起こし、挙げ句の果てには百姓一揆が勃発。藩内が荒廃したまま次代へと引き継がれることになります。
その後も藩財政は悪化したまま、5代目で上野国前橋藩(こうずけのくにまえばしはん:現在の群馬県前橋市)に転封となります。
こうして前橋松平家は前橋城を居城として、やっと前橋藩に落ち着くかと思われた矢先、ここへ来てまだ彼らには困難が待ち受けていました。
前橋城は利根川を天然の堀として利用する名城でしたが、この利根川は「日本三大暴れ川」とも呼ばれるほどの激流による氾濫被害を及ぼす川で、城地は年々浸食されるという問題を抱えていました。5代目当主の「朝矩」(とものり)が入城したときには、すでに本丸まで浸水している状態だったとのこと。
そこで前橋藩は、藩庁を領内にある武蔵国川越城(むさしのくにかわごえじょう:現在の埼玉県川越市)へと移すこととなりました。
その後、幕末に再建した前橋城へと戻ることになりますが、このときの居城移転から、前橋松平家ではなく「川越松平家」と表記されている書もあります。前橋藩は、川越藩の代官支配となってからも、相変わらず藩財政再建の目途は立たず、財政破城という状況に陥っていました。
5代目・朝矩の次男「直恒」(なおつね)は、7歳で家督を継ぎ、6代目としての治世は40年間以上。しかし、藩財政に対する政策を行なった訳ではなく、代々の藩主と同様に無策だったため、借金が減ることはありませんでした。この頃、前橋松平家は金利の支払いすら追いつかないほど、困窮していたと言います。
直恒の4男「斉典」(なりつね)が8代目当主となると、ようやく前橋松平家に財政再建への兆しが見えてきます。今までの無策を省みて藩政改革を積極的に行なううちに、ある奇策を考え出します。
江戸幕府11代将軍「家斉」(いえなり)の24男である「斉省」(なりさだ)を、前橋松平家の家督相続人になるよう養子として迎え入れ、さらに、当時裕福だった庄内藩への国替えを工作したのです。斉典の工作は成功し、転封の幕命が下りた際も、庄内藩の領民は前橋松平家の転封に抵抗し江戸に直訴されるほどになりました。
しかし、転封が停滞しているその間に、なんと将軍・家斉も、養嗣子となるはずだった斉省も死去してしまうという最悪の事態を迎えてしまったのです。結局、幕命は撤回。前橋松平家は、あと一歩のところで絶好のチャンスを逃してしまいました。
財政難から抜け出せなかった前橋松平家は、時代の流れと共にある恩恵を受けることとなります。外国船の到来にそなえて相模湾の警備を担当したのです。1853年(嘉永6年)のペリー来航時も同様でした。
その後の開港で、前橋の特産物である絹が第一の輸出品となり、前橋は次第に賑わいを見せるようになります。さらに横浜が開港すると、北関東等で生産された絹糸が大量に欧米へ輸出されるように。そのため、絹の集積地であった前橋は利益を上げ、少しずつ藩財政が潤うようになっていきました。
絹糸の輸出で財政状況の建て直しを遂げた前橋松平家は、11代目当主「直克」(なおかつ)の代に前橋城を再建して前橋へ戻り、前橋藩を明治維新まで存続させました。
数々の転封を繰り返し、引越し貧乏だった前橋松平家。そんな前橋松平家にも、ある名刀が伝来しています。
初代当主である直基の父・結城秀康の越前結城家(松平家)のお抱え鍛冶だった「越前兼法」(えちぜんかねのり)は、もともと美濃(みの:現在の岐阜県)の名匠として有名な人物。彼の作品には、本刀にも刻まれているように「慶長五年三月日」や「慶長十二丁未八月吉日」といった年紀を記した物が残っており、兼法が活躍した時期を証明するための貴重な役割を果たしています。また、現存する作品は少ないものの、全体的な特徴や茎(なかご)にかけられた鑢目(やすりめ)が鷹の羽になっていることから、室町時代末期の美濃色が色濃く示されています。
本刀は、兼法が特別丹念に鍛え上げた日本刀だと考えられており、観る者を圧倒する豪壮な姿に、刃文乱舞する華やかな作品です。刀身には、装飾彫りが施されています。表には二筋の樋である「護摩箸」(ごまばし)に、裏には 「素剣」(すけん)が彫られ、これらは密教において煩悩を退治するシンボルを表します。さらに表裏同様に「梵字」(ぼんじ)も彫られています。
兼法の作品の中でも神韻を帯びた本刀は、室町時代末期の美濃を代表する貴重な1振です。
銘 | 時代 | 鑑定区分 | 所蔵・伝来 |
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越前国住兼法 (慶長五年三月日) |
安土桃山時代 | 重要刀剣 | 前橋松平家伝来→ 刀剣ワールド財団 〔 東建コーポレーション 〕 |