1563年(永禄6年)に生まれた細川忠興(ほそかわただおき)と細川ガラシャ。この同級生カップルの夫婦関係を示す逸話にこんなものがある。ある日、2人が庭先で食事をしていたときのこと。庭師がガラシャに見とれていたと激高した忠興は、庭師の首を切り落とし、刀に付いた血をガラシャの着物で拭うという暴挙に出た。ところがガラシャはその惨状をものともせず、食事を続け、汚れた着物を数日間着続けたと言う。そんな姿を見て忠興が「蛇の様な女だな」と言うと、ガラシャは冷ややかな表情で「鬼の女房には、蛇がお似合いでしょう」と答えた。嫉妬に狂う夫と冷めた妻。この温度差が生まれるまでの夫婦の歴史を振り返ってみよう。
1584年(天正12年)3月、豊臣秀吉のはからいで、ようやくガラシャは細川家の大坂屋敷に戻った。再びともに暮らすようになった忠興とガラシャだが、2人の間に入った小さな亀裂は広がるばかり。うつ状態に陥っていたガラシャは忠興から聞いたカトリックに救いをもとめるようになる。
イエズス会の宣教師、ルイス・フロイスが書いた「日本史」によると、ガラシャの心が自分から離れていくのを察したのか、嫉妬心によるものか、この頃から忠興はガラシャの行動を厳しく監視するようになる。屋敷を出入りする者を記録し、伝言を残すことも許さなかったという。
ガラシャは教会に出かけることができないため、侍女の「いと」を教会に通わせて洗礼を受けさせ、1587年(天正15年)に忠興が九州征伐に出陣している間に、自室でいとの手によって洗礼を受けた。
ガラシャの心は洗礼を受けことで、落ち着きを取り戻していく。もともと気高く気性の激しい性格だったが、明るく穏やかになり、周囲にも優しく接するようになったという。
一方、九州征伐から戻った忠興は、ガラシャの洗礼に激怒し、棄教させようとする。しかし、ガラシャは頑としてこれを拒否。すると忠興は「側室を5人持つぞ」と宣言。一夫一婦制を理想とするキリシタンへの当てつけか、嫉妬させたいという幼稚な発想か、いずれにしても、ままならないガラシャをなんとかしたいという思いから出たこの言葉は、逆にガラシャの心を遠ざけてしまう。
離婚を考えるようになったガラシャは宣教師に相談するが、カトリックでは離婚を認めていないため、説得されて思いとどまっている。
冒頭の「鬼の夫に蛇の妻」の逸話はこの頃のものだろう。
離婚を願っていたガラシャだが、別れは突然、自らの死という形で訪れる。
1600年(慶長5年)、忠興は「自分が不在中、妻の名誉に危険が生じたら、まず妻を殺して全員切腹せよ」と家老の小笠原秀清(おがさわらひできよ)に言い残して上杉征伐に出かけた。
その留守中に、石田三成が細川家の屋敷を囲み、ガラシャに人質になるように迫ったのだ。
ガラシャはこれを拒否。侍女達を逃がし、細川家の家臣の小笠原秀清に介錯させて亡くなった。このとき、小笠原秀清は逃げることをすすめたが、ガラシャは「夫の言い付け通り、私は自害します。一歩も屋敷から出ることはありません」と断った。
その後小笠原秀清はガラシャの遺体が残らないように、屋敷に爆薬を仕掛け火を放ち、他の家臣とともに自害した。
ガラシャの壮絶な死を知った忠興は、棄教まで迫ったキリスト教式の葬儀を行ない、豊前小倉藩ではキリスト教を保護して、ガラシャの菩提を弔ったという。
また、侍女達とともに長男、忠隆の嫁が逃げていたことが分かると、忠孝はこれに激怒し、忠隆に離縁するよう命じ、忠隆がこれを拒否すると、勘当して廃嫡してしまった。
ガラシャを愛するがゆえにクレイジーな言動を執ってしまう忠興と、離婚したいほど嫌っていたはずなのに最後は頑なに夫の言葉を守って死んでいったガラシャ。気の強さは似た者同士。最後には二人の心は通じ合っていたのではないかと思えてならない。