戦国愛のカタチ

足利義満と世阿弥の麗しきボーイズラブ
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日本の歴史を振り返ると、「腐女子」(ふじょし)と呼ばれるBL(ボーイズラブ)ファンの女子達が喜びそうなエピソードに事欠かない。中でも絵になりそうなのが足利義満と世阿弥(ぜあみ)のカップル。室町幕府の若き三代目将軍と、見目麗しき少年猿楽師(しょうねんさるがくし)、世阿弥との浮き名はBLファンの妄想をかきたてる。

義満と世阿弥の出会い

足利義満は1358年(延文3年)、室町幕府2代将軍足利義詮(よしあきら)のもとに生まれた。義詮が病死したため、10歳という若さで将軍に就任。南北朝を合一して幕府の基盤を確固たるものにする一方、金閣寺として知られる鹿苑寺(ろくおんじ)を建立するなど、北山文化の繁栄に寄与した。

  • 足利義満

    足利義満

  • 鹿苑寺(金閣寺)

    鹿苑寺(金閣寺)

世阿弥は1363年(正平18年/貞治2年)、人気猿楽師、観阿弥(かんあみ)のもとに生まれた。

猿楽とは現代でいう能のこと。奈良時代に唐(中国)から伝来した散楽(さんがく)をルーツにしていて、軽業や奇術、ものまね、コメディなどの様々な演芸を行なっていた。鎌倉時代には、寺社の祭礼で猿楽が奉納されるようになり、能楽師達は座を組織して全国を巡業するようになった。

義満と世阿弥が出会ったのは1374年(応安7年)、義満16歳、世阿弥11歳のとき。

観阿弥が率いる観世一座は、従来のものまね芸に、田楽や曲舞(くせまい)を取り入れた斬新な演出で人気を博していた。その噂は義満にも届き、義満は新熊野神社(いまくまのじんじゃ)で行なわれる一座の興行を観に出かけた。

その舞台でひときわ輝いていたのが世阿弥だ。芸ももちろん素晴らしかったのだろうが、世阿弥は、摂政関白の二条良基(にじょうよしもと)も夢中になるほどの美少年。義満はすっかり魅了され、世阿弥を寵童とし、観世一座を庇護するようになった。

義満と世阿弥の蜜月のとき

世阿弥

世阿弥

能が伝統芸能として評価されるようになるのは明治以降のこと。かつて能楽師達は賤民と蔑まれていた。

それにもかかわらず1378年(永和4年)、義満は祇園祭の桟敷席に世阿弥を伴い、同じ器で酒を飲みながら祭りを鑑賞した。

桟敷席は特権階級の者にだけ座ることが許されるVIP席。賤民階級の世阿弥を同席させたことは、義満の周囲の人々にとって衝撃的なできごとだったらしい。

内大臣の三条公忠(さんじょうきんただ)は日記「後愚昧記(ごぐまいき)」の中で、「猿楽師のような乞食を称賛して寵愛するのは世の中がおかしくなっている。世阿弥に取り入ることで義満の機嫌を取ろうと、大名達はみな競うように金品を与え、金がかかると嘆いているのも不合理だ」とぼやいている。

世間からは乞食と蔑まれながらも、世阿弥は義満に守られ、たくさんのパトロンを得て教養を身に付け、芸を磨いていった。

義満と世阿弥の別れ

1408年(応永15年)、義満が病死したことによって、義満と世阿弥の関係は途絶えた。義満50歳、世阿弥45歳だった。

足利義持時代の世阿弥

義満亡きあとも世阿弥はさらに芸を極め、能の理論をまとめた「風姿花伝(ふうしかでん)」を残した。

しかし、義満の跡を継いで将軍となった足利義持(あしかがよしもち)の庇護を受けることはできなかった。その理由は、単純に義持か猿楽能よりも田楽を好んだからというのもあるが、義満と義持の親子の確執も影響していた。

義持には異母弟の義嗣(よしつぐ)がいた。容姿端麗で優秀だったらしく、義満は義嗣を溺愛。嫡男ではなかったため、いったんは出家させたが、還俗させて官位を与え、出世させた。そのため義嗣が後継者と考える者も少なくなかった。

しかし義満は突然病に倒れ、後継者を指名しないまま亡くなってしまった。そのため、幕府の管領(かんれい)である斯波義将(しばよしゆき)の後押しもあって、嫡男の義持が将軍に就任。義持は今までの鬱憤を晴らすように、義満の息のかかった者を否定した。

猿楽能もそのひとつ。義持は義持の愛した世阿弥には目もくれず、田楽新座を率いる増阿弥(ぞうあみ)を庇護した。

足利義教時代の世阿弥

1429年(正長2年)、くじ引きによって足利義教(あしかがよしのり)が将軍になると、さらに世阿弥は苦境に立たされる。

醍醐寺

醍醐寺

このとき世阿弥は66歳。義教は老齢の世阿弥を冷遇し、甥の音阿弥(おんあみ)一座は仙洞御所(せんとうごしょ)での興行を中止させられ、醍醐寺清滝宮(だいごうじせいりゅうぐう)の楽頭職(がくとうしょく)を奪われるなど、露骨な迫害を受けた。

さらに悪いことに、1432年(永享4年)に観世一座の座長を継いでいた長男の元雅(もとまさ)が巡業先で急死。世阿弥は1434年(永享6年)に佐渡に流刑されてしまった。

流刑の理由は諸説ある。ひとつは義教が能の奥義を音阿弥に譲るように命じたが、世阿弥がこれを拒否して、義教の逆鱗に触れたという説。

もうひとつは、迫害された観世一座が興行先を南朝方の寺社に求めたため、という説。義満の時代に南北朝は合一されたが、義教の時代もまだ火種はくすぶっていて、南朝方の残存勢力は隙あらば息を吹き返そうとしていた。世阿弥が南朝方に通じ、何らかの謀(はかりごと)にかかわっていたとしたら、流刑の重罰も納得がいく。元雅の急死も暗殺だったのではないかという説もある。

帰洛できたのは1442年(嘉吉2年)のこと。その翌年、世阿弥は80歳で生涯を閉じた。

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