上杉謙信ゆずりの「義」を重んじ、主君、上杉景勝(うえすぎかげかつ)と民のために生きた愛の武将、直江兼続(なおえかねつぐ)。兜の前立にも「愛」の一文字を掲げていたことで有名だが、その意図するところには諸説あるようだ。
1578年(天正6年)に謙信が急死すると、景勝と謙信の養子になっていた北条氏康の七男、上杉景虎との間で跡目争いが起きた。
景勝は「御館の乱」(おたてのらん)と呼ばれるこのお家騒動を制し、晴れて上杉家当主となり、兼続も側近として活躍するようになった。
兼続が直江姓を得たのは、1581年(天正9年)のこと。御館の乱の論功行賞に不満を持つ者が、景勝の側近の直江信綱(なおえのぶつな)を殺害。景勝は名家である直江家を存続させるために、未亡人となった信綱の妻、お船(おせん)と兼続を結婚させ、兼続に直江家を継がせた。
上杉謙信は景勝と兼続に、儒教の教えである「五常の徳」(仁・義・礼・智・信)を規範として、慈愛をもって民を大切にすることを説いた。
また、2人が幼い頃、教育を受けた禅寺、雲洞庵(うんとうあん)の通天存達和尚(つうてんそんたつおしょう)も「国の成り立つは民の成り立つをもってす」と教えたという。
この謙信と通天存達和尚の教えである、民を大切にする心を忘れないために、兜の前立に愛をあしらったという説がある。
関ヶ原の戦い後、上杉家は米沢への転封を命じられ、石高は従来の4分の1となり、財政難に陥った。しかし兼続は、人を切ることなく自ら質素倹約に努めて、領民を養ったという。また、最上川の治水工事や新田開発などにも取り組み、民衆の生活の基盤を整えていった。
謙信は信心深く、自らを毘沙門天の生まれ変わりだと信じ、「毘」という文字の旗印を掲げて戦った。このことから、敬愛する謙信を真似て、愛染明王(あいぜんみょうおう)の愛を掲げたのではないかとも考えられている。
愛染明王は恋愛や縁結び、家庭円満など、愛欲をつかさどる仏神とされているが、弓を持っていることから、軍神として信仰されることもあった。
愛の武将、兼続は、ときにはムチも振るった。
1597年(慶長2年)、家臣が五郎という名の下人を切り捨てるという事件が起きた。遺族達は、五郎がしたことに対する仕打ちとしては、あまりにも酷過ぎると猛抗議。
詳しく経緯を聞いてみれば、確かにその通りで、兼続は賠償金として銀子20枚を与えて示談とした。
しかし、納得したはずの遺族が再び現れ、五郎を生き返らせてもらわなければ困ると騒ぎ立てた。怒った兼続は「それなら地獄へ迎えに行け」と遺族の首をはねて河原にさらし、閻魔大王宛てに「家族を迎えにやるので、五郎をこの世に戻してやってくれ」と書いた札を立てたという。
これに恐れおののいた民衆は、以降、つまらない争いをしなくなったというから流石。しかも、閻魔大王に手紙まで書くという面倒見の良さ。やはり兼続は愛にあふれているのか!?