日本刀制作における「焼き入れ」は、刀身の強さや刃の切れ味を左右する最重要工程のひとつです。その際、「焼刃土」(やきばつち)を刀身に塗る「土置き」(つちおき)が行なわれます。
刃側には薄く焼刃土を塗ることで、刀身を熱したあとに水で冷やした際の冷却速度を上げ、刃部分を硬くして切れ味の良い刃にすると共に、刃文を作出するのです(=焼きが入る)。他方、棟側には厚く焼刃土を塗ることで、冷却速度を緩やかにして刀身の靭性(じんせい:粘り強さ)を高め、刀身を折れにくくします(=焼きが入らない)。
このように、棟側には焼きを入れない(入らない)のが通常ですが、例外的に棟に焼きを入れた(入った)作も。ここでは棟に焼きを入れる(入る)「棟焼」(むねやき)についてご説明します。
意図的な棟焼の特殊形態として、「皆焼」(ひたつら)があります。
「皆焼」とは、刃部のみでなく、平地・鎬地・棟の各部(刀身全体)に焼き入れが行なわれた結果、網状の文様によって刀身が埋め尽くされている状態(刃文)にあること。南北朝時代の「相州伝」に観られる特徴的な刃文です。
刀身すべてに焼きを入れているため、皆焼が行なわれれば、必然的に棟にも焼きが入ることになります。一般的には、刀身全体に焼きを入れる結果、通常の方法で制作された日本刀よりも折れやすくなるとされており、良質な材料を丹念に鍛える必要があるなど、皆焼刃の制作には高い技量が要求されました。
皆焼がされた日本刀として、代表的な1振が国宝の刀「へし切長谷部」(へしきりはせべ:福岡市博物館所蔵)。「織田信長」が所有した名刀として知られています。
前述のように、焼き入れにおいては、土落ちなどによって、意図せず棟側に焼きが入ってしまうことは珍しいことではありませんでした。
その場合、注文通りの寸法や反りに調整する作業を行なう際に、棟焼が入ってしまった部分を研磨して磨き潰されることがありました。
格調高い日本刀は、刀工が注文に応じて丁寧に制作された芸術作品。一部の例外を除いて、名工と呼ばれる刀工の作品に棟焼がある日本刀がほとんど見受けられないのは、こうした除去作業が行なわれていたためだとする説もあります。
棟焼を磨き潰して除去する方法は、多大な労力と研磨の技術を要します。そこでよく行なわれているのが、「あかがね」と呼ばれている銅を熱し、棟焼になった部分に当てて、その痕跡を消す方法。棟焼部分を熱することで消去するのです。
棟焼は研磨作業で磨き潰したり、あかがねを当てて熱したりすることで、除去されることが通常でした。もっとも、意図的になされた棟焼については、そのまま残されています。
棟焼が日本刀に及ぼす影響として、一般的に言われているのは、「刀身が折れやすくなる」と言うこと。
前述のように、切れ味が鋭い最強の日本刀は、刃側に焼き入れを行ない、組織を硬化させることで生まれますが、同時に脆いと言う欠点も有しているとも考えられるのです。
もっとも、この「通説」については、棟焼と折れやすさの間には、直接的な因果関係はないと言う説も有力に唱えられています。
この説は、戦場などで折れていた日本刀は、大量生産品であるいわゆる「数打物」(かずうちもの)であり、粗製乱造されたこれらの日本刀は、刀工に直接注文して作刀させる「注文打ち」とは大きく違っているため、同一に語ることはできないと言うことをその根拠としているのです。
刀工によって、精魂込めて1振ずつ鍛えられた注文打ちと、量産することに重きを置いた数打物の間には、切れ味はもちろん、耐久性の面でも大きな差が生じたと言われています。
また、数打物では、見た目などにはこだわっていなかったと言われており、土落ちなどによって生じた棟焼について、磨き潰すなどの処置も行なわれないことが一般的。
そのため、結果として、棟焼のある日本刀(=数打物)が折れやすいように観えていると言うのが有力説の主張です。
日本刀が武器として用いられることが少なくなるにつれて、美術品としての側面が大きくなっていきます。そうした場合、棟焼が入った刀身は美術的価値が低いと言う判断がなされることもありました。
「刀は武士の魂である」とされていた江戸時代には、日本刀が幕府や大名への献上品として用いられることもありましたが、その日本刀を作刀させる際、藩のお抱え刀工に対して、棟焼がないようにとの指示をした藩主もいたとも言われています。
この指示の裏には、棟焼がされた日本刀が折れやすいと言う風評に配慮したのとともに、見た目が良くない(とされていた)日本刀を献上することは、(藩の)恥になると言う考えがあったのかもしれません。
棟焼と言えば「来派」。日本刀愛好家の間では、このようなことを言われてきました。
日本刀の入札鑑定(茎の銘を隠して刀身を観察し、当該日本刀の作者を当てること)において、棟焼きがなされていることを理由として「来」と入札することもあります。
「五箇伝」(ごかでん)のひとつ「山城伝」(やましろでん)を代表する流派のひとつである来派は、派祖であると言われている「来国行」(らいくにゆき)を筆頭に、棟焼を行なっていた流派としても知られているのです。
来派の刀工の作に観る棟焼は、「匂口」(においぐち:刃部と地との境界線)のような物はありませんが、棟の頂点である「庵」(いおり)付近に「沸」(にえ:焼き入れによってマルテンサイトに変態した粒子が粗い状態で現れること)が集まるようになっているのが特徴であると言われています。