刀剣鑑賞をする際、刀身に光る「刃文」の美しさや豪華な刀装に目を奪われがちです。一方「目釘孔/目釘穴」(めくぎあな)と言われても、その名称を聞いたことはあっても、どのような部位であるかは分からない方も多いのではないのでしょうか。
しかし、刀剣に意味のない部位はひとつもありません。実はあの小さな孔にも、刀工達の目に見えない工夫が秘められており、刀剣の目利きにおける、きわめて大切なポイントなのです。
ここでは、非常に重要な役割を担う目釘孔に注目し、その機能などについて解説します。
戦国時代、武士は万一のために自分で作った目釘を常に携帯していました。
目釘の素材は、強度が強くて錆びない竹を直径5~7mm程度の円柱形に削った「竹釘」。
古代には、金属製の目釘も使用されましたが、実際に戦闘で用いると刀身に加わった強い衝撃によって金属が「塑性変形」(そせいへんけい:力を加えて変形させたとき、永久変形を生じる物質の性質)を起こして刀身がガタついたり、目釘が抜けなくなったりしたため、硬くてしなやかな繊維を持つ竹が使われたと考えられています。
目釘に最適とされた竹の種類は、冬至の頃に伐採して3年間乾燥させた「真竹」(まだけ)。これに椿油や菜種油と言った植物性油を染み込ませ、強度を増して使用していたのです。
その他に目釘に適していたのは、「煤竹」(すすたけ)と呼ばれる竹の種類。
煤竹とは、古い茅葺(かやぶき)屋根を用いた民家の屋根裏や天井などで、数百年間に亘って燻(いぶ)された竹のこと。
表面は褐色、さらに内部も茶色に変色した煤竹は、通常の竹とは比較にならないほど頑強で、粘りや弾力に富み、目釘の材料に打って付けだったのです。
また、京都府八幡市にある「石清水八幡宮」(いわみしみずはちまんぐう)など、武勇祈願のご利益のある神社では、「呉竹」(くれたけ:中国伝来の硬い竹)を「目釘竹」として、徳川将軍家に献上したという記録が残されています。
反りがある「太刀」(たち)が出現して以降、刀剣の目釘孔は「区」(まち:茎のうち刃に近い部分)に近い場所であり、かつ刀身を縦に持ったときに茎の左右方向の中心となる場所に、入れられることが多くなりました。
目釘孔の位置はこれが基本とされ、現代まで伝統として守られています。ただし区に近い部分と言っても、「太刀」と「打刀」(うちがたな)では微妙に目釘孔の位置が異なっていました。
馬上で使うことを想定して作られた、長くて反りの大きな太刀の目釘孔は、区から指4本分ほど下がったところに位置し、その一方で、地上で切り合うことを想定して作られた短くて反りの浅い打刀の場合は、区から指3本分ほどの位置に見られます。
わずか指1本分の距離に、実用的な武具としての刀剣の動きを知り尽くしていた刀工達が、長い経験の中で見つけた技術が凝縮されているのです。
鎌倉時代まで目釘孔は、刀工が茎の表と裏から「鏨」(たがね:金属を削ったり切ったりするための工具)を叩き込んで彫って作っていため、その形状が歪んだ(ゆがんだ)円形になっていたのは当たり前のこと。
その中で、初期の刀剣の目釘孔には「瓜実」(うりざね)や「茄実」(なすびざね)、「包み金」(つつみがね)、「瓢箪」(ひょうたん)、「猪の目」(いのめ)などの形状をした、いわゆる「変わり孔」(かわりあな)が見られる刀剣もあったのです。
それらに加えて、表裏の両方において入口に近い位置が広く、中間部に進むにつれて狭くなる形状の目釘孔も数多く存在します。
その他にも、鍵穴型や菊花型など、装飾性の高い目釘孔を持つ刀剣も見られましたが、一般的には、正円であることが良しとされました。
のちに「轆轤鉋」(ろくろがんな/ろくろがな:回転している物体に刃を当てて、丸く削る道具)が登場してからは、正円に近く、中央部が極端に狭くなっていない目釘孔を開けられるようになったのです。
目釘孔の形状を正円にした場合、刀身に加わった衝撃をより広い面で受け止めることが可能。
例えば、目釘孔が円でない場合、その形状によっては、刀身にかかる力を「点」で支える部分が必ず出てきます。一点に力が集中すると、その部分で目釘が折れたり、茎が損傷したりする恐れがあるのです。
そのため、あらゆる方向からの力をなるべく広い面で受けられる正円が、目釘孔の形状においては重宝されました。
刀剣を使用する際、強い相手と切り合うことが予想される場合や、罪人の身体を切って刀剣の出来栄えを確かめる「試し切り」を行なう場合などでは、補強を目的として茎尻付近に、目釘孔を意図的にひとつ開けることがありました。
これは「控え目釘孔」(ひかえめくぎあな)と呼ばれ、長大な刀剣が多く使われていた幕末時代などによく見られた目釘孔です。
平安時代から南北朝時代に使用された「大太刀」(おおだち)は、刃渡りが3尺(約90cm)近くあり、馬上で戦う際に最大の効力を発揮しました。
しかし戦国時代になって、兵士が接近して切り合うようになると、長すぎる大太刀はかえって不便になってしまいます。そこで刀身の短い打刀が主流になっていったのです。
ところが、すべての打刀が新たに作られたわけではありません。
戦国時代に使われた多くの打刀は、過去に使われていた大太刀や太刀を茎から削り、短い刀身である打刀へと作り替える「磨上げ」(すりあげ)の作業が施されていました。
今なら伝統工芸品とも言える刀剣を削るなんて考えられませんが、当時の刀剣は戦いに不可欠な実用品であり、命を守るためには当然のことだったのです。
磨上によって刀身と茎の長さが変わると、振ったときの回転の中心も変わることから、目釘孔の位置も刃渡りに合わせて変えなくてはなりませんでした。
そのため、長い刀剣が磨上げられるたびに、目釘孔の数が増えていったのです。なかでも、2つ重なった目釘孔には「ダルマ」と言う名称が付けられています。
目釘孔は、刀身を固定するための釘を通すだけの孔なのではなく、機能的にも強度的にも、非常によく考えられた刀剣の要(かなめ)とも言える部位のひとつです。
また目釘孔の位置と数は、その刀剣が磨上げられながらも、長年に亘って大切に使用されてきたことが窺える、言わば刀剣「履歴書」でもあります。
刀剣を鑑賞する際には、目釘孔の位置と数に注目すると、その刀剣が辿ってきた数百年に及ぶ歴史が見えてくるのです。