冷酷で無慈悲で尊大、良心が欠如し、罪悪感も薄いが、ときとして非常に魅力的。そんなサイコパスの特徴を持った武将は少なくないが、宇喜多直家(うきたなおいえ)もそのひとり。尼子経久(あまごつねひさ)、毛利元就(もうりもとなり)とともに中国の三大謀将と呼ばれている宇喜多直家。その梟雄(きょうゆう)ぶりは、弟の宇喜多忠家(ただいえ)をして「兄は腹黒く、何をたくらんでいるか分からない。会うときは服の下に鎖帷子(くさりかたびら)を付けたものだ」と語るほど。宇喜多直家の常套手段は娘の婚姻を利用して信頼関係を結び、相手を安心させたあとに暗殺。かと思いきや、譜代の家臣を手にかけることはなく大切にしたという一面も見せた宇喜多直家。しかしその優しさも、冷徹な損得勘定の結果だとしたら空恐ろしい。
1529年(享禄2年)に宇喜多興家(うきたおきいえ)のもとに生まれた宇喜多直家。祖父の宇喜多能家(うきたよしいえ)は、播磨の守護代、浦上則宗(うらがみのりむね)、宗助(むねすけ)、村宗(むらむね)の3代に仕え、智勇に優れた人物だった。
しかし、1534年(天文3年)に同じ浦上氏の家臣だった島村盛実(しまむらもりざね)に居城を襲撃され、祖父、能家は自害。父、興家は幼い宇喜多直家を連れて逃げ延び、豪商の阿部善定(あべぜんてい)のもとに身を寄せた。
そして興家は善定の娘を娶り、宇喜多直家にとっては異母兄弟となる忠家と春家(はるいえ)をもうけている。
その後、父、興家は、抵抗もせずに城を明け渡したことから、家臣達に暗愚と呼ばれることを気に病んで、1536年(天文5年)、一説には1540年(天文9年)に自害してしまう。宇喜多直家が7歳もしくは11歳の頃のこと。幼い宇喜多直家は、見知らぬ土地で、牛飼いのようなことをしてしのいだという。
成長した宇喜多直家は、浦上氏の天神山城主、浦上宗景(うらがみむねかげ)に仕えるようになった。
「古今武家盛衰記」によると、宇喜多直家は美しく才知に優れていたため、宗景の寵愛を受けて取り立てられたという。つまり、男色の関係があったということ。
宇喜多直家のサイコパスな人格の形成に、こうした幼・少年期のシビアな体験が影響しているとしたら、同情せざるを得ない。
宇喜多直家が梟雄と言われる理由のひとつは、犠牲者の多くが親類縁者だということだろう。舅の中山信正(なかやまのぶまさ)に、娘婿の浦上宗辰(うらがみむねとき)と後藤勝基(ごとうかつもと)、姉婿の谷川久隆(たにがわひさたか)など、殺害された身内は枚挙にいとまがない。
1568年(永禄11年)7月に殺害された松田元賢(まつだもとかた)は長女の夫。
備前国は一枚岩ではなく、浦上氏当主の浦上政宗(うらがみまさむね)と弟の浦上宗景が、覇権をめぐって対立していた。
元賢の父で備前国金川城主の松田元輝(まつだもとてる)は、政宗と友好な関係を築いていたため、宗景の家臣である宇喜多直家とは対立関係にあった。しかし、1562年(永禄5年)に宇喜多直家から松田氏に和議を申し入れたことから、その証として、元賢と宇喜多直家の娘、そして松田氏の重臣の伊賀久隆(いがひさたか)と宇喜多直家の妹が婚姻した。
しばらく両家は良好な関係にあったが、宇喜多直家と備中の三村元親(みむらもとちか)が対立した1567年(永禄10年)7月の「明善寺合戦」をきっかけに、事態は急変する。松田氏が援軍を出さなかったことが宇喜多直家の逆鱗に触れ、元賢が殺害されてしまったのだ。
サイコパスらしいのは、明善寺合戦から元賢殺害まで1年かけて、真綿で首を絞めるように、じっくり準備していることだ。
その間に行なわれた鹿狩りでは、宇喜多側の人間が「鹿かと思った」と、松田氏側の人間を射殺。松田元輝・元賢親子は底知れぬ恐怖を感じたことだろう。
さらに、妹婿の伊賀久隆を懐柔して寝返らせた。殺害の際、金川城を包囲したのは、伊賀久隆だった。
宇喜多直家の長女は元賢の死を知ると、自らも自害したという。
1561年(永禄4年)には、松田氏の家臣で、龍ノ口城主の穝所元常(さいしょもとつね)がターゲットになった。
宗景の家臣として勢力を拡大していた宇喜多直家は、元常の龍ノ口城にも攻め込むが、なかなか落とすことができなかったため、策をめぐらした。元常が男色家であったことから、眉目秀麗な小姓、岡清三郎を、刺客として送り込むことにしたのだ。
元常が龍ノ口城下の河原で魚を釣っていると、どこからか聞こえる笛の音色。探してみると、麗しき少年が尺八を吹いている。聞けば、宇喜多家に仕えていたが、無実の罪を着せられて逃げているという。おそらく一目ぼれだろう。元常は少年を城に連れ帰ることにした。
宇喜多直家の策略どおり、元常と清三郎はしとねを重ねる関係になった。ある日2人がいつものように酒を飲み、尺八を吹きながら戯れていると、元常が清三郎の膝枕で寝てしまった。清三郎は多少の躊躇はあったものの、このチャンスを逃すまいと、元常の脇差で首を切り落とした。
宇喜多直家は、うら若き清三郎には難しいミッションだったのではないかと心配していた矢先だったため、清三郎が首を持ち帰るとたいそう喜び、労をねぎらったという。