豊後(ぶんご:現在の大分県)では、中世から近世にかけて多くの刀工が活躍しました。「品位に乏しく、凡作にて丈夫で折れず、曲らず、良く切れる」と言われた豊後刀。美術工芸品としてはいまひとつだが、実用品としては丈夫でよく切れるということです。ここでは、豊後近辺で活躍した名工達や、「高田物」と呼ばれる豊後の日本刀についてご紹介します。
記録に残るなかで最も古い豊後刀の刀工は、定秀(さだひで[じょうしゅう])。「豊後鍛冶系譜」によれば、当初、「紀平治太夫宗平」(きへいじだゆうむねひら)と名乗っていたとのこと。定秀の一族「紀氏」(きし)は豊後地方の有名な豪族で、「土佐日記」で有名な「紀貫之」(きのつらゆき)、歌人の「紀友則」(きのとものり)らと同族と言われています。
豊後に移住した定秀の一族は、郡司等の仕事に就いていましたが、定秀だけは「源為朝」(みなもとのためとも)の家来として上洛(じょうらく:京都に入ること)。
1156年(保元元年)に保元の乱に参加しましたが、平清盛に敗北しました。そのため、平氏の追っ手から奈良・東大寺へ逃れて出家、僧としての修行の合間に千手院鍛冶について作刀を学びます。
そののち、九州の「英彦山」(ひこさん[現在・英彦山神宮])に、三千坊の学頭(がくとう:校長のこと)として迎えられました。
英彦山のご神体は、太刀の「頭槌」(かぶつち:柄がかたまりの状態であること)であり、刀剣にはゆかりの深い場所。また、修験道の修行地としても有名です。
「古刀銘尽大全」では定秀が「源正坊」と名乗り、学頭を務めながら鍛冶として作刀したことが記されています。僧として修行をしながら豊後の刀作りの基礎を築いたのです。
定秀の作風は、大和で刀工修行を始めたことから大和風。反りが深く上品な姿、地肌は柾目交じりの板目肌、桜の花などが切られており、「豊後国僧定秀」と銘を切った日本刀が現存しています。
定秀の教えを受け継いだのが「紀新大夫行平」(きしんだゆうゆきひら)、通称「行平」です。行平は、定秀の子とも定秀の弟の子とも伝えられ、豊後六郷満山(ぶんごろくごうまんざん:現在の大分県国東半島一帯)の「執行」(しゅぎょう:政務や事務を行なうこと)を務めていました。
しかし、源氏・平氏の九州での戦いで執行としての動静を読み間違い、その責任を問われて流刑となりました。16年間、「上野国」(こうずけのくに:現在の群馬県)で軟禁されて過ごします。
刑を終えて帰る途中、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)に拝謁。御番鍛冶(ごばんかじ)を命ぜられます。いつごろから作刀を始めたのかは定かではありませんが、このころ、すでに刀工として「名人」の域に達していたのです。
そののち、故郷に戻り、刀工として活躍。しかし、帰郷から約20年後、六郷満山の里人達と訴訟問題を起こして、また流刑に。流刑先の相模野国(さがみのくに:現在の神奈川県)で最期を迎えたとも言われていますが、定かではありません。その一生には、不明な点も多い人物です。
なお、行平は変名で銘を切ることも多くありました。有名な変名が「鬼神太夫行平」(きしんだゆうゆきひら)。行平には、山中で鬼神と出会って一緒に作刀したと言う話があり、これに基づいた銘です。
幽斎は「関ヶ原の戦い」の際、東軍として戦い、丹後国田辺城に立て篭もりました。当時、歌道の古今伝授・唯一の継承者であった幽斎へ、「後陽成天皇」(ごようぜいてんのう)は和議に応じさせるために使者「烏丸光広」(からすまみつひろ)を送ります。
その際、この和議に応じたことから、光広のおかげで古今伝授が途絶えなかったことに報いるため、この太刀が幽斎から光広に贈られました。これをきっかけにこの太刀は「古今伝授行平」と呼ばれるようになり、現在、国宝に指定されています。
定秀や行平の他にも、名の残る刀工がいますが、いずれも作品が残っていなかったり詳細が不明であったりします。
例えば、「正恒」(まさつね)は、行平の弟子、あるいは孫と言われている刀工。「筑紫正恒」(ちくしまさつね)や「紀正恒」(きのまさつね)と呼ばれています。正恒の銘が入った作品は確認されていませんが、無銘の作品では、重ねが厚く、高い鎬(しのぎ)、沸心のある乱れ具合などといった特徴があります。
「河内守本行」(かわうちのかみもとゆき)は、1642年(寛永19年)、豊後に生まれました。腕に自信のあった本行は、鎌倉時代初期の名匠「行平」の後裔(こうえい:子孫)を名乗り、鬼神太夫行平の銘を切ったと言います。
1677年(延宝5年)に河内守を受領して唐津に移住。1693年(元禄6年)には江戸に出て、「相州綱廣」(そうしゅうつなひろ)に作刀を学びました。
また、銘に「本」の字が含まれていると、これを崩して、松葉のように切ることから「松葉本行」とも呼ばれています。銘には、「於肥前唐津梅豆羅郷玉島川泙[ほう]」や「豊後太郎本行七十余歳造羊漸刀作自己消光」などの文もあり、文字を切ることが好きな刀工でもありました。80歳を超えた、当時としては長寿の人物です。
こうした、名工達との作品とは別に、豊後では「高田物」と呼ばれる日本刀が多数、生産されています。これらは、品質の良い刀として、全国的に流通していきました。
高田物とは、高田地域で生産された日本刀。なかでも、南北朝から室町時代ごろの物を「古高田」(こたかた)、戦国時代から安土桃山時代の物を「平高田」(たいらたかた)と呼んでいます。
古高田は、「高田友行」(たかだともゆき)が備前へと修行に行き、高田に伝えたとのこと。友行の弟子を中心に、日本刀の産地となっていきます。その背景には、九州・博多での大陸との貿易があります。
元寇以降、博多を港とし、大陸との貿易が少しずつ盛んになっていきました。九州の有力な豪族はこの貿易の権益を手にしたいと考え、次第に争いを繰り返すようになっていきます。
そのため、日本刀の需要が増加。友行を中心とした高田の刀工達は、この流れに乗って、高田物の生産を増やすことにしました。この増産の体制は、江戸時代の初めまで続きます。
江戸時代に入ると、実戦での日本刀の需要は減っていきます。そこで、地の利を活かし、高田の刀は全国へと販路を広げていきました。先述したように、交通の要所であることがここでも優位につながったのです。
一方で、実戦で使う必要がなくなったため、刀工の技術は伸び悩むように。現在、残っている日本刀の中でも、多くの豊後刀がありますが、これぞと言う物がないことからもそのことが分かります。