日本は海に囲まれた島国。明治時代になって獣肉食が一般化するまでは、日本人の主たるたんぱく源と言えば魚であった。歴史上の偉人達も一般庶民も、みんな魚を食べて暮らしていた。近年は否定されているが、徳川家康はタイの天ぷらにあたって死んだという逸話が流布していたように、武将と魚にまつわるエピソードは数多くある。
2017年、豊臣秀吉が側室の茶々(淀殿)に宛てた手紙が兵庫県豊岡市内で発見され、話題になった。
その手紙は、1593年(文禄2年)に茶々が秀頼を出産してまもなく書かれた物とみられる。
茶々は高熱に苦しんでいたようで、「しっかり食事を取るように、サンマを送った」と綴られている。さらに、最後には「さすがお拾おふくろと見え申し候」と追伸。
お拾(おひろい)は秀頼の幼名の拾丸(ひろいまる)のこと。現代風に言うならば「さすが拾くんママ!」といったとこか。
心身ともに不安定な新米ママのご機嫌を取ろうとする秀吉の姿が見えてくる。
「鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス」のイメージとはずいぶん異なる、優しい一面もあったようだ。
日本では縄文時代から食べられていたというフグだが、長いフグ食の歴史は豊臣秀吉によって一時途絶えている。
1593年(文禄2年)、秀吉は朝鮮征伐、いわゆる「文禄の役」のため、諸国の兵を下関に集めた。しかし、これがいけなかった。下関はフグの産地。フグの調理法を知らない兵達は内臓ごと煮て食し、次々と中毒死してしまった。
これから戦地に向かう貴重な兵の命を、フグに取られてはたまらない。秀吉はフグの絵と「この魚食うべからず」という文言を書いた立札を設置し、「河豚食禁止令」を発布した。
戦国時代屈指のおしどり夫婦として知られる佐賀藩の祖、鍋島直茂(なべしまなおしげ)と陽泰院(ようたいいん)。2人が恋に落ちたきっかけはイワシだった。
鍋島直茂は1538年(天文7年)、肥前国の戦国大名、龍造寺氏(りゅうぞうじし)の家臣、鍋島清房(なべしまきよふさ)のもとに生まれた。
一方、陽泰院は、その3年後の1541年(天文10年)、同じく龍造寺氏の家臣、石井常延(いしいつねのぶ)のもとに生まれた。
同じ龍造寺氏の家臣の家に生まれた2人は、幼い頃から顔見知りだったと思われるが、結婚したのは1569年(永禄12年)、直茂31歳、陽泰院28歳のとき。再婚同士の恋愛結婚だった。
肥前国で覇権を争っていた有馬氏との合戦に向かう途中、龍造寺氏は直茂ら家臣を引き連れて、陽泰院の実家である石井家に立ち寄り、昼食を取ることにした。
メニューはイワシの丸焼き。女中達は必死でイワシを焼くが、兵士の数が多く、作業は一向に進まない。見かねた陽泰院はかまどから炭を掻き出して庭に広げ、その上にイワシを豪快に並べて、手際よく焼き上げた。
直茂はその大胆な行動と的確な判断力にすっかり惚れ込み、求婚したという。
魚で伴侶を得た武将もいれば、魚で身を持ち崩した武将もいた。
後者は伊勢国の田丸藩2代藩主、稲葉紀通(いなばのりみち)。紀通は1603年(慶長8年)に田丸藩初代藩主、稲葉道通(みちとお)のもとに生まれ、1607年(慶長12年)に家督を継いで藩主となった。
しかし1624年(寛永元年)に、幕府から丹波国の福知山への転封が命じられ、以降、福知山で暮らした。
ある日、雪見酒を楽しんでいると、紀通はふと、かつて田丸藩で食べた寒ブリのおいしさを思い出してしまった。一度食べたいと思ったら、何としても手に入れたいが、福知山には海がない。
そこで海のある丹後国の宮津藩藩主、京極高広(きょうごくたかひろ)に「寒ブリを100匹送ってほしい」と依頼した。
しかし、紀通は狩の獲物が得られなかったことに腹を立て、近隣の領民60人を虐殺するなど、日頃の行ないが悪かった。依頼された高広は「あの紀通のこと、寒ブリを幕府への賄賂にするに違いない」と勘繰り、贈答品としては使えないようにブリの頭を切り落として送った。
頭を落とした魚は、武士にとって不吉の極み。激怒した紀通は、領内を通行する宮津藩の領民や飛脚を片っ端から殺害した。
これを受け、幕府は紀通に謀反の疑いがあるとし、江戸に参府して弁明を行なうよう命じた。これに不満を持った紀通は甲冑(鎧兜)に身を包み、福知山城の天守閣から火縄銃を乱射し激しく抵抗したが、最後には自分に向けて発砲して自害したという。そして福知山藩稲葉家も改易となってしまった。