戦国時代には敵味方の両軍がぶつかり合う合戦が頻繁に起こりました。合戦の目的は領地を奪い、覇権を拡大することであり、城を落とすことが勝利を意味します。城を落とすための攻撃を城攻めと言い、場所や規模によって戦略や戦術も多様化。戦国武将は、合戦に勝利するため、様々な作戦を立てて敵陣を攻める必要があったのです。合戦の種類や城攻めの方法などについてご紹介します。
合戦は、行なわれる場所によって、3つの種類に大別することができます。城の外など野外で戦う場合は「野戦」(やせん)、海上で戦船を用いて戦う場合は「海戦」(かいせん)、城を攻める場合は「攻城戦」(こうじょうせん)と言います。
野戦は川や野原など、野山が舞台となる戦いを指します。戦国時代における合戦では、敵対する両軍がそれぞれ数千から数万の兵力で争っていたため、それだけ広い場所が必要だったのです。合戦名に、「原」や「川」の名称が多いのも、戦が次第に大規模化していったことが関連していると言えます。
野戦では軍の編成や配置を指す「陣形」が非常に重要でした。戦国時代、最強とも謳われた「武田信玄」は、中国から伝来した8種類の陣形・八陣を独自に解釈し、「戦国八陣」として実戦で活用したことでも知られています。なかでも1553年(天文22年)~1564年(永禄7年)と12年に及んだ、武田信玄と「上杉謙信」の「川中島の戦い」は、歴史に残る野戦のひとつです。
また、有名な野戦に、天下分け目の戦いとも称される「関ヶ原の戦い」があります。1600年(慶長5年)に、「徳川家康」率いる東軍と「石田三成」及び「毛利輝元」(もうりてるもと)率いる西軍が戦いました。伊吹山の麓で相川からほど近い平原が、戦いの舞台となりました。
「城攻め」には様々な戦法があります。城を落とすと言っても、攻撃によって城を完全に破壊してしまうのは稀で、損害を最小限にしながら相手に勝つことが重要でした。城攻めの主な戦法は以下の6種類に分けることができます。
奇襲とは、戦局を有利にするために敵軍が思いもよらない時間や場所を狙い、突然攻撃する戦法。
奇襲を受けた側は、攻撃に気付く前に大きな被害を受けるため、体勢を立て直すことが困難になります。
奇襲には、夜に攻撃をしかける夜襲(やしゅう)なども含まれ、相手を不意打ちする計画、準備、そしてタイミングがとても重要でした。奇襲が成功すると、本来の兵力に差があったとしても合戦に勝利することができたのです。
たびたび、合戦の戦略に奇襲を用いたのが、天下人の織田信長。例えば、1568年(永禄11年)の「観音寺城の戦い」でも、「箕作城」(みつくりじょう:現在の滋賀県東近江市)を奇襲したことで勝利を収めています。
「足利義昭」(あしかがよしあき)を奉じて京都を目指していた織田信長は、南近江(みなみおうみ:現在の滋賀県南部)の戦国大名「六角義賢」(ろっかくよしかた)と対立。織田信長は軍を3つに分けて、六角軍が守る3つの城をそれぞれ攻める戦略を立てます。
織田信長が攻めた箕作城は守備が固く、織田信長はいったん兵を退却させました。しかし、深夜に箕作城への奇襲を決行。六角軍は、織田軍が兵を引いたその夜に、再び攻めて来るとは想定していなかったため、織田軍の奇襲に体制を整える間もなく崩壊してしまい、箕作城は夜が明ける前に落城したのです。
一夜で箕作城が落ちると、六角義賢は甲賀(現在の滋賀県甲賀市)に逃走。「観音寺城」(現在の滋賀県近江八幡市)は無血開城となり、織田信長の勝利となりました。
また、城攻めではありませんが、奇襲の例として有名なのが1560年(永禄3年)「桶狭間の戦い」です。桶狭間の戦いでは、織田信長が、桶狭間山で休息していた「今川義元」(いまがわよしもと)を側面や背後から急襲し、討ち取りました。織田信長は、奇襲を仕掛ける前に、逐一敵陣営の状況を確認したことにより、勝利を収めたと言われています。
火攻めとは、主に火を使った城攻めのこと。当時の城は木造なので燃えやすく、火攻めは大きな効果があったのです。
城に火が着くと敵は浮足立つので、その混乱に乗じて城に乗り込み、さらに敵を動揺させる心理戦も併せて採られました。
また、攻撃を受けた側の城主が、敵との戦力差や兵糧(ひょうろう:陣中における軍隊の食糧)などを考慮して、勝ち目がないと判断した場合に、あえて自分から火を放つこともあったと言います。
織田信長は、火を使った攻撃を多用した武将のひとりです。例えば、1565年(永禄8年)に起こった「堂洞合戦」(どうほらがっせん)。美濃(現在の岐阜県)侵攻を画策する織田信長は、織田側であった「加治田城」(かじたじょう:現在の岐阜県加茂郡)の城主「佐藤忠能」(さとうただよし)を守るため、「堂洞城」(どうほらじょう:現在の岐阜県加茂郡)の城主「岸信周」(きしのぶちか)を攻めます。岸信周は堂洞城に籠城し徹底抗戦しますが、織田信長は火攻めで堂洞城を落とし、戦いに勝利しました。堂洞城内からは焦げた米が見付かっており、火攻めの凄まじさを物語ります。
城攻めではありませんが、織田信長が火を用いた戦が2つあります。
ひとつは、1571年(元亀2年)に行なわれた「比叡山焼き討ち」です。「比叡山延暦寺」(現在の滋賀県大津市)は、武装した僧兵を持ち、織田信長と敵対していた「浅井長政」(あざいながまさ)と「朝倉義景」(あさくらよしかげ)を匿っていました。
織田信長は、「浅井長政、朝倉義景の味方をするなら寺を焼く」と警告するも、延暦寺は無視。怒った織田信長は、延暦寺に火を放って攻撃。延暦寺は炎上し、僧侶や子どもも含めておよそ3,000~4,000人が犠牲となりました。
もうひとつの火を使った戦が、1570年(元亀元年)~1574年(天正2年)に起こった「長島一向一揆」(ながしまいっこういっき)です。「願証寺」(がんしょうじ:現在の三重県桑名市)が拠点となった大規模な一揆で、織田信長は2度敗走したため、3度目は80,000の大軍を率いて参戦しました。
降伏した門徒衆をも許さず惨殺し、最後まで落ちなかった「中江城」(なかえじょう:現在の三重県桑名市)と「屋長島城」(やながしまじょう:現在の三重県桑名市)に火を放ち、門徒約20,000人を焼き殺したと言われています。
力攻めは、「強襲」(きょうしゅう)とも呼ばれる、武力によって一気に敵を攻め落とす戦法です。
力攻めには城を守る側の2~3倍の兵が必要とされました。それだけの大軍を用意するのは容易ではないため、他の戦法と合わせて戦略的な城攻めが行なわれたのです。
例えば、「長宗我部元親」(ちょうそかべもとちか)が「安芸国虎」(あきくにとら)が守る「安芸城」(あきじょう:現在の高知県安芸市)を攻めた「八流の戦い」(やながれのたたかい)です。
長宗我部元親は、力攻めの前に相手の兵を減らす方法を採っています。もともとは、安芸軍約5,000人に対して、長宗我部軍は約7,000人。そこで長宗我部元親は7,000人のうち2,000人を水軍として配置し、安芸軍を海と陸、両方から挟み撃ちにして3,000人まで減らすことに成功します。1.4倍だった兵力差は2.3倍になり、最後は力攻めにより安芸城を陥落させました。
しかし、力攻めは必ずしも成功する作戦ではありません。力攻めが失敗したことで知られるのは、「真田昌幸」(さなだまさゆき)と徳川家康の三男「徳川秀忠」(とくがわひでただ)が争った「第2次上田合戦」です。
真田昌幸の軍3,000人に対し、徳川秀忠の軍はなんと38,000人、実に10倍以上の兵力差がありました。このような大きな兵力差にもかかわらず、徳川軍は城攻めに失敗してしまったのです。圧倒的に兵数が少ない真田昌幸が力攻めに打ち勝ったのは、「上田城」(うえだじょう:現在の長野県上田市)が防御に特化した城であったことと、真田昌幸による采配が功を奏したと言われています。
そもそも城は、防衛に特化しているため、守る側の方が有利で、攻める側は攻撃を防ぎながら入城する難しさがありました。特に鉄砲が普及し始めてからは、攻める側の防御が非常に重要となったのです。
そこで発達したのが「仕寄り」(しより)という作戦。仕寄りは、城を攻める兵の前に竹を束にした防御壁を置き、被害を抑えながら前進する方法です。防御壁を活かすためにも、後方からの援護射撃や城壁をよじ上る際の長槍での援護も欠かせませんでした。力攻めは、早ければ数日で決着が付きますが、成功させるには籠城側よりも圧倒的な兵力を必要としたのです。
兵糧攻めは、籠城して援軍を待っている敵陣に対し、水も含めた食糧の供給を絶つことで降伏を狙う戦法。
城に保管されている食糧を直接狙うこともありますが、城内の食糧が底をつき、敵が補填のために城外に出たところを攻撃します。
また、土塁(どるい:土で築いた堤防)を築いて補給路を断つこともありました。厳しい籠城戦によって兵の脱走や餓死もあったと言われています。しかし、兵糧攻めをしたとしても城主が簡単に降参するとは限りません。不利な籠城戦であっても耐え抜き、援軍を待って城を守り抜いた事例もあります。
兵糧攻めを得意とした戦国武将と言えば「豊臣秀吉」です。例えば、1578年(天正6年)3月から1580年(天正8年)1月にかけての「三木合戦」(みきかっせん)。織田信長に、中国地方の侵攻を命じられた豊臣秀吉は、「別所長治」(べっしょながはる)が籠城する「三木城」(みきじょう:現在の兵庫県三木市)へと攻撃を仕掛けます。
しかし、別所長治は200,000石を誇る播磨(現在の兵庫県南西部)最大の大名。城内には大量の兵糧と弾薬が運び込まれていました。
それでも豊臣秀吉は、兵糧攻めを開始。補給路を断つこと2年余り、ついに別所長治は自刃し、三木城開城となりました。この合戦で豊臣秀吉が行なった兵糧攻めは「三木の干殺し」(みきのひごろし)と呼ばれています。
また豊臣秀吉は、「鳥取城」(とっとりじょう:現在の鳥取県鳥取市)の城主となったばかりの「吉川経家」(きっかわつねいえ)を狙った「鳥取城の戦い」でも兵糧攻めで勝利しています。1581年(天正9年)に起こった戦で、豊臣秀吉は周辺の米を高い価格で買い占めると、付近の民衆を鳥取城内に追い込み、徹底的に城の周囲を柵で覆いました。
もともと1,400人の兵士20日分程度の兵糧に対して、さらに2,000人程度の民衆が加わったことで食糧を補給できない鳥取城内では、餓死や攻撃により死んだ仲間の肉を食べるほど悲惨な状況に追い込まれてしまいます。3ヵ月耐えた吉川経家でしたが、城内の兵士や民衆の助命と引き換えに自刃。
この城攻めは、比較的短期間で決着が付きましたが、本来、兵糧攻めは備蓄している食料がなくなるまで待つ必要があるため、2年掛かった三木合戦のように、年単位の期間を必要とする戦法だったのです。
水攻めは大きく分けて2種類あり、ひとつは敵の城を水で沈める方法。城の周りに堤を造り、川などの水路から水を引いて、城を水没させるという土木工事を伴った大掛かりな戦法です。
もうひとつは、相手の城の水路を断つ戦法。籠城中も水は必要であり、多くの城には井戸が設置されていました。攻撃側は、坑道を掘って城内の井戸水を枯らし、水を得る手段を潰したのです。
豊臣秀吉は、兵糧攻めに加え水攻めも得意としていました。1582年(天正10年)、「備中高松城」(びっちゅうたかまつじょう:現在の岡山県岡山市)を攻めた「備中高松城の戦い」もそのひとつ。
低湿地帯に築かれ、足守川(あしもりがわ)を天然の堀にしていた備中高松城は、5,000人もの兵士が城の守りを固めていました。そこで、豊臣秀吉は、12日間を掛けて3㎞に及ぶ堤を築き、足守川をせき止め、その川の水を城内へ引き入れることで城を水没させたのです。さらに、水攻めにした備中高松城に軍船で近付き、鉄砲隊による攻撃も加えました。毛利軍の援軍40,000が駆け付けますが、水没する備中高松城を見て、豊臣秀吉と講和を決意したと言います。
1590年(天正18年)に起こった「忍城の戦い」(おしじょうのたたかい)も大規模な水攻めとして知られています。石田三成が利根川と元荒川に挟まれた湿地に建つ「忍城」(おしじょう:現在の埼玉県行田市)を攻めるにあたり、城の周囲に堤防を作って川の水を城に引き入れたのです。
この戦略は豊臣秀吉の命であり、石田軍は28kmにも及んだこの堤防を、わずか5日で築きました。しかし、本丸は沈まず、築いた堤防が大雨や城兵の手で崩された結果、石田軍の兵士数百人が流されるなどし、忍城に対する水攻めは失敗に終わりましたが、1ヵ月後に本城である「小田原城」(おだわらじょう:現在の神奈川県小田原市)が開城したことを受けて、忍城も開城しています。
水攻めのために短期間で土嚢(どのう)を大量に用意したり、堤防を築いたりするには、農民に頼る他ありません。農民を動かすには報酬が必要であり、水没による水攻めを成功させるには、優れた土木技術も重要でした。そのため、経済力のある限られた武将でないと実行には移せなかったと言えます。
もぐら攻めは、動物のもぐらのように敵陣の地下を掘り進める戦法です。地下から敵の城内へ侵入し、井戸を破壊したり、毒を混入したり、他の戦法と組み合わせて用いられました。また、地下の目に見えない場所から攻撃が来ると言う、心理的な恐怖によって敵陣を脅かす効果もあったと言えます。
もぐら攻めを得意としていた武将のひとりが武田信玄です。武田信玄は、「武蔵松山城」(むさしまつやまじょう:現在の埼玉県比企郡)を侵攻した際に、城周辺の横穴を見てもぐら攻めを思い付いたと言います。坑道を掘る技術に優れた「金山衆」(かなやましゅう)を動員し、城の地下を掘り進めて、トンネル内で爆発を起こしたと言う説もあるほど。
また、「野田城」(のだじょう:現在の愛知県新城市)を攻めた「野田城の戦い」でも、もぐら攻めにより敵の井戸を攻撃したと言われています。このように、武田信玄はもぐら攻めと水攻めを組み合わせて、心理的にも物理的にも敵を追い込むことで、城を落とすことに成功したのです。
合戦の主な目的は、領地を奪い、自国に服従させること。群雄割拠の戦国時代は、戦いの規模も大きくなり、攻防戦も複雑化していきました。ただ兵を集めて攻めるだけではなく、戦力差がある相手には奇襲で勝率を高め、籠城する相手には水攻めやもぐら攻めなどでジワジワと退路をなくすなど、様々な戦略が編み出されたのです。
武将によって好みや得意な戦法が異なるので、どんな戦法で勝敗が分かれたのかに注目してみると、歴史がもっと面白くなることでしょう。