「ペリー」による黒船来航をきっかけに、日本は開国へと向かい激動の時代へ突入します。幕末動乱のさなか、江戸幕府の再建のために奔走していたのが、天才と言われた幕臣「小栗忠順」(おぐりただずみ)。のちに「明治の父」と讃えられた忠順の功績を振り返ると共に、青年期に買い求めたと言われる日本刀「山浦環正行」(やまうらたまきまさゆき)についてご紹介します。
「小栗忠順」(おぐりただずみ)は、1827年(文政10年)、新潟奉行「小栗忠高」(おぐりただたか)の嫡男として生まれました。
祖先は「徳川家康」に随従して名を馳せた、三河(みかわ:現在の愛知県東部)生まれの「小栗忠政」(おぐりただまさ)、通称「又一」(またいち)で、「三河小栗氏」の12代目にあたります。
忠順は、幼い頃から武道と学問の両方において、秀でた才能を発揮。「幕末の三剣士」と称された「島田虎之助」(しまだとらのすけ)に剣術を学び、「直心陰流」(じきしんかげりゅう)の免許皆伝を許されます。
また、「砲術」(ほうじゅつ:鉄砲を操作する術)の修行にも励み、幕府鉄砲方の「田付主計」(たつけかずえ)に師事。このとき、同じく門弟だった「結城啓之助」(ゆうきけいのすけ)と出会い、お互いに蘭学を学ぶ者として意気投合して「開国説」を主張し合ったと言われています。
「幕府が大船製造を禁じたことは失策だ。一日も早くこれを改めて、盛んに大船を製造して海外諸国と交流すべきである。そうしなければ日本は進展しない」というのが、忠順の主張。しかし一方で国粋主義でもあったため、のちに幕末の漢方医で有名な「浅田宗伯」(あさだそうはく)とも意気投合。「欧米の文化を採り入れて、日本の利用厚生に貢献させるべきではあるが、我が国の衣食住は欧米諸国とは異なるため、むやみに洋化してはならない。必ずその影響は後世に残る」とも語っています。
忠順は幕末の混乱期においても、若い頃から常に達観して自分の考えを持ち、日本の未来のために行動する人物でした。
1855年(安政2年)、父・忠高の逝去に伴い家督を相続した忠順は、1857年(安政4年)に幕府から使番(つかいばん)に任じられます。
この翌年の6月19日に「日米修好通商条約」(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)が締結すると、当時開国に向けて動いていた大老「井伊直弼」(いいなおすけ)は、忠順の才覚を見込んで目付(めつけ:監察役)として「遣米使節団」へ送り込みました。
こうして忠順は、1860年(万延元年)に日米修好通商条約の批准書交換のため、遣米使節正使「新見正興」(しんみまさおき)らと共に渡米したのです。
まず、一行はワシントンで「ブキャナン大統領」に拝謁し、批准書を提出。その後、フィラデルフィアへ向かい、忠順は通貨の交換比率見直しの交渉に挑みます。比率改定には至らなかったものの、この交渉はアメリカの新聞で大きく取り上げられ、日本の交渉を絶賛する記事が掲載されました。
また、滞在中にワシントン海軍工廠(かいぐんこうしょう:造船所)を見学し、日本の製鉄技術との歴然たる差に驚愕。その衝撃を忘れないよう、記念にネジを持ち帰るのです。この1本のネジが忠順の心に火を点し、近代化を実現しようとする大きな一歩を踏み出すこととなります。
忠順は、遣米使節団として功績を挙げたことで幕臣として頭角を現し、「外国奉行」に抜擢。1862年(文久2年)には「勘定奉行」に就任し、1864年(元治元年)12月、幕府海軍を統括する「軍艦奉行」にも任命され、国防のために初めて米国から軍艦を購入しました。
同時に、日本における海軍の基礎を定めようと製鉄所、及び造船所の創設を発案。幕府からの承認を得たあと、1865年(慶応元年)11月15日に、相模国横須賀(さがみのくによこすか:現在の神奈川県横須賀市)に「横須賀製鉄所」の建設を開始。横浜の船舶小修理所の建設や、森林保存法を案出して船艦材料供給の道筋を立てるなど、様々な計画を実行しました。さらに鉄砲製造の責任者に任じられ、湯島の鋳造所を改良して「関口製造所」を建設。兵器の改鋳にも注力したのです。
その後、忠順は「陸軍奉行」にも就任。日本の陸軍における洋式訓練の端を開きました。1862年(文久2年)から歩兵・騎兵・砲兵の三兵の編制は始まっていたものの、その後も一定の規律が立たなかったことを遺憾とし、フランス公使に依頼して、指導者としてフランス軍人を招聘することを決意。
また、陸軍学校の設立や徴兵令の基盤となる制度にも着手するなど、日本の陸海軍における基礎を固めます。特に、多額の資金を投じて横須賀製鉄所の建設に着工したことは、のちに日本を近代化へ導く大英断だったことが分かるのです。
幕府軍が近代化に奔走していた頃、世の中は薩長の討幕運動による動乱の時代を迎えていました。第15代将軍「徳川慶喜」(とくがわよしのぶ)は「大政奉還」(たいせいほうかん)を行ない、政権を朝廷に返上。
しかし、新政府軍に不満を抱くようになり、旧幕府軍を結成して「鳥羽・伏見の戦い」を起こすのです。
ところが、旧幕府軍は、新政府軍に敗北。将軍・慶喜は江戸へ逃亡します。幕臣・忠順は、逃亡を図った慶喜を必死に説得し、自らが訓練の指揮を執ったフランス式陸軍と海軍を配置して新政府軍と戦うことを提案しますが、戦意喪失していた慶喜は忠順を拒否。
1868年(慶応4年)、忠順は罷免され、失意のまま上野国群馬郡権太村(こうずけのくにぐんまごおりごんだむら:現在の群馬県高崎市)へ家族と共に退くも、進攻してきた新政府軍に捕まり、無抵抗のまま斬首されました。享年42歳。処刑の理由は、新政府によってその才覚を恐れられたからだと言われています。
その後、1907年(明治40年)、日本は日露戦争で勝利。大将を務めた「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう)は、「勝利したのは小栗忠順が横須賀造船所を作っておいてくれたおかげ」と述べたことが有名です。明治維新を起こしたと言われる新政府ですが、実は近代化への構想は明治政府によるものではなく、忠順の案をそのまま採用したもの。そのため、司馬遼太郎は忠順のことを「明治の父」と呼び、讃えています。
あまりにも悲運な人生でしたが、忠順の構想はのちの日本に偉大な功績を残し、彼が本当に天才だったことを証明したのです。
忠順は若かりし頃、剣術や砲術と共に柔術の修行も行ない、軍学者である「窪田清音」(くぼたすがね)に師事していました。このとき、窪田邸で鍛刀していた刀工「源清麿」(みなもときよまろ)に出会い、父・忠高に無理を言って「山浦環正行」(やまうらたまきまさゆき)を購入したと言われています。
源清麿は、1813年(文化10年)3月、信濃国小諸藩赤岩村(しなののくにこもろはんあかいわむら:現在の長野県東御市)の名主である「山浦信友」の次男として誕生。1834年(天保5年)に武士を志したことから江戸へ出て、軍学者であり剣術家でもあった窪田の門を叩きます。ここで清麿は、窪田邸に鍛冶場を設けて鍛刀するようになり、次第に作刀に専念するようになりました。
本刀は、1839年(天保10年)頃の作。地刃の出来が特に傑出しています。