鎌倉時代から現代まで、岐阜県関市における刃物業界では、数々の優れた刀剣職人達が輩出されてきました。なかでも関鍛冶の名を全国に知らしめたとも言われるのが、和泉守兼定と孫六兼元と言う2名の刀剣職人。ここではそのうち、和泉守兼定についてご紹介します。
最初の和泉守兼定である2代目兼定は、1493年(明応2年)~1526年(大永6年)頃に活躍。美濃国(現在の岐阜県内)に住んでいました。
応仁の乱以降から室町時代末期までに生まれた日本刀は「末関」(すえせき)と呼ばれますが、「関の孫六」で有名な孫六兼元(2代目兼元)と並び、末関の双璧とうたわれます。兼定の日本刀は切れ味がたいへん良いことで武将達に好まれました。
2代目兼定は名工中の名工であり、1511年(永正8年)に「和泉守」を受領(ずりょう)します。これは地方官に任命されたことを意味し、朝廷から授けられた官職名です。地方官職のうち位が高い順に守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)となります。
2代目兼定が守を受領するのは、当時の刀剣職人としては異例のこと。格式があるために江戸中期までは官職名を自由に名乗ることはできませんでした。
2代目兼定は、日本刀の銘切りに「定」の字をう冠の下に「之」とすることが多くありました。そのため、「之定」(のさだ)の通称が広まります。
あとに続く三代兼定も名工で、兼定は定の字を楷書で銘切りしたので、「疋定」(ひきさだ)と呼ばれました。
2代目兼定と他にもうひとり、和泉守兼定の名で知られるのは、11代兼定です。登場は2代目兼定から約300年あとになる江戸時代末期。現在の福島県内に位置する会津の地で活躍しました。
11代和泉守兼定は、岐阜県発祥の日本刀ブランド「兼定」のラストを飾る職人で、名工として後世に名を残します。1837年(天保8年)~1903年(明治36年)に存命した人物で、出身は会津。青年期から父である10代兼定から、日本刀作りの技法を学びます。
会津藩主である松平氏のお抱え刀工であった11代兼定は、松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職に任命されたのを機に、1863年(文久3年)に京都へ移住。そこで修業を積んで和泉守を受領し、2年後、再び帰郷しました。以降、手掛けた刀には和泉守兼定と銘を切ります。
11代である和泉守兼定は、新選組のためにも刀を作りました。
特に、近藤勇(こんどういさみ)や沖田総司(おきたそうじ)らとともに活躍し、「鬼の副長」の異名を持つ土方歳三(ひじかたとしぞう)が愛用したことは有名です。
歳三が愛用した和泉守兼定は、今では土方歳三資料館がある東京都日野市の有形文化財に指定。同資料館に保存され、5月にある歳三の命日に合わせて公開展示が行なわれています。
サイズは2尺3寸1分6厘。この日本刀は、歳三が藩主松平氏より授けられた最後の佩刀(はいとう)でした。佩刀とは、腰に帯びた日本刀のことです。
この和泉守兼定は柄糸が摩耗し、鞘には疵痕が残り、歳三がこの刀に格別の愛着があったことがうかがえます。かつては物打部分に刃こぼれが見られ、実戦での様子を伝えていましたが、保存のために昭和初期に一度研ぎ上げられています。
この和泉守兼定は箱館戦争のとき、遺髪や写真、手紙などと共に実家に送られてきた物で、死を覚悟した歳三が遺品として送ったとも推察されています。