関市における刀剣の特徴

美濃伝の名工・和泉守兼定
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美濃伝の名工・和泉守兼定 美濃伝の名工・和泉守兼定
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鎌倉時代から現代まで、岐阜県関市における刃物業界では、数々の優れた刀剣職人達が輩出されてきました。なかでも関鍛冶の名を全国に知らしめたとも言われるのが、和泉守兼定と孫六兼元と言う2名の刀剣職人。ここではそのうち、和泉守兼定についてご紹介します。

岐阜県関市で受け継がれる兼定とは

刃物の町として知られる岐阜県関市。この地で日本刀を作る職人は古くから「関鍛冶」と呼ばれてきましたが、関鍛冶の2大ブランドとも言えるのが、「孫六兼元」(まごろくかねもと)と「兼定」(かねさだ)です。

この2つの名は代々継承され、長年に亘って刀に「」(めい)として刻まれてきました。

銘切りとは

銘 和泉守兼定

銘 和泉守兼定

銘とは、一般的には作品に刻まれた作者の名前のこと。日本刀の場合、その刀を作った人の名前や日付、作った地名といったものが刀身(なかご)と呼ばれる部分などに彫られます。

もともと、刀に銘を入れることは、702年(大宝2年)に大宝律令が施行されてから義務付けられました。

日本刀は作り手の技量によって出来が異なるため、作り手が誰であるのかを明確にすることを目的に法令化されたと考えられています。「鏨」(たがね)という道具で刻まれ、「銘を切る」と表現されます。

銘は本名とは異なる物が切られるのが一般的。例えば本名が古川清左衛門であっても、銘は兼定とするといった具合です。

受け継がれた兼定の名

刀工 和泉守兼定

刀工 和泉守兼定

岐阜県関市の名工として今も名を残す兼定は、室町時代初期から1392年(元中9・明徳3年)まで続く南北朝時代に発祥。

初代については不明な点が多く、関鍛冶の礎を築いた志津一派の流れであり、赤坂(現在の岐阜県大垣市のあたり)に住んでいたなどの説があります。

兼定の名はそれから代々継承され、16世紀半ばまでその名を銘切る刀工が関を拠点に活動。そののち、活動拠点を会津(現在の福島県内)に移し、明治期に至るまで11代継承されます。

11代に亘る兼定のうち、特に有名なのが2代目と11代目。「和泉守兼定」(いずみのかみかねさだ)と言えば、この2人の名工のことを指します。

最上大業物に名を連ねる

優れた日本刀やその作者を表わす用語として、最上大業物(さいじょうおおわざもの)という言葉があります。一般的に、切れ味のたいへん優れた刀のこと。厳密には、1805年(文化2年)に山田浅右衛門がまとめた「懐宝剣尺」(かいほうけんじゃく)などの書で使われた分類のひとつです。

刀の切れ具合によって下から業物良業物大業物、最上大業物と4つあり、最上大業物はその最上クラス。最上大業物の職人と言うと、作った日本刀のほとんどがよく切れる、という評価にあたります。

「孫六兼元」(2代兼元)と「和泉守兼定」(2代兼定)は、いずれも最上大業物に名を連ねる岐阜県関市が誇る関鍛冶の2大ブランドです。

岐阜県関市エリアで活動した和泉守兼定

最初の和泉守兼定である2代目兼定は、1493年(明応2年)~1526年(大永6年)頃に活躍。美濃国(現在の岐阜県内)に住んでいました。

応仁の乱以降から室町時代末期までに生まれた日本刀は「末関」(すえせき)と呼ばれますが、「関の孫六」で有名な孫六兼元(2代目兼元)と並び、末関の双璧とうたわれます。兼定の日本刀は切れ味がたいへん良いことで武将達に好まれました。

地方官に任命される栄誉

2代目兼定は名工中の名工であり、1511年(永正8年)に「和泉守」を受領(ずりょう)します。これは地方官に任命されたことを意味し、朝廷から授けられた官職名です。地方官職のうち位が高い順に守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)となります。

2代目兼定が守を受領するのは、当時の刀剣職人としては異例のこと。格式があるために江戸中期までは官職名を自由に名乗ることはできませんでした。

「のさだ」の銘切りで知られる

之定の銘切り

之定の銘切り

2代目兼定は、日本刀の銘切りに「定」の字をう冠の下に「之」とすることが多くありました。そのため、「之定」(のさだ)の通称が広まります。

あとに続く三代兼定も名工で、兼定は定の字を楷書で銘切りしたので、「疋定」(ひきさだ)と呼ばれました。

武田信虎や明智光秀らが愛用

柴田勝家

柴田勝家

安土桃山時代や江戸時代には、各地で戦国大名がお気に入りの刀剣職人を専属させる「お抱え」制度が行なわれるようになったのです。

和泉守兼定の刀も名だたる武将達に愛されました。織田信長を家臣として支えた柴田勝家や池田恒興、武田信玄の父である武田信虎(たけだのぶとら)、明智光秀とその娘婿である織田信澄(おだのぶずみ)、豊臣秀吉徳川家康に仕えた細川三斎(ほそかわさんさい)などに愛用された歴史が残ります。

東北で活動した会津十一代和泉守兼定

2代目兼定と他にもうひとり、和泉守兼定の名で知られるのは、11代兼定です。登場は2代目兼定から約300年あとになる江戸時代末期。現在の福島県内に位置する会津の地で活躍しました。

岐阜県ではない福島県に兼定?

岐阜県関市と福島県では距離がありますが、なぜ兼定がそのような地で継承されたのでしょうか。

それは、関の3代兼定の子である清右衛門がこの地に移住したためです。以来、「会津の兼定」の歴史が始まります。清右衛門を会津の初代兼定とし、江戸時代が終わるころまで藩から注文を受けて日本刀を作りました。

会津兼定が作った刀は、多くが質実剛健で機能美に優れたバランスの良品。会津藩士達にはもちろん、京都で治安維持にあたった同藩組織「新選組」のメンバーにも使用されました。

優れた日本刀の作り手、11代兼定

11代和泉守兼定は、岐阜県発祥の日本刀ブランド「兼定」のラストを飾る職人で、名工として後世に名を残します。1837年(天保8年)~1903年(明治36年)に存命した人物で、出身は会津。青年期から父である10代兼定から、日本刀作りの技法を学びます。

会津藩主である松平氏のお抱え刀工であった11代兼定は、松平容保(まつだいらかたもり)が京都守護職に任命されたのを機に、1863年(文久3年)に京都へ移住。そこで修業を積んで和泉守を受領し、2年後、再び帰郷しました。以降、手掛けた刀には和泉守兼定と銘を切ります。

新選組 土方歳三が好んだ日本刀

土方歳三

土方歳三

11代である和泉守兼定は、新選組のためにも刀を作りました。

特に、近藤勇(こんどういさみ)や沖田総司(おきたそうじ)らとともに活躍し、「鬼の副長」の異名を持つ土方歳三(ひじかたとしぞう)が愛用したことは有名です。

歳三が愛用した和泉守兼定は、今では土方歳三資料館がある東京都日野市の有形文化財に指定。同資料館に保存され、5月にある歳三の命日に合わせて公開展示が行なわれています。

サイズは2尺3寸1分6厘。この日本刀は、歳三が藩主松平氏より授けられた最後の佩刀(はいとう)でした。佩刀とは、腰に帯びた日本刀のことです。

この和泉守兼定は柄糸が摩耗し、には疵痕が残り、歳三がこの刀に格別の愛着があったことがうかがえます。かつては物打部分に刃こぼれが見られ、実戦での様子を伝えていましたが、保存のために昭和初期に一度研ぎ上げられています。

この和泉守兼定は箱館戦争のとき、遺髪や写真、手紙などと共に実家に送られてきた物で、死を覚悟した歳三が遺品として送ったとも推察されています。

和泉守兼定
和泉守兼定
不明
鑑定区分
未鑑定
刃長
-
所蔵・伝来
松平容保 →
土方歳三 →
土方歳三資料館

薙刀 銘 和泉守兼定作
薙刀 銘 和泉守兼定作
和泉守兼定作
鑑定区分
重要刀剣
刃長
61
所蔵・伝来
京極高次→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

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孫六兼元(関孫六)

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