日本刀への造詣が深く、自ら作刀も手掛けた「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が設けた「御番鍛冶」(ごばんかじ)とは、どのような制度だったのでしょうか。後鳥羽上皇が心に抱いた志や、御番鍛冶制度が後世に与えた影響など、多角的に述べていきます。
多芸多才で知られる後鳥羽上皇のもとでは、蹴鞠(けまり)、音曲(おんぎょく)、書、絵画、舞楽など、華やいだ王朝文化が栄えました。それらは、特定の貴族の家に家業として伝えられていきます。
後鳥羽上皇自身も、1198年(建久9年)1月、19歳という若さで息子の「土御門天皇」(つちみかどてんのう)に天皇の座を譲り、和歌や書画、管弦(篠笛や琵琶)、蹴鞠、水練(すいれん)、相撲、笠懸(かさがけ:弓矢の騎射)など諸芸を磨くことに力を注ぎました。
さらに武道にも秀で、自ら日本刀を打ったと伝えられるほど、歴代皇族の中でも異彩を放つ、天才肌の天皇と言えます。武術、文化、芸術を尊重するその想いは、優れた才能を発揮する人を庇護(ひご)し、時に共同作業を通して後世に作品を残しました。
その中でも、御番鍛冶制から生まれた銘刀「菊御作」(きくごさく)は、後鳥羽上皇が残した最も偉大な文化遺産のひとつ。「銘刀」とは、銘の入っている優れた日本刀のことです。
後鳥羽上皇が日本刀を作らせるため御番鍛冶制を設けたのは、1208年(承元2年)、29歳の頃と伝えられています(※異論・異説あり)。
鎌倉幕府に対して朝廷の力を取り戻し、天皇親政(天皇自身が政治を行なうこと)を敷く意志を抱き、北面(ほくめん)・西面(さいめん)の武士制度を整えた後鳥羽上皇。朝廷を守る武士達の士気を高め、日本刀の技術や文化水準を上げるための計画が御番鍛冶制でした。
後鳥羽上皇が無類の刀剣好きになった理由には、壇ノ浦で入水した異母兄「安徳天皇」(あんとくてんのう)と共に、皇位継承に不可欠な神器の草薙剣(くさなぎのつるぎ)が失われ、神器を持たずに即位した天皇としての引け目があったとも言われています。
後鳥羽上皇自身が優れた刀の目利きであったことは、「後鳥羽天皇」の即位から15代、約150年間の歴史を記した歴史物語「増鏡」(ますかがみ)にも記されているのです。
後鳥羽上皇が御番鍛冶に任命したのは、備前(現在の岡山県南東部)、備中(現在の岡山県西部)、山城(現在の京都府)から招いた、「粟田口派」(あわたぐちは)や「一文字派」(いちもんじは)などの名工達。
月番制に加わったのは、12人あるいは24人などと言われ、備前、備中、山城には、他国をしのぐ高水準の刀剣技術が存在していたことを物語っています。
天皇・上皇という立場から公的な記録は残っておらず、当時の刀工達の編成には諸説ありますが、一説によると、御番鍛冶には40名ほどの名が挙がり、20余名と最も多い備前を筆頭に、備中、山城が中心となり、美作(現在の岡山県北東部)、大和(現在の奈良県)、伯耆(ほうき:現在の鳥取県西部)、豊後(現在の大分県)からも1名ずつ、さらに奉授工(ほうじゅこう:上皇に鍛刀技術の手ほどきを行なう刀工)として「粟田口久国」(あわたぐちひさくに)と「一文字信房」(いちもんじのぶふさ)の両名が選ばれました。
現存する御番鍛冶ゆかりの日本刀は太刀(たち)のみですが、いずれも備前と山城の作風を良く伝える作品で、備前の作風として、刃文は焼幅の広い重花丁子(じゅうかちょうじ)、地鉄(じがね)は杢目肌(もくめはだ)の美しい丁子映り。山城の作風は、京反り(きょうぞり)の深く優しい細身の姿で、共に品格が高い名刀と評価されています。
御番鍛冶には作刀を担当する月が割り振られていました。この制度は毎月1名ずつ定めた12名体制が通説ですが、毎月2名ずつ定めた24名体制(後述の二十四人番鍛冶)という説も存在しています。
一例として、刀剣ワールド財団〔 東建コーポレーション 〕収蔵の刀剣をご紹介します。
公的な記録が見つかっておらず、伝説のように語り継がれてきた御番鍛冶ですが、国宝・重要文化財の「菊御作」に代表されるような、菊花紋が彫り込まれた鎌倉時代初期の太刀が残されているのは紛れもない事実です。
1579年(天正7年)に刊行された「新刊秘伝抄」(しんかんひでんしょう:宇都宮三河入道の末裔、竹屋惣左衛門理安[たけやそうざえもんりあん]により編集)や、1611年(慶長16年)以来、江戸時代を通じ最も権威があるとされ、何度も版を重ねた「古今銘尽大全」(ここんめいづくしたいぜん)などの刀剣目利きの鑑定書には、いずれも「後鳥羽院御番鍛冶」が記されています。
また、御番鍛冶の日本刀は、「御所作り」とも呼ばれ、「太平記」の中にも記され、さらに「承久の乱」を記した江戸時代の軍記「承久軍物語」(じょうきゅういくさものがたり)には、「御所焼」として登場。御所作りと御所焼は、いずれも後鳥羽上皇の御所、水無瀬宮で作られたという意味です。
後鳥羽上皇が名工を集め銘刀を作らせたとの伝承は、鎌倉時代半ば以降に広く武士や刀工の間にも広まり、時の権力者達が優れた鍛冶師を取り立て、御番鍛冶に高位高官や所領(しょりょう)を与えるなど、刀工達の社会的地位を高めました。
後鳥羽上皇の御番鍛冶は、日本刀に武器としての役割を超えた精神性を与え、芸術・文化の域にまで高め、世界に類を見ない最高水準の作品を後世に伝える、日本の刀剣文化の嚆矢(こうし:物事のはじめ)となったのです。
隠岐で崩御した「後鳥羽院」(後鳥羽上皇のおくり名)の遺勅(いちょく:後世に残された天皇の命令)に基づき、息子の土御門天皇が隠岐より後鳥羽上皇の神霊(しんれい:神のみたま)を迎え、水無瀬宮の跡に建立したのが「水無瀬神宮」(みなせじんぐう:大阪府三島郡島本町)。そこには、現在も後鳥羽院直筆の文書・宸翰(しんかん:天皇直筆の文書)が安置されています。
国宝「後鳥羽天皇宸翰御手印置文」(ごとばてんのうしんかんおていんおきぶみ)は、隠岐に流され、自身の余命がいくばくもないことを悟った後鳥羽院が、忠臣「藤原親成」(ふじわらちかなり)の行く末を案じ、自らが崩じたあと摂津国(現在の大阪府)の水無瀬・井口両庄と、出雲国(現在の島根県)の持田・加賀の両領地が無事に親成へ受け継がれるよう記した文書。後鳥羽院の貴重な手形も残されています。
また、国宝「後鳥羽院宸翰消息」(ごとばてんのうしんかんごしょうそく)には、「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁[人の心を惑わせる魔物]となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それはすべて我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との言葉が記されており、この置文の影響から、「三浦義村」(みうらよしむら)や「北条時房」(ほうじょうときふさ)の死にまつわる後鳥羽院怨霊説などがささやかれたのです。
菊御作は数振現存しており、現在京都国立博物館に収蔵されている作品は、国宝・重要文化財に指定されています。
鎌倉初期の作風を今に伝える細身の刀で、鎺下(はばきした)に12弁の菊花が刻まれています。後鳥羽上皇が鍛えた菊御作の中でも最も古様で、山城風の強い作品です。13世紀初頭の日本刀の優美さを今に伝える銘品と言われています。
また、現存する菊御作のうち、「御物」(ぎょぶつ)となっている作品は2振です。御物とは、皇室の所有品のことを指します。1振は、1902年(明治13年)に政治家で華族の「黒田長成」(くろだながしげ)が、黒田家伝来の菊御作御太刀を明治天皇に献上。もう1振は、熊本藩士であり儒学者でもある「元田永孚」(もとだながざね)が、1888年(明治21年)に同じく明治天皇に献上した作品です。これらの菊御作は、昭和天皇の即位礼(そくいれい:皇位継承を国の内外に示す儀式)に用いられました。