日本刀の名刀

天下五剣 鬼丸国綱
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数ある名刀の中でも特に名刀と言われた「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられる「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)は、鎌倉時代の刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)が作刀した太刀です。鬼丸の号(ごう:呼び名)は、かつての所持者「北条時政」(ほうじょうときまさ)を苦しめた小鬼を退治したという逸話に由来。ここでは、数々の逸話を有する「御物」(ぎょぶつ:皇室の私有財産)である鬼丸国綱をご紹介します。

鬼丸国綱
様々な「名刀」と謳われる刀剣を詳しくご紹介します。

鬼丸国綱とは

鬼丸国綱は、天下五剣の中で唯一、「国宝」にも「重要文化財」にも指定されていません。その理由は、皇室の私有財産である「御物」(ぎょぶつ)であるということ。

国宝や重要文化財は、「文化財保護法」に基づいて指定されますが、慣習上、御物がこれらに指定されることはありません。なぜならば、同法の趣旨が「国民の財産」とも言える文化財(私有財産)を適切に保存することで、それらを受け継いでいくことにあるため、宮内庁などによって適切に保存等がなされている御物には、国宝や重要文化財に指定することによって「保護」する必要性が低いと言えるからです。

そのため、御物となっている刀剣が、国宝や重要文化財に指定されている刀剣と比べて、文化財としての価値が低いということはありません。

徳川吉宗

徳川吉宗

鬼丸国綱についても、それは同様。徳川8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)の命によって作られた約250振の名刀リスト「享保名物帳」(きょうほうめいぶつちょう)に、他の4振と共に掲載されていることから、その文化財的な価値の高さを察することができます。

もっとも、御物は皇室の私有財産であり、保管も厳重。そのため、鬼丸国綱が一般に公開される機会は、他の4振と比べて最も限定的であるのが実情です。

鬼丸国綱を作刀した刀工「粟田口国綱」

鬼丸を作刀した刀工の名は粟田口国綱で、本名は「林藤六郎」(りんどうろくろう)。粟田口国綱は京出身の刀工で、鎌倉時代初期に活動していました。五箇伝のひとつ、「山城伝」(やましろでん)の「粟田口派」という刀工集団を率いた刀工「粟田口国家」(あわたぐちくにいえ)の6人息子の末子です。国家の息子達は、父譲りの作刀技術を受け継ぎ、皇室に日本刀を納める「御番鍛冶」(ごばんかじ)となっています。

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

御番鍛冶とは、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が名のある刀工を全国から京都に呼び寄せ、月ごとに当番を決めて太刀を打たせた制度。

自らも鍛刀したと言われている後鳥羽上皇は、その高い鑑識眼で優れた刀工を見極めていました。粟田口国綱も御番鍛冶を務め、のちに鎌倉幕府の招きによって相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)へと渡り、五箇伝のひとつ「相州伝」(そうしゅうでん)の確立に貢献したのです。

粟田口国綱と後鳥羽上皇は、固い絆で結ばれていました。後鳥羽上皇(法皇:出家した上皇の称号)は、鎌倉幕府に対する反乱(承久の乱)を起こした罰として、隠岐(おき:現在の島根県隠岐諸島)に追放されます。そのとき、後鳥羽上皇(後鳥羽法皇)と共に隠岐へと渡った御番鍛冶のひとりが粟田口国綱だったのです。

隠岐に移り住んだ粟田口国綱に対して、「辺境の島にいるには惜しい刀工」と評価していた北条家(幕府)からは、何度も鎌倉へ招待する旨の連絡が届いたと言われています。しかし粟田口国綱は、その招きを断り続けたのです。

そんな粟田口国綱が、北条家(幕府)からの招きに応じたのは、最初の招きから約20年後。後鳥羽上皇(後鳥羽法皇)が崩御して1周忌が済んだあとでした。後鳥羽上皇(後鳥羽法皇)が最期を迎えるまで側で仕えた粟田口国綱は、忠義に厚い人柄だったと言えます。その心中は、「後鳥羽上皇(後鳥羽法皇)の在命中はお側から離れるわけにはいかない」というものであったのかもしれません。

鬼丸国綱にまつわるエピソード

鬼丸という号の由来

南北朝時代の軍記物「太平記」には、鬼丸の号の由来が記されています。

鎌倉幕府の初代執権北条時政は、夢の中に現れる小鬼に苦しめられていました。お祓いを何度行なっても効果はなく、みるみる衰弱。そんなある晩、「鬼丸国綱」を名乗る老人が夢の中に現れて、北条時政に対してこう語り掛けました。「汚れた者の手に握られてしまったせいで、錆びてから抜けなくなってしまったから、錆を拭って欲しい。頼みを聞いてくれたら、小鬼を退治しよう」。

目覚めた北条時政は、夢の中に出てきた老人の言う通りに、所持していた「国綱」という刀工が打った太刀の錆を落とします。そして、手入れ後の太刀を鞘から出した状態(抜き身)で寝室の柱に立てかけておいたところ、その太刀が倒れたのです。その拍子に、近くにあった火鉢の足を切り落としました。

北条時政が切り落とされた飾りを手に取り見てみると、なんと夢に出てくる小鬼の顔とそっくりだったのです。夢に現れた小鬼の正体は、火鉢に宿っていた妖怪でした。

それ以来、北条時政は小鬼の悪夢から解放されて快復していきます。小鬼を退治した太刀は、北条時政によって鬼丸という号を与えられ、北条家の宝刀となりました。

鬼丸国綱と鬼切安綱

新田義貞

新田義貞

北条家の宝刀だった鬼丸国綱でしたが、1331年(元弘元年)に勃発した「元弘の乱」(げんこうのらん)で北条家が滅ぶと、戦利品として持ち去られました。鬼丸国綱の新しい所持者となったのは、北条家を倒した武将「新田義貞」(にったよしさだ)。

また新田義貞は、鬼丸国綱以外にも「鬼切安綱」という日本刀も戦利品として奪っています。なお、鬼切安綱は、源氏が代々受け継いできた宝刀で、号は「鬼切」。

新田義貞は、鬼丸国綱と鬼切安綱の宝刀をとても気に入り、合戦時はこの2振を帯刀していました。合戦では飛来する矢を両手に持った宝刀で次々と薙ぎ払ったと言われています。

剣豪将軍の最期に立ち会う

足利義輝

足利義輝

鬼丸国綱には、数多の者を斬ったという逸話があります。鬼丸を実戦で使用したとされるのは、室町幕府の第13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)。

足利義輝は、「塚原ト伝」(つかはらぼくでん)と「上泉信綱」(かみいずみのぶつな)という2人の剣聖に奥義を授けられたと言われているほどの剣術の腕前を誇ったことから、「剣豪将軍」と呼ばれています。

1565年(永禄8年)、足利義輝は家臣の裏切りによって、住んでいた京都二条御所を襲撃されました。いわゆる「永禄の変」(えいろくのへん)です。10,000の敵軍に囲まれた絶体絶命の状況下で、足利義輝は剣豪将軍の名に恥じない奮闘を見せます。

天下五剣のうちの4振を所持していたと言われている足利義輝は、「三日月宗近」を腰に佩き、鬼丸国綱、「童子切安綱」、「大典太光世」で襲い掛かってくる敵と対峙したとも伝えられているのです。

剣豪将軍・足利義輝の強さは凄まじく、ひとりで30人以上の敵を討ち取ったとも。しかし多勢に無勢、最期は四方から槍で突かれて壮絶に散ったと言われています。

鬼丸国綱の所有者達

鬼丸国綱は、これまで多くの所有者達のもとを渡ってきました。北条家、豊臣家、徳川家、後水尾天皇などです。所有者達と鬼丸国綱がどうかかわったのかを紹介していきます。

北条高時

鎌倉幕府の初代執権・北条時政を小鬼の悪夢から救って以来、鬼丸国綱は北条家の宝刀となりました。北条家において、鬼丸の最後の所持者となったのが鎌倉幕府14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)です。

後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の命を受けた討幕軍の武将・新田義貞が北条軍との合戦の末、鎌倉を包囲すると、北条高時は自刃に追いこまれました。死の直前、北条高時は家宝でもあった鬼丸国綱を敵の手に渡らないように、信濃へ運ぶように手配。その後、鬼丸国綱は信濃に送り届けられましたが、受け取った武将が新田義貞に討ち取られます。

こうして、鬼丸国綱は北条家の手を離れ、新田義貞の愛刀となりました。

豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉

豊臣秀吉」は、無類の刀剣好きとして有名です。

1588年8月29日(天正16年7月8日)に布告した「刀狩令」は、農民から武器を取り上げるというのは名目に過ぎず、実は名刀を収集するために行なわれたという説もあるほどでした。

そんな豊臣秀吉は、天下五剣に関しては「数珠丸恒次」以外の4振を所持。その内、三日月宗近は正室「ねね」に、大典太光世は盟友「前田利家」(まえだとしいえ)に贈りましたが、鬼丸国綱と童子切安綱は、刀の鑑定家である「本阿弥家」(ほんあみけ)に預けたのです。

豊臣秀吉が鬼丸国綱と童子切安綱の2振を明らかに「冷遇」した理由として挙げられているのが、「を斬った逸話」に不吉なものを感じていたとされること。権力の頂点に君臨していた天下人・豊臣秀吉と言えども、鬼丸国綱と童子切安綱からは、得体の知れない「何か」を感じ取っていたのかもしれません。

徳川家康

徳川家康

徳川家康

大坂夏の陣」で豊臣家が滅びると、豊臣家の所持していた刀剣は、すべて徳川家に移りました。

そこで、本阿弥家が預かっていた鬼丸国綱も徳川家康のもとに届けられるべく手はずが整えられていましたが、徳川家康はそれを拒否。その理由は「太閤[豊臣秀吉]が考えあって預けたのだろうから、このまま本阿弥家のもとで良い」というものでした。

徳川家康は「織田信長」、豊臣秀吉の三英傑の中で、最も慎重な性格だったとされています。天下人の豊臣秀吉が手元に置くことをためらったことに加え、北条家、足利家と滅亡した家を渡ってきた鬼丸国綱を敬遠した用心深さに、「らしさ」が表れているという見方をすることも可能です。

後水尾天皇

後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)に皇太子が誕生した際、徳川家はお祝いとして鬼丸国綱を献上しました。

しかし、皇太子が若くして「薨御」(こうぎょ:皇太子が死去すること)すると、鬼丸国綱は「不慮の出来事の原因となった、いわく付きの日本刀」と恐れられ、再び本阿弥家に預けられることに。

明治に入り、「廃刀令」が施行されると、刀の鑑定や研磨などを生業としてきた本阿弥家は衰退していきました。本阿弥家で刀を管理することが困難となったことで、鬼丸国綱は宮内省に引き取られて、明治天皇に献上されたのです。

こうして鬼丸国綱は皇室の私有財産(御物)となり、現在に至っています。

鬼丸国綱の解説

皇室の私有財産「御物」である鬼丸国綱は、厳重に保管されているために一般公開されることが貴重です。なかなかお目にかかる機会がないので、「この日本刀の姿形にかんする情報が欲しい」という方はいらっしゃるでしょう。

そこで、鬼丸国綱の「基本情報」、「特徴」、「造り」、「刃文」、「地鉄」、「」、「」について解説していきます。

鬼丸国綱の基本データと特徴

鬼丸国綱は、刃長78.2cm、反り3.1cm。刀身全体が均等に反っていて、なおかつ反りの中心が刃長の中ほどに位置している「輪反り」(わぞり)と呼ばれる反りが特徴的です。

鬼丸国綱の反りは、日本刀の中でも稀に見るほどの強さ。その強い反りと、鋒/切先(きっさき)に向かうにつれ細くなっていく刃幅が織り成す姿は、太刀の理想的な形と言われています。

鬼丸国綱

鬼丸国綱

鬼丸国綱の造り

鬼丸国綱の造りは、平地と鎬地を区切る稜線を刀身に入れる「鎬造り」(しのぎづくり)と刀身の断面において、の形が三角形に見える「庵棟」(いおりむね)が採用されています。

棟の種類

棟の種類

鬼丸国綱の刃文

鬼丸国綱の刃文は、「沸出来」(にえでき)の「小乱れ」(こみだれ)。

(にえ)とは、刀身に焼きを入れた際にできた肉眼で見えるほどの大きく粗い粒子によって形成される模様のことで、沸が多いことを沸出来と言います。

また、小乱れとは、「大互の目」(おおぐのめ)や「湾れ刃」(のたれば)といった代表的な刃文に分類することができない小さく複雑な模様のこと。

きらきらと美しく輝く沸と、鋒/切先に向かって描かれる美しい小乱れが、鬼丸国綱の刃文の特徴です。

刃文の種類

刃文の種類

鬼丸国綱の地鉄

鬼丸国綱の地鉄(じがね)には、本来は刃に現れる沸が見られます。そして、地鉄の「映り」(うつり:刀身を光に透かしたときに見える模様)は、白い霞のような模様と黒い帯がコントラストをなす「地斑映り」(じふうつり)です。

鬼丸国綱の茎

鬼丸国綱の茎(なかご)は、「磨上げ」(すりあげ:茎尻[なかごりじり]から切り縮めて刀身全体を短くすること)をしていない作刀当初の形を残した「生ぶ茎」(うぶなかご)です。

目釘穴」(めくぎあな)がひとつあり、「峰/棟」(みね)側に国綱の二文字のが切られています。

茎の種類

茎の種類

鬼丸国綱の拵

鬼丸国綱の拵(こしらえ)は、鞘とを皺模様の入った革で包み、鍔を黒漆の革袋で覆った「革太刀様式」。

刀身を革で覆うことにより、高い防水性を実現しています。つまり、雨に降られたり、水場に落ちたりしても、拵を装着していれば、刀身を錆から守ることができるのです。この機能性が評価され、こうした拵の様式は「鬼丸拵」と呼ばれるようになりました。

鬼丸国綱の拵

鬼丸国綱の拵

鬼丸国綱の刀身が制作されたのは鎌倉時代ですが、拵が作られたのは室町時代頃。戦国時代になると、拵は文武両道の武将「細川幽斎」(ほそかわゆうさい:細川藤高)によって修復され、現在まで形を保っています。

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天下三名槍

天下三名槍 蜻蛉切

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天下三名槍 蜻蛉切

天下三名槍 日本号

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