数ある名刀の中でも特に名刀と言われた「天下五剣」(てんがごけん)の1振に数えられる「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)は、鎌倉時代の刀工「粟田口国綱」(あわたぐちくにつな)が作刀した太刀です。鬼丸の号(ごう:呼び名)は、かつての所持者「北条時政」(ほうじょうときまさ)を苦しめた小鬼を退治したという逸話に由来。ここでは、数々の逸話を有する「御物」(ぎょぶつ:皇室の私有財産)である鬼丸国綱をご紹介します。
鬼丸国綱は、天下五剣の中で唯一、「国宝」にも「重要文化財」にも指定されていません。その理由は、皇室の私有財産である「御物」(ぎょぶつ)であるということ。
国宝や重要文化財は、「文化財保護法」に基づいて指定されますが、慣習上、御物がこれらに指定されることはありません。なぜならば、同法の趣旨が「国民の財産」とも言える文化財(私有財産)を適切に保存することで、それらを受け継いでいくことにあるため、宮内庁などによって適切に保存等がなされている御物には、国宝や重要文化財に指定することによって「保護」する必要性が低いと言えるからです。
そのため、御物となっている刀剣が、国宝や重要文化財に指定されている刀剣と比べて、文化財としての価値が低いということはありません。
鬼丸を作刀した刀工の名は粟田口国綱で、本名は「林藤六郎」(りんどうろくろう)。粟田口国綱は京出身の刀工で、鎌倉時代初期に活動していました。五箇伝のひとつ、「山城伝」(やましろでん)の「粟田口派」という刀工集団を率いた刀工「粟田口国家」(あわたぐちくにいえ)の6人息子の末子です。国家の息子達は、父譲りの作刀技術を受け継ぎ、皇室に日本刀を納める「御番鍛冶」(ごばんかじ)となっています。
御番鍛冶とは、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が名のある刀工を全国から京都に呼び寄せ、月ごとに当番を決めて太刀を打たせた制度。
自らも鍛刀したと言われている後鳥羽上皇は、その高い鑑識眼で優れた刀工を見極めていました。粟田口国綱も御番鍛冶を務め、のちに鎌倉幕府の招きによって相模国(さがみのくに:現在の神奈川県)へと渡り、五箇伝のひとつ「相州伝」(そうしゅうでん)の確立に貢献したのです。
粟田口国綱と後鳥羽上皇は、固い絆で結ばれていました。後鳥羽上皇(法皇:出家した上皇の称号)は、鎌倉幕府に対する反乱(承久の乱)を起こした罰として、隠岐(おき:現在の島根県隠岐諸島)に追放されます。そのとき、後鳥羽上皇(後鳥羽法皇)と共に隠岐へと渡った御番鍛冶のひとりが粟田口国綱だったのです。
隠岐に移り住んだ粟田口国綱に対して、「辺境の島にいるには惜しい刀工」と評価していた北条家(幕府)からは、何度も鎌倉へ招待する旨の連絡が届いたと言われています。しかし粟田口国綱は、その招きを断り続けたのです。
そんな粟田口国綱が、北条家(幕府)からの招きに応じたのは、最初の招きから約20年後。後鳥羽上皇(後鳥羽法皇)が崩御して1周忌が済んだあとでした。後鳥羽上皇(後鳥羽法皇)が最期を迎えるまで側で仕えた粟田口国綱は、忠義に厚い人柄だったと言えます。その心中は、「後鳥羽上皇(後鳥羽法皇)の在命中はお側から離れるわけにはいかない」というものであったのかもしれません。
南北朝時代の軍記物「太平記」には、鬼丸の号の由来が記されています。
鎌倉幕府の初代執権・北条時政は、夢の中に現れる小鬼に苦しめられていました。お祓いを何度行なっても効果はなく、みるみる衰弱。そんなある晩、「鬼丸国綱」を名乗る老人が夢の中に現れて、北条時政に対してこう語り掛けました。「汚れた者の手に握られてしまったせいで、錆びて鞘から抜けなくなってしまったから、錆を拭って欲しい。頼みを聞いてくれたら、小鬼を退治しよう」。
目覚めた北条時政は、夢の中に出てきた老人の言う通りに、所持していた「国綱」という刀工が打った太刀の錆を落とします。そして、手入れ後の太刀を鞘から出した状態(抜き身)で寝室の柱に立てかけておいたところ、その太刀が倒れたのです。その拍子に、近くにあった火鉢の足を切り落としました。
北条時政が切り落とされた飾りを手に取り見てみると、なんと夢に出てくる小鬼の顔とそっくりだったのです。夢に現れた小鬼の正体は、火鉢に宿っていた妖怪でした。
それ以来、北条時政は小鬼の悪夢から解放されて快復していきます。小鬼を退治した太刀は、北条時政によって鬼丸という号を与えられ、北条家の宝刀となりました。
鬼丸国綱には、数多の者を斬ったという逸話があります。鬼丸を実戦で使用したとされるのは、室町幕府の第13代将軍「足利義輝」(あしかがよしてる)。
足利義輝は、「塚原ト伝」(つかはらぼくでん)と「上泉信綱」(かみいずみのぶつな)という2人の剣聖に奥義を授けられたと言われているほどの剣術の腕前を誇ったことから、「剣豪将軍」と呼ばれています。
1565年(永禄8年)、足利義輝は家臣の裏切りによって、住んでいた京都二条御所を襲撃されました。いわゆる「永禄の変」(えいろくのへん)です。10,000の敵軍に囲まれた絶体絶命の状況下で、足利義輝は剣豪将軍の名に恥じない奮闘を見せます。
天下五剣のうちの4振を所持していたと言われている足利義輝は、「三日月宗近」を腰に佩き、鬼丸国綱、「童子切安綱」、「大典太光世」で襲い掛かってくる敵と対峙したとも伝えられているのです。
剣豪将軍・足利義輝の強さは凄まじく、ひとりで30人以上の敵を討ち取ったとも。しかし多勢に無勢、最期は四方から槍で突かれて壮絶に散ったと言われています。
鬼丸国綱は、これまで多くの所有者達のもとを渡ってきました。北条家、豊臣家、徳川家、後水尾天皇などです。所有者達と鬼丸国綱がどうかかわったのかを紹介していきます。
「豊臣秀吉」は、無類の刀剣好きとして有名です。
1588年8月29日(天正16年7月8日)に布告した「刀狩令」は、農民から武器を取り上げるというのは名目に過ぎず、実は名刀を収集するために行なわれたという説もあるほどでした。
そんな豊臣秀吉は、天下五剣に関しては「数珠丸恒次」以外の4振を所持。その内、三日月宗近は正室「ねね」に、大典太光世は盟友「前田利家」(まえだとしいえ)に贈りましたが、鬼丸国綱と童子切安綱は、刀の鑑定家である「本阿弥家」(ほんあみけ)に預けたのです。
豊臣秀吉が鬼丸国綱と童子切安綱の2振を明らかに「冷遇」した理由として挙げられているのが、「鬼を斬った逸話」に不吉なものを感じていたとされること。権力の頂点に君臨していた天下人・豊臣秀吉と言えども、鬼丸国綱と童子切安綱からは、得体の知れない「何か」を感じ取っていたのかもしれません。
鬼丸国綱は、刃長78.2cm、反り3.1cm。刀身全体が均等に反っていて、なおかつ反りの中心が刃長の中ほどに位置している「輪反り」(わぞり)と呼ばれる反りが特徴的です。
鬼丸国綱の反りは、日本刀の中でも稀に見るほどの強さ。その強い反りと、鋒/切先(きっさき)に向かうにつれ細くなっていく刃幅が織り成す姿は、太刀の理想的な形と言われています。
鬼丸国綱の地鉄(じがね)には、本来は刃に現れる沸が見られます。そして、地鉄の「映り」(うつり:刀身を光に透かしたときに見える模様)は、白い霞のような模様と黒い帯がコントラストをなす「地斑映り」(じふうつり)です。
鬼丸国綱の拵(こしらえ)は、鞘と柄を皺模様の入った革で包み、鍔を黒漆の革袋で覆った「革太刀様式」。
刀身を革で覆うことにより、高い防水性を実現しています。つまり、雨に降られたり、水場に落ちたりしても、拵を装着していれば、刀身を錆から守ることができるのです。この機能性が評価され、こうした拵の様式は「鬼丸拵」と呼ばれるようになりました。
鬼丸国綱の刀身が制作されたのは鎌倉時代ですが、拵が作られたのは室町時代頃。戦国時代になると、拵は文武両道の武将「細川幽斎」(ほそかわゆうさい:細川藤高)によって修復され、現在まで形を保っています。