「古刀」、「新刀」、「新々刀」、「現代刀」と続く日本刀の歴史の中で、異色の存在であると言えるのが「軍刀」です。その主な作刀目的は、正装時や指揮時での装備のほか、戦闘において敵を殺傷すること。美術品としての評価が当該日本刀の価値に直結していた中で、本来的な「武器」としての性能も評価の対象でした。
軍刀は、「廃刀令」が発せられた1876年(明治9年)以降に作刀されたことから、現代刀に分類されますが、「銃砲刀剣類登録法」(銃刀法)第14条の「美術品」に該当しないケースも多いため、その多くは所持可能な物であるとは言えません。
「軍刀」とは、軍隊で使用する刀剣類の総称です。戦闘行為で使用されるのはもちろん、正装時の服飾や、指揮時における装備などでも用いられました。1876年(明治9年)に発せられた「廃刀令」によって、士族(武士)の帯刀特権が剥奪され、日本刀の需要は、ほぼ消滅。大正時代には、軍刀を含む刀剣の原料「玉鋼」(たまはがね)を精製する「たたら製鉄」も廃絶してしまいました。
しかし、戦時中の軍刀需要の増大によって「日本刀鍛錬会」が創設され、同会への材料供給を目的として島根県内に「靖国たたら」が創設され、復興しました。
現在はこのような背景から、軍刀が消えかけていた刀剣文化の灯火を守ったという側面を有しているとも言えるのです。
明治新政府によって導入された徴兵制によって、軍事面の担い手が武士から徴兵された軍人へと移りました。軍において採用されたのは、かつてのような個人技に頼った戦い方ではなく、集団が連動する組織としての戦い方。兵式として採用されたのは、フランス陸軍式でした。
戦闘において使用する刀剣も、日本古来の日本刀ではなく、西洋式のサーベル。
それまでは両手で日本刀を扱うことが一般的だっただけに、サーベル特有の片手での操刀(そうとう)に苦戦する兵が続出したと言われています。
もっとも、「西南戦争」において「剣術」を基礎とした「警視庁抜刀隊」の活躍により、官軍が薩軍(さつぐん)を撃破したことで、刀剣の価値が再認識されました。これにより、「サーベル拵」の中に刀剣を仕込む「新しい軍刀」が登場したのです。
軍刀の材料は、大きく分けて2つあります。ひとつは日本刀の原料と同じ玉鋼で、もうひとつがステンレスや洋鋼など玉鋼以外の素材。戦争が激化するにつれて、大量生産の必要性や、物資不足に陥ったことで、様々な材料を用いた軍刀が作刀されるようになったのです。
後者の例としては、「南満州鉄道株式会社」(みなみまんしゅうてつどうかぶしきがいしゃ)が開発した鋼を材料として作刀した、いわゆる「満鉄刀」(まんてつとう)や、鎌や包丁などを材料とした軍刀などが挙げられます。
日本刀の定義としては、日本古来の製鉄法(たたら製鉄法)に則って生み出された玉鋼を原料として、重ね鍛えの手法を用いて作刀された刀剣類というのが一般的です。そのため、玉鋼以外の材料を用いて作刀された軍刀については、日本刀として認定されないこともあります。
軍刀は、戦場において使用する武器として作刀された刀剣です。求められたのは「切れ味」と「耐久性」。戦場は野外であることがほとんどだったため、風雨にさらされても刀身が錆びないことも、武器としての軍刀にとっては重要な要素だったのです。
そのため、軍刀の主流は、刀身にステンレスなどの錆びにくい素材を用いて、機械によって大量生産された刀剣でした。
前述のように、当初はサーベルの刀身をサーベル様式のサーベル拵に収納していました。もっとも、西南戦争において、刀剣を手にした警視庁抜刀隊の活躍や、長年に亘って日本人に根付いてきた日本刀への愛着などから、拵はサーベル様式のままで、日本刀の刀身を仕込むようになりました。
こうした軍刀の「日本刀回帰」へのうねりは、「日露戦争」などにおいて白兵戦における日本刀の有用性が認識されたことで、さらに大きくなります。昭和に入ると、まず将校クラスの拵に変化が現れました。それまでのサーベル拵に代わって太刀型の拵が登場。あとを追うように、下士官などの軍刀についても、太刀型の拵に日本刀の刀身を収めるようになったのです。
この背景には、戦争の激化と共に国粋主義の機運が急激に高まっていたことがあると言われています。平安時代に登場して以来、脈々と受け継がれてきた日本刀は、日本兵の心の拠り所とでも言うべき存在。白兵戦で、軍刀=刀剣を手に、鬼気迫る表情で戦うその姿に、敵兵は恐怖を覚えたと言われています。こうしたできごとは、終戦後、GHQ(連合国軍総司令部)によって行なわれた「昭和の刀狩り」につながっていきました。
戦場において、武器として使用されていた軍刀のほとんどは、機械によって大量生産された「昭和刀」(しょうわとう)でした。
もっとも、軍刀の中には、日本刀を転用した物や、古来の日本刀作刀の手法を継承して作刀された美術的価値の高い物が存在していることも、また事実。その代表例は、「靖国刀」(やすくにとう)や「菊水刀」(きくすいとう)です。
ここでは、軍刀における2大ジャンル、昭和刀と靖国刀・菊水刀についてご説明します。
昭和刀は、陸軍造兵廠(りくぐんぞうへいしょう)が直接または監督製造した将校用刀身の総称で、「折り返し鍛錬」を行なわず、機械によって作刀した軍刀です。
日本刀の構造は、やわらかい「心鉄」(しんがね)を硬い鉄で包み込むようにして、何度も折り返しながら打ち鍛えることで、「折れず、曲がらず、よく切れる」という特性を発揮するように設計されています。
しかし、昭和刀は、日本刀のような構造にはなっていません。
1枚の鋼板(またはステンレス板など)をローラーや機械ハンマーで打ち延ばす簡易な方法で生産されたため、大量生産が可能でした。しかし、切れ味や耐久性についても日本刀と比べて大きく劣るということはなかったと言われています。そのため、戦争が深まるにつれて、軍刀需要が高まっていくと、昭和刀が軍刀の主流となっていったのです。
昭和刀には、日本刀の美術品としての価値を大きく左右する要素となる刃文などはなく、まさに斬る用途に特化された武器でした。現在、所持することが認められている日本刀は、銃刀法第14条の「美術品」に該当する必要がありますが、昭和刀はこれに該当しないため、都道府県教育委員会に登録することはできません。
実際の運用においては、刀身に陸軍造兵廠で作刀されたことを示す「軍事工廠」(ぐんじこうしょう)の刻印がある場合、上記登録について規定する「銃砲刀剣類登録規則」第4条第2項に該当しないと判断される場合がほとんどです。そのため、一部の例外を除いて軍刀の大部分を占めていた昭和刀については、美術品ではなく武器として扱われているのが現状であると言えます。
靖国刀は、1933年(昭和8年)に発足した日本刀鍛錬会の刀匠によって作刀された軍刀です。呼称の由来は、同会の鍛刀場が「靖国神社」の境内にあったこと。日本刀鍛錬会が作刀する軍刀は、古来の日本刀作刀法に則った方法で作刀されました。そのためには、日本刀の材料である玉鋼の精製は必須。そこで、島根県内に、かつてのたたら製鉄法を再現した施設である靖国たたらを創設したのです。
1945年(昭和20年)の終戦によって、日本刀鍛錬会が解散となると共に、靖国刀の作刀も終了。靖国神社で軍刀作刀を担っていた「靖国刀匠」達は、約12年間で約8,100振の靖国刀を作刀しました。
終戦と共に靖国たたらが閉鎖されたことで、たたら製鉄法は、再び廃絶してしまいましたが、1976年(昭和51年)に「公益財団法人 日本美術刀剣保存協会」によって、同地で「日刀保たたら」として再興されます。これにより、玉鋼の継続的な供給が可能となり、現代の刀工達が日本刀作刀に勤しめるのです。
靖国刀は、主に陸軍向けに作刀されていたと言われています。
菊水刀は、兵庫県にある「湊川神社」(みなとがわじんじゃ)で作刀されていた軍刀です。
呼称の由来は、湊川神社の祭神「楠木正成」(くすのきまさしげ)の家紋「菊水」を「茎」(なかご)と「鎺」(はばき)に切っていたこと。
菊の花が川を流れているかのような意匠の菊水紋は、湊川神社の象徴でもあったのです。
菊水刀は、靖国神社の日本刀鍛錬会で修行を積んだ「日立金属株式会社安来工場」の村上道政氏(銘:正忠)、 森脇要氏(銘:森光)が、湊川神社の御用刀工として作刀を行なったことに始まります。
湊川神社で鍛刀していた刀工は、主に海軍の軍刀を作刀していました。海軍は「太平洋戦争」において、米国の前に大敗を喫し、軍艦と共に軍刀も海に消えていってしまったケースも多数。そのため、残存数が少なく、それ自体が貴重な存在であると言われています。