優れた日本刀は、数百年あるいは1,000年の時を越え、現代にまで伝えられています。それは、日本刀が類まれな武器であるのと同時に、美術品としての価値も高かったためです。
しかし、そればかりではありません。多くの名刀が代々伝承された背景には、神様の依り代として尊重されてきたという一面もあるのです。名刀には神様が宿り、持ち主は加護を得ることができると信じられてきました。
名高い名刀は、どのような力を示して持ち主を守ったのでしょうか。
ここでは、神様の加護が伝説として残る名刀に焦点をあててご紹介します。
「小狐丸」(こぎつねまる)は、平安時代の刀工「三条宗近」(さんじょうむねちか)が手掛けた太刀です。
あるとき三条宗近は、「剣を打たせよ」という夢のお告げを聞いた「一条天皇」(いちじょうてんのう)より、守り刀を打つよう命ぜられます。
勅命(天皇からの命令)を受けた三条宗近でしたが、なかなか満足できる日本刀が打てません。そこで、京都の「合槌稲荷神社」(あいづちいなりじんじゃ)に大成を祈願。すると、稲荷明神の遣わした小狐が童子に化けて現れ、合槌(師匠の槌の合間に弟子が槌を打つこと)を務めて手助けし、太刀を仕上げることができました。太刀は、小狐が手伝って完成したことから、小狐丸と名付けられたのです。
この伝説は、能の一種である謡曲(ようきょく)「小鍛冶」(こかじ)の題材となりました。
なお、小狐丸と呼ばれる日本刀は他にもあります。藤原北家の流れを汲む九条家に伝えられた宝刀は、落雷を薙ぎ払う力があったとされますが、のちに失われてしまったため、三条宗近の小狐丸と同一であったかどうかは分かっていません。
三条宗近が打った小狐丸は、現在大阪府東大阪市にある「石切劔箭神社」(いしきりつるぎやじんじゃ)に所蔵されており、4月の春大祭と10月の秋大祭で一般公開されます。
「ソハヤノツルキ」の制作者は、筑後国(現在の福岡県北部)の刀工「三池典太光世」(みいけてんたみつよ)です。
銘に「妙純傳持(みょうじゅんでんじ)ソハヤノツルキ ウツスナリ」とあることから、平安時代の征夷大将軍「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)が佩用した「楚葉矢の剣」(そはやのつるぎ)を写した太刀と考えられています。
江戸幕府を開いた徳川初代将軍「徳川家康」は、死の間際に「この日本刀を久能山に納めよ。鋒/切先[きっさき]は、いまだ不穏な動きがある西国に向けておくように」と言い残しました。
徳川家康の遺言通り、その後、ソハヤノツルキは静岡県にある「久能山東照宮」に安置。ソハヤノツルキが神通力を発揮したためか、徳川家の治世は265年の長きに亘って続いたのです。
「蛍丸」(ほたるまる)は、鎌倉時代に山城国(現在の京都府)を拠点とした刀工「来国俊」(らいくにとし)が制作した大太刀で、肥後国(現在の熊本県)の有力豪族にして「阿蘇神社」の大宮司を務めた阿蘇家に伝来しました。
南北朝時代、この大太刀を所持していた「阿蘇惟澄」(あそこれずみ)が、南朝方に付いて九州の北朝方と戦っていたときのこと。
戦いに疲れて眠っていた阿蘇惟澄は、激戦でぼろぼろに刃こぼれした愛刀の刀身に、無数の蛍が光を放ちながら群がっている夢を見ました。目を覚まして愛刀の大太刀を見ると、刃こぼれしたはずの刀身がすっかり直っているではありませんか。
この逸話から、大太刀は蛍丸と呼ばれるようになり、阿蘇家の重宝として伝わりました。
1931年(昭和6年)には旧国宝指定を受けましたが、第2次世界大戦後の混乱により、行方不明となっています。
鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて相模国(現在の神奈川県)で活躍した刀工「貞宗」(さだむね)の手による短刀「物吉貞宗」(ものよしさだむね)。
徳川家康が、この短刀を帯びて出陣すると勝利を得たとされることから、縁起が良いという意味の「物吉」と名付けられ、「享保名物帳」にも所載されました。徳川家康の死後は、尾張徳川家(現在の愛知県西部)に伝えられ、代々の藩主が常日頃から懐中に帯びていたと言われています。
1953年(昭和28年)に、重要文化財に指定されました。現在は、尾張徳川家に伝わる美術品を保存・公開している「徳川美術館」(愛知県名古屋市)に所蔵され、「脇差」と表記されています。
制作者の貞宗は、「相州伝」の祖として知られる「正宗」の実子もしくは弟子とされる名刀工です。
現存する貞宗の作品には銘がなく、物吉貞宗も無銘ですが、刀剣鑑定家の本阿弥家(ほんあみけ)によって、貞宗の作品であると極められました。
「薬研藤四郎」(やげんとうしろう)は、鎌倉時代に山城国で活躍した短刀作りの名手「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)の名作短刀です。号の「藤四郎」は、粟田口吉光の通称が由来となっています。
1493年(明応2年)、「明応の政変」において、政敵である「細川政元」(ほそかわまさもと)に本陣の「正覚寺」を囲まれた室町幕府管領「畠山政長」(はたけやままさなが)は、愛用の短刀で自害しようとしましたが上手くいきません。何度試みても腹に刺さらないことに怒り、短刀を投げ付けると、「薬研」(やげん)と呼ばれる薬を調合するための鉄製の器具に突き刺さりました。
この逸話から、「鉄製の薬研を貫くほどに鋭いにもかかわらず、主人の腹は切らない」短刀として知られ、薬研藤四郎と名付けられたのです。なお、畠山政長は、別の短刀を用いて自害しました。
その後、薬研藤四郎は足利将軍家に伝わり、1565年(永禄8年)の「永禄の変」で混乱した最中、「松永久秀」(まつながひさひで)に奪われます。
松永久秀は、「織田信長」の歓心を買うためにこれを献上。以降の経緯には諸説あり、1582年(天正10年)の「本能寺の変」で織田信長が自害したとき一緒に焼け落ちたとも、豊臣家に伝わり「大坂夏の陣」で失われるも、のちに河内国(現在の大阪府東部)の農家から見付かり、徳川2代将軍「徳川秀忠」に献上されたとも言われていますが、現在は所在不明です。
「刀剣ワールド財団」が所蔵する名刀には、不思議な伝説こそ残っていないものの、誰もが知る戦国武将が手にした名品が数多くあります。それらの名刀は、歴史の表舞台に登場し、武将達の運命を見守ってきたのです。
この章では、刀剣ワールド財団が大切にしている名刀の中から、とりわけ著名な武将の家に伝来した3振をご紹介。武将達の生き様が窺える名品揃いとなっています。
「有楽来国光」(うらくらいくにみつ)は、織田信長の末弟「織田有楽斎(織田長益)」(おだうらくさい/おだながます)が、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)から拝領した短刀です。
織田信長の長男であり、甥にあたる「織田信忠」(おだのぶただ)が元服すると、織田有楽斎は参謀として直属の軍に加わり、織田信忠軍の快進撃を支えました。
ところが、1582年(天正10年)に本能寺の変が勃発。織田信忠と共に「二条城」(京都府京都市)で戦いますが、織田信忠は自害。織田有楽斎はからくも生き延び、その後「豊臣秀吉」に仕えます。
このとき、織田有楽斎は織田信長の弟として楽な人生を歩めなかったことから、「無楽斎」(むらくさい)と名乗ろうとしました。しかし、豊臣秀吉から「あなたの人生は無楽ではない、有楽にせよ」と命じられて「有楽斎」にしたと伝えられています。
豊臣秀吉の死後は徳川家康に仕え、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では、東軍方として参戦。合戦後は大甥である豊臣秀頼に仕え、徳川氏との和睦の交渉を担うなどしましたが、大坂夏の陣が起こる前に隠居の身となりました。
織田有楽斎は、幼少の頃より「茶道」を身に付け、武将としてだけでなく茶人としても知られた人物です。「千利休」(せんのりきゅう)に師事した織田有楽斎は、豊臣秀吉の前で最終的な奥義である「台子の相伝」を受け、千利休の高弟「利休十哲」(りきゅうじってつ)のひとりに数えられました。
そんな織田有楽斎の愛刀・有楽来国光の制作者は、鎌倉時代末期に山城国で活躍した刀工「来国光」。身幅が広く堂々として、なおかつ小板目肌の地鉄(じがね)は流麗精細。豪壮にして覇気のある来国光の特徴が良く表れており、1930年(昭和5年)に国宝指定されています。織田有楽斎のあとは、加賀百万石の前田家へ伝来しました。
金象嵌銘(きんぞうがんめい)で「包永」(かねなが)とある本太刀は、徳川家康の重臣で「徳川四天王」のひとり、「本多忠勝」(ほんだただかつ)の孫「本多忠刻」(ほんだただとき)の愛刀です。本多忠刻は美男子として有名で、徳川家康の孫娘「千姫」(せんひめ)と結婚しています。
千姫は、豊臣秀頼のもとへ輿入れしていましたが、大坂夏の陣の際、「大坂城」(現在の大阪城)を脱出。祖父である徳川家康に、夫の豊臣秀頼と義母「淀殿」の助命を懇願しましたが、聞き入れられませんでした。
戦によって夫を失った千姫のために、徳川家康が本多忠刻を再婚相手に選んだ理由は諸説あり、そのひとつが、千姫が本多忠刻にひと目惚れしたという説。大坂城から江戸の徳川家へ戻る途中、東海道の桑名宿(現在の三重県桑名市)から宮宿(現在の愛知県名古屋市熱田区)へ向かう海路「七里の渡し」の船中で、眉目秀麗な本多忠刻と乗り合わせ、恋に落ちてしまったのです。徳川家康は、愛する孫娘の幸せを叶えてやりたかったのだと言われています。
本多忠刻と結婚することになった千姫は、本多家居城の「桑名城」へ輿入れ。本多家が姫路藩へ転封になると、千姫も一緒に「姫路城」(兵庫県姫路市)へ移りました。
本多忠刻が結核により31歳で没したのち、千姫は実弟の「徳川家光」によって江戸城へ呼び戻されます。そのとき、太刀 包永も本多忠刻の形見として徳川将軍家へ持ち帰ったのです。以降、太刀 包永は将軍家の蔵刀となり、さらに信州上田藩松平家へ贈られ、家宝として伝えられました。
太刀 包永の作刀を手掛けた刀工は、鎌倉時代末期に大和国(現在の奈良県)を拠点とした初代「包永」。「東大寺」西北側にある転害門(てんがいもん)の門前に住んでいた「手掻派」(てがいは)の始祖であり、大和国を代表する名刀工として知られています。
薙刀「丹波守吉道」(たんばのかみよしみち)は、関ヶ原の戦いに際し、西軍の「石田三成」(いしだみつなり)が「佐竹義宣」(さたけよしのぶ)に対して、味方となってくれるよう願って贈った1振です。
佐竹義宣の従兄弟であり、家臣でもあった「宇都宮国綱」(うつのみやくにつな)が突然改易(かいえき:身分を剥奪し、領地、家禄、屋敷を没収すること)を命じられたとき、連帯責任を問われて佐竹義宣も改易の危機に直面しました。これを取り成しによって救ったのが石田三成で、佐竹義宣は恩義を感じることとなります。
そして1600年(慶長5年)、徳川家康の「会津征伐」を皮切りに関ヶ原の戦いが勃発。佐竹義宣は、徳川家康から西軍側に付いた会津(現在の福島県西部)の「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を討つよう命じられますが、西軍代表である石田三成への恩義もあり、動くことができません。佐竹氏内部でも、徳川家康方に付くか、石田三成方へ付くかで意見が分かれます。
このような状況を察していたのかどうか定かではありませんが、石田三成は、佐竹義宣に薙刀の名品「丹波守吉道」を贈りました。
しかし、佐竹義宣はどっち付かずの態度のまま、関ヶ原の戦いは東軍の勝利で終結。薙刀 丹波守吉道は、刀身も朱色の柄も傷付かずに残されることとなったのです。
薙刀 丹波守吉道の制作者は、美濃国関(現在の岐阜県関市)の刀工「兼道」(かねみち)の3男で、独自に簾(すだれ)のような刃文「簾刃」(すだれば)を開発した「丹波守吉道」。
本薙刀は丹波守吉道の初期の作品で、刃文にはまだ簾刃が見られません。「兼房乱れ」と呼ばれる、美濃関鍛冶の特徴を備えた作風となっています。
「薙刀 無銘 片山一文字」(号 大外刈)は、戦国大名「山口修弘」(やまぐちながひろ)が所持した薙刀です。山口修弘は豊臣秀吉に仕え、「薙刀の名手」と言われた人物。父「山口正弘[宗永]」と共に、武断派として「朝鮮出兵」(文禄の役、慶長の役)で活躍しました。
この武功として、1598年(慶長3年)、父が「大聖寺城」(現在の石川県加賀市)に60,000石を受領。山口修弘も「江沼郡」(現在の石川県加賀市)に13,000石を受領しています。豊臣秀吉亡きあとは、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの際に、山口修弘は西軍として参戦を表明。そこで、前哨戦「大聖寺城の戦い」が起こるのです。
本薙刀は、山口修弘が豊臣秀吉から賜った1振。号は、「大外刈」(おおそとがり)です。大外刈とは、躊躇せず、思い切りよく刈る薙刀術の必殺大技のこと。山口修弘は「大聖寺城の戦い」の際、この薙刀で必殺大技を繰り広げ、何百もの兵を薙ぎ倒し大活躍したと伝えられています。
しかし、この戦の敵は加賀百万石「前田利家」の嫡男「前田利長」。前田利長軍20,000の兵に対して、山口修弘軍はわずか500兵。結局、山口修弘軍は敗れ、山口修弘は自刃しました。本薙刀は、前田利長が戦利品として持ち帰り、前田家に伝来。現在は刀剣ワールド財団が所持しています。
「片山一文字」は、備前国(現在の岡山県)の片山という土地で刀剣制作を行なった刀工一派。一文字派は、茎に天下一であることを表す「一」の文字を刻むのが特徴ですが、片山一文字の薙刀や薙刀直しは無銘が多いと言われています。
「太刀 銘 守家」を制作したのは、「備前国畠田守家(初代)」です。
守家は、備前国(現在の岡山県)の備前長船に隣接する畠田の土地で刀剣制作を行ない、「畠田一派」を創始した人物。「備前長船派」を創始した「光忠」と、ほぼ同じ時期に活躍して親交も深く、「備前国住長船守家」と銘を切った刀剣も存在します。
備前国畠田守家は「家を守る」という、たいへん縁起の良い名前のため、武士の間でかなり人気がありました。特に、徳川将軍家の御世継ぎ誕生の際には、徳川御三家や大名家からお祝いの品として珍重されたと言われています。備前国畠田守家の作刀は、太刀姿、地鉄が美しいのが特徴です。
実は、備前国畠田守家は「福岡一文字派」の守近と同一人物ではないか、または守近の子ではないかなど、諸説囁かれていますが真相は不明です。
本太刀は、徳川将軍家に伝来した1振。地鉄は、板目肌に斑紋調の肌合いが交じり、細かい地景や乱れ映りが立ち、秀逸。刃文は丁子、互の目、小丁子が見られ、匂口はやわらかく、小沸。砂流しがかかり、金筋が入り、さらには足、葉がよく交じるなど、備前国畠田守家ならではの豊富な働きが見事です。
また、茎の形が雉子(きじ)の股のような「雉子股茎」(きじももなかご)と呼ばれる形状になっているのも見どころと言えます。