室町時代、武士は書院造の屋敷に住むようになりました。書院造とは、床の間、違棚(ちがいだな)などの座敷飾りを備えた住宅様式のこと。書院造の建物として有名なのは、徳川家康が築いた京都の「二条城二の丸御殿」です。大名は豪勢な書院造の建物を築いて権勢を示しました。そんな武士と大名が愛した書院造についてご紹介します。
平安時代後期の武士勢力の台頭によって、公家の権威は失墜していきます。
武家勢力が拡大し、長期に亘り武家の文化が発展していきました。
住宅の形式も武家様式に変化していきます。寝殿造は公家の寝殿と儀式を中心とした生活様式に即していましたが、有力な武家も平安後期・鎌倉時代になると、寝殿造の屋敷を活用していました。
しかし、交渉や対面を主とする武士の生活に、接客場所は欠かせません。そこを中心に構成された住宅形式が書院造です。このようにして、室町時代から武士の屋敷が書院造の形になりました。
書院とは、床の間、違棚(ちがいだな)、付書院(つけしょいん)、帳台構(ちょうだいがまえ)の座敷飾りを備えた部屋のことを言います。本来は書斎の機能を有し、床の間は仏具を置く神聖な場所、違棚は文具等を置くための棚、付書院が読み書きをする文机(ふづくえ)、帳台構は寝室とつながる扉のことでした。
書院は室町時代から、武士の接客場所として重宝されます。書院の重要性が増し、書院を中心にした屋敷へと変化していきました。
武士の接客の場所として書院が活用されるようになると、座敷飾りが実用的な書斎様式から、その家の主人の権威を表す飾りへと変わっていきます。高価な仏具であったり、違棚の意匠を凝らしたりなど、本来の書斎ではなく、権威を表す飾り物が主体となっていきました。
戦国から江戸時代にかけて、書院造は自らの権威を示す大名達により、競うように贅を凝らすようになっていきました。誰もが分かるような格式を表す様式を取り入れたことで、儀式の場へと変わっていきます。
特に、江戸時代に厳然とした格差を表しました。主人の座る上段の間の隣に、2部屋も3部屋もつなげて造ることで、主人の権威を誇示しながら儀式も執り行なう様式へと変化。格差を表すために、上段の間と下段の間に段差を付け、框(かまち)で仕切られるのが特徴です。その段差は、格下の段に行くにしたがい、1段ずつ下がっていきます。主人は、奥の床の間を背にして座り、また主人よりも格上の来客であれば、そこに来客が座るのです。床の間がある部屋を、上段の間として使い、次の中段の間では、主人より格下の客が座ります。それよりも格下の者は下段の間からの接見となるのです。
上下段より下の間は、三の間や四の間など数字によって表すこともある上段の間でも、将軍は上段の置き畳によって最上位の段に座っています。段差を付けることが、格差を表すものと定着していったのです。
床の段差による格差だけではなく、天井もまた、格差を表す様式が取り入れられていました。上段の間と下段の間に段差を作り、垂れ壁や欄間で一線を画しています。武家社会に確立した封建制度は、書院のなかにおいても厳然と区別されました。
江戸時代の書院造として今でも観ることができる最大の遺構は、二条城二の丸御殿です。
二条城は徳川家康が1603年(慶長8年)に築城した江戸時代初期の貴重な建造物。国宝であると共に現在では世界遺産にもなっています。
天守閣は1750年(寛延3年)に落雷により焼失しましたが、将軍の居住エリアであった二の丸御殿は、ほぼ完全な形で残っている建造物です。
二条城の築城が終わったその年に、徳川家康は征夷大将軍の宣下を受けます。二条城は伏見城があったにもかかわらず、将軍宣下を受けるために造築。江戸城の完成が1636年(寛永13年)ですから、本拠地の城よりも二条城を優先させたことが分かります。
その二条城から1620年(元和6年)、2代将軍徳川秀忠の娘・和子が後水尾天皇(ごみずのおてんのう)のもとに入内(じゅだい:天皇の后になるために内裏に入ること)します。二条城はこの入内に合わせた御殿でもありました。
また、二条城への後水尾天皇の行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)が1626年(寛永3年)に行なわれ、この行幸の際に二の丸御殿が改修・増築されて現在の形となったのです。実際に後水尾天皇のために、行幸御殿が二の丸御殿と同じ規模で建てられました。天皇の行幸を迎え入れるという名誉ある行事は、徳川家が天下への威信を世に示すためのもの。そのために、二条城はあらゆる建築技法や障壁画(襖絵や杉戸絵、床の間や長押の上などの張付壁に描かれた絵などの総称)が、権力を掌握した徳川家の威光を感じさせる造りになっています。
二の丸御殿は、遠侍(とおざむらい:城へ参上した大名の控えの間)・式台(しきだい:参上した大名が老中職と挨拶をするところ)・大広間(おおひろま)・蘇鉄の間(そてつのま)・黒書院(くろしょいん)・白書院(しろしょいん)の6つの建物から成り立っており、各部屋を絢爛豪華な金碧障壁画(きんぺきしょうへきが)で彩っており、954面が重要文化財に指定されています。
諸大名が将軍と謁見するための大広間は四の間まであり、一の間・二の間だけでも92畳。一の間は、座敷飾りを背景に将軍が対面するための最上段の間です。一の間には、最上の格を表す要素が揃っています。
格差を表す要素のひとつは、高さに差を付けることです。一の間と二の間には床に段差が設けられており、一の間が高く設置されています。これは天井も同じで、一の間の天井は二の間よりも高くなっています。特に将軍が座る真上の天井は、さらに高く天井を押し上げており、二重折上格天井(にじゅうおりあげごうてんじょう)と言われる最も格式の高い天井で覆われています。二の間が折上格天井、三の間・四の間は格天井と言うような格差が付けられているのです。
格差を表す要素の2つ目は座敷飾り。一の間の一番奥は、正面が床の間と違棚、右側面が帳台構、左側面に付書院が据え付けられています。この4つを総称して座敷飾りと言い、武家屋敷の書院には欠かせない要素です。
二条城二の丸御殿では、座敷飾りの障壁画が金碧になっており、輝くような明るさを利用して将軍の威光を見せ付けています。絵の題材も迫力のある大きな図柄で、なおかつ格式が最も高いとされる松が描かれています。迫力ある金碧障壁画に彩られた座敷飾りを背景にすることで、将軍が与える格差、威圧感を演出しているのです。
江戸時代の秩序として守られていた士農工商という身分制度。この制度によって、庶民の間で書院造は禁止されます。座敷飾りさえも禁止されていたのです。
特例として、藩主や代官を迎え入れる庄屋階級の人々には許可されていました。武家など家の主人よりも身分の高い客を迎え入れるため、部屋を造る必要があったのです。資産のある商人は、こっそりと座敷飾りを造り付けた例もありますが、公にできる物ではありませんでした。
明治維新を経て、大正時代には4畳半でも座敷飾りは備えるべきと言った風潮が興ります。現在では、和室を備える家も減り、座敷飾りが特に必要な装飾ではなくなってしまいました。しかし、床の間の前は上席、という認識は日本人の間に根強く残っており、武士の世が終わってもなお、書院造への憧れは日本人の根底にあり続けています。