和の文化を象徴する畳。日本人にはお馴染みの畳ですが、実は並び方によって部屋の意味が変わるのはご存知でしたか?例えば、「卍敷き」と呼ばれる並び方があります。この敷き方は「武士が切腹する部屋」という意味になるのです。並び方で変わる部屋の縁起や畳部屋のはじまりについてご紹介していきます。
平安時代の寝殿造の絵巻物等を見ると、板敷きが基本であり、座る場所や寝る場所にだけ畳を使用していたことが分かります。現在のように敷き詰めるものではなく寝具として使用されていました。贅沢品であったため庶民の風俗ではなく、貴族や権力者の貴重な家具の一部だったのです。
仕切りのない広い空間の必要なところにだけ、畳を敷いていた寝殿造とは異なり、室町時代から登場した書院造では、畳を敷き詰めた座敷が主体となります。書院が対面や接客の部屋としてしか使われないため、畳を移動する必要がなくなったのです。
室町幕府第8代将軍足利義政(あしかがよしまさ)が建てた慈照寺(じしょうじ:通称 銀閣寺)東求堂(とうぐどう)の一角に、同仁斎(どうじんさい)と名付けられた書斎が設けられています。
この書斎が書院造の始まりと言われています。座敷飾りである左奥に違棚(ちがいだな)があり、その右横に実務的な付書院(つけしょいん)を作りつけ、明障子(あかりしょうじ)による採光も取り入れているのが特徴です。
今でこそあまり特徴がない和室のように見えますが、義政が建てた当初はとても革命的な家の造りでした。書斎のための独立した部屋という発想も、畳を敷き詰めた部屋も、贅沢で画期的な座敷だったのです。
現在では当たり前に見ることのできる、「右勝手」と言われる4畳半の敷き方もこの同仁斎が始まりとされています。
右奥の付書院の前に横向きの畳を置き、追い回すように畳を敷いていき、違棚の前に畳の短辺がピタリとはまります。
そして、中央に半畳の畳をはめ込み完成。このような右勝手追い回しの敷き方は、「右巴敷き」という茶室の定番となります。
畳を敷き詰めるということは、技術的な進歩が隠されています。それまでの畳は、すき間を使いつつただ置くだけでした。しかし、畳を敷き詰めた部屋にするには、畳の寸法がきっちりと部屋に収まらなければなりません。畳の寸法を規格化し、その規格に合わせた部屋を作る技術が必要とされました。畳の長辺と短辺が2:1になっているのはそのためです。
室町時代からは畳を敷いたまま通年を過ごすようになりましたが、状況に応じて畳の並び方を替えていました。
畳は床から簡単に外せるため、儀式によって使い分ける並び替えが可能でした。現在の日本では、結婚式や、お祝いごとを家で行なうことはほとんどありません。本来、お祝いごとは自宅で行なうのが慣例でした。
自宅でお祝いごとをする際には、「祝儀敷き」という畳の敷き方をします。床の間の前や入り口にあたる畳は、合わせ目にならないように長辺を合わせます。また、畳の角の合わせ目が十字にならないように、T字になるように揃えます。
「不祝儀敷き」は、左勝手に敷くことや、畳の角の合わせ目が十字になるように敷くことです。不祝儀である葬式の際の敷き方と言われています。
畳の並び替えをしなくなった現代では、簡略化して最初から縁起の良い祝儀敷きに統一されているのです。
4畳半の畳の並び方は真ん中に半畳の畳が入り、残りの4畳で周りを取り囲むような形。茶室の畳の並び方は右巴敷きと言われ、畳それぞれに役割があって並び方も決まっています。右奥の床の間の前に並行してひとつの畳を置き、そこから追い回すように敷きます。
武士が切腹するときは、右巴敷きと逆の並び方です。左奥から横に畳を置くので、右側は縦に置きます。卍の形に畳が並ぶので「卍敷き」とも言われました。
凶の並び方と言われ、江戸時代に室内で切腹するときに並び直されていたのです。真ん中で切腹をした場合、畳の交換が真ん中の半畳だけですむため、この並び方になりました。また、後処理のため隣に3畳の検視の間も用意。そのため7畳半という間取りも縁起が悪いとされ、武家から特に忌み嫌われていました。
また、6畳間の畳の敷き方として、横に4畳、縦に2畳の敷き方も「死に行く」と言って、語呂が悪いために武家の間では嫌われた敷き方だったそうです。
「床挿し」(とこざし、とこさし)と言われる畳の並び方も縁起が悪いと言われていました。床挿しの畳の並び方は左奥に畳を横に置いてから、右には縦に置きます。結果的に右側の床の間の前は、畳の縁が床の間に突き刺すように合わせ目が来ます。この敷き方を左勝手と言い、武家屋敷では禁忌とされました。正しくは、床の間の前は畳を平行に置くようにし、合わせ目がこないように畳を並べます。
畳だけではなく、天井の向きも関係があるのです。天井が落下しないように、竿縁(さおぶち)という細長い部材を天井の端から端まで張ります。このとき、竿縁が床の間に向かないようにするのがポイントです。
天井板は床の間と直角に交わるように、竿縁は床の間と平行になるように張ります。床の間に突き刺すように竿縁が直角に張ってあると、畳と同様に床挿しと言って武家から忌み嫌われていました。一番格上の者が座る床の間の前に、竿縁や畳縁が攻撃するかのような突き刺し方をしている床挿しは、大変失礼なもてなしになるからです。
床挿しの他にも、良くないとされている畳の並び方に、卍敷きと言われる敷き方があります。先に記述したように、武士が切腹するときの畳の並び方の卍敷き。これは武家屋敷では忌み嫌われたと言われる左勝手の並び方です。
しかし、4枚の畳の合わせ目が交わることで、縁が交わる部分が卍の形になる並び方も卍敷きと言われています。この敷き方も忌み嫌われた敷き方になっていて、今でも縁起が悪いと言って畳職人は勧めません。
ところが、逆卍敷きで有名な座敷が桂離宮にあります。桂離宮中書院二の間には、わざわざきれいに合わせ目を揃えた逆卍敷きの畳があります。
これは、意匠を凝らしたデザインの要素が強く、桂離宮の遊び心を表したもの。
この四つ角を綺麗に合わせるのは、畳職人泣かせであり、歪まないように卍にするには相当な技術が必要です。そのため、四つ角を合わせる卍敷きは、畳職人が嫌うために禁忌とされてきたのではないかと言われています。