歴史上には様々な戦いがありますが、中でも頻繁に発生していたのは戦国時代です。この時代には全国で多くの武将が、領土拡大を目指して戦いを繰り広げていました。彼らの勢力図は刻々と変化しましたが、最終的に大きな勝利を収め、日本史に決定的な足跡を残したのが「三英傑」として有名な「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の3人です。ここでは、戦国時代に起こった主要な合戦の概要や戦略、それらが後世にもたらした影響などについてご紹介します。
将軍・足利義政は畠山氏の家督争いについて、嫡流「義就」(よしひろ)による家督相続を命じました。ところが途中で庶流「政長」(まさなが)に権利を渡したため、義就と政長は対立。将軍家でも足利義政の嫡子「義尚」(よしひさ)派と足利義政の弟「義視」(よしみ)派が分裂しており、ここに山名宗全と細川勝元が各々加わったことで騒動が拡大したのです。
この戦いでは、畠山義就・足利義尚・山名宗全の「西軍」と、畠山政長・細川勝元・足利義視の「東軍」に分かれ、それぞれに守護が加勢しました。
応仁の乱における対立関係 | ||
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西軍 | (8代将軍・足利義政) | 東軍 |
日野富子 (足利義政の正室) |
将軍の後継者争い | 足利義視 (足利義政の弟 のちに西軍へ) |
足利義尚 (足利義政と 日野富子の子) |
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大将:山名宗全 | 幕府における主導権争い | 大将:細川勝元 |
畠山義就 | 管領家の後継者争い | 畠山政長 |
斯波義廉 | 管領家の後継者争い | 斯波義敏 |
11年もの長きに亘る戦いは、両軍の大将格だった山名宗全と細川勝元が病死したことに加え、将軍家のお家騒動も、足利義政が足利義尚に将軍職を譲って隠居したことで収束します。
もっとも、幕府の権威は完全に失墜。全国で下剋上が頻発することになったのです。荒野同然となった京の姿は、戦国乱世の始まりを象徴していました。
群雄割拠の時代、天下統一という野望に向けていち早く駒を進めたのが織田信長でした。彼の名を世に知らしめたのが、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」。当時、「海道一の弓取り」(東海道最強の武将)と謳われていた今川義元の大軍勢を打ち破った織田信長は、尾張の小大名から一躍、日本屈指の戦国武将となりました。
この戦いでは、今川義元本隊が尾張国桶狭間で休息を取る間に、織田信長が迂回(うかい)して奇襲したという逸話が有名です。ただし「信長公記」には、砦から敵の行軍方向を確認し、豪雨で視界が悪い間に正面攻撃したとの記載があります。
この奇襲は、敵の位置を正確に把握していたため成功したと言われており、これを可能にしたのが「梁田政綱」(やなだまさつな)による諜報活動でした。
梁田政綱は、今川軍約2万5,000のうち今川義元本隊は約5,000であり、別行動をしていること、進軍の様子から、今川軍が桶狭間で昼食休憩を取ることが予想されること、今川義元は馬ではなく輿に乗っていることを報告。これを受けた織田信長が出した指示は、「昼頃に、桶狭間で輿のある所を攻撃せよ!」でした。
こうして織田信長は、約10倍という兵力の差をものともせず、今川義元を討ち取ることができたのです。
朝倉家との約束か、妻の兄とのつながりか。織田信長の越前攻めにより、浅井長政は苦しい選択を迫られます。浅井長政が導き出した答えは朝倉との共闘。これにより、織田信長は浅井・朝倉連合軍に挟み撃ちにされ、絶体絶命の状況に陥りました。豊臣秀吉ら重臣の活躍(金ヶ崎の戦い)によって難を逃れた織田信長は、数ヵ月後に報復に出たのです。
織田信長軍は、「横山城」(よこやまじょう)を包囲し、浅井軍をおびき出します。姉川を隔てた平地での戦いは両軍が真正面からぶつかり合う形となりました。兵力は織田・徳川軍の約25,000に対し、浅井軍・朝倉軍は約14,000。兵力に劣る浅井・朝倉軍は、織田信長を驚かせるほどの奮闘を見せましたが、衆寡(しゅうか)敵せず。勝利は織田信長のものとなりました。
この戦いにより、浅井家の中心的な人物はほぼ戦死。横山城は豊臣秀吉の手に渡りました。浅井・朝倉連合軍は、比叡山の僧侶や石山本願寺の門徒と手を結び、織田信長との戦いを繰り広げたと言われています。そのため織田信長は、比叡山を焼き討ちにし、反対勢力を一掃しました。
その後、浅井氏と朝倉氏は、「本願寺顕如」や武田信玄らと「織田信長包囲網」を形成していくこととなります。
織田信長と共に上洛して将軍となった足利義昭ですが、その後、織田信長との関係が険悪化。そして、反織田信長勢力の招集を始めました。
この呼びかけに応じた武田信玄は、織田信長と同盟を組む徳川家康の領土・三河に侵攻。これにより、武田信玄は織田家と対立することとなります。
織田信長の死を知った豊臣秀吉は、腹心「黒田官兵衛」から明智光秀討伐による天下獲得を提案され、約200kmの道のりをわずか10日で踏破し、明智光秀を討ちました。これが世に言う「中国大返し」です。この大移動は驚異的な早さで行なわれたため、明智光秀は周辺の武将への根回しなどの準備が整わないまま、戦に臨まざるを得なかったと言われています。
こうして開戦した山崎の戦いは、開戦当初こそ一進一退でしたが、豊臣秀吉軍による側面からの攻撃によって、明智光秀軍は総崩れとなり敗走。約3時間の戦いに終止符が打たれました。
豊臣秀吉は明智光秀を追跡すると共に、明智光秀の息子・光慶(みつよし)を自刃させ、明智氏を滅亡させます。その後、近江を平定。
このとき、上杉対策のため越中・魚津にいた織田家の重臣「柴田勝家」(しばたかついえ)は、豊臣秀吉とは対照的に、本能寺の変勃発の知らせを聞いた時点では、明智光秀の正確な所在までは把握していなかったと言われています。情報入手の段階で遅れを取っていた柴田勝家は、京に向かう途中で合戦の知らせを聞くと、「清洲城」へと向かいました。
他方、徳川家康は、6月2日に本能寺の変の一報を聞くと、翌3日の「伊賀越え」を経て4日には本拠地であった「岡崎城」に帰還します。その後、徳川家康も明智光秀攻めのため「熱田神宮」まで進軍しましたが、間に合いませんでした。
豊臣秀吉は、独自の情報網を持っていたことに加え、「決断力」と「行動力」をかね備えていたことで、「逆賊」明智光秀を討ち、世間へのアピールに成功。織田信長の「後継者」の座を手繰り寄せたと言えるのです。
織田家当主・織田信長の死去を受け、1582年(天正10年)、清洲城で清洲会議が開かれました。会議には豊臣秀吉、柴田勝家の他、「丹羽長秀」(にわながひで)、「池田恒興」(いけだつねおき)の4人が出席。
柴田勝家には、重臣4人が話し合うことで、織田信長の後継者をアピールした豊臣秀吉の台頭を抑えると共に、正統な後継者を決めたいという狙いがあったと言われています。もっとも、主導権を握ったのは豊臣秀吉で、主君の仇を討った武功(山崎の戦い)に加え、わずか3歳だった織田信長の嫡孫(ちゃくそん:嫡子の嫡子)「三法師丸」(さんぽうしまる:のちの織田秀信)を手なずけ、織田家の後継者とすることに成功。その後見人となることで、実質的に「織田信長の後継者」となったのです。また、この会議では領地の再配分も行なわれました。
織田家の後継者として織田信長の3男・織田信孝(のぶたか)を推していた柴田勝家は、後継者問題に加えて、豊臣秀吉による誓約違反や不当な領地再配分などもあり、対立を深めていきました。
豊臣秀吉はまず「長浜城」、「岐阜城」攻めを決行。織田信孝らを降伏させたことで、先手を取りました。その後、柴田勝家軍約30,000、豊臣秀吉軍約50,000が木ノ本に布陣し、激戦となります。その戦いの最中、「前田利家」(まえだとしいえ)が戦線を離脱。これにより後方の守りが崩れた上、兵の士気も低下しました。そこに、「佐久間盛政」軍を撃破した豊臣秀吉軍が猛攻を仕掛け、柴田勝家は退却を余儀なくされます。最終的に、柴田勝家は越前「北ノ庄城」内で妻「お市の方」と共に自害し、戦いは終結しました。
柴田勝家に勝利した豊臣秀吉ですが、今度は織田信長の次男・織田信雄(のぶかつ)と対立します。織田信雄には徳川家康が加勢。こうして1584年(天正12年)に勃発した「小牧・長久手の戦い」(こまき・ながくてのたたかい)は、尾張・美濃を中心として、広範囲に飛び火しました。
賤ヶ岳の戦いでは豊臣秀吉側についた織田信雄でしたが、豊臣秀吉によって「安土城」から退去させられたことをきっかけに、関係が悪化。
豊臣秀吉は織田信雄の家臣である「津川義冬」、「岡田重孝」、「浅井長時」の三家老を味方に付けようとしますが、織田信雄はこの3人を処刑し、徳川家康に援護を求めます。これに怒った豊臣秀吉は織田信雄に対して挙兵。徳川家康は主家・織田氏のためという大義名分のもと、約15,000の兵を率いて参戦しました。
3月に約30,000の兵を率いた豊臣秀吉は、小牧山を北東から包囲して布陣。楽田に本陣を構えました。織田信雄・徳川家康連合軍は小牧山から東に砦を築き、小牧山に本陣を構えます。
4月6日夜、豊臣秀吉は約20,000の兵力を4つの隊に分け、池田恒興、「森長可」(もりながよし)、「堀秀政」(ほりひでまさ)、「三好秀次」(みよしひでつぐ)を隊長として長久手方面へ進撃。これを知った徳川家康は、池田恒興・森長可両軍と対決します。
豊臣秀吉と徳川家康のたった一度の「直接対決」は、池田恒興・森長可の死によって、徳川家康に軍配が上がりました。もっとも、その後は豊臣秀吉が政治手腕を発揮し、11月に織田信雄との間で講和を締結。これにより、織田家のためという大義名分を失った徳川家康は撤収を余儀なくされ、豊臣秀吉と和解しました。
豊臣秀吉の度重なる上洛要請に対し、徳川家康が重い腰を上げたのは、和解から2年後。上洛し、豊臣秀吉と対面した徳川家康は恭順の意を示しましたが、豊臣秀吉と対立関係にあった北条氏との同盟関係は継続します。このように、豊臣秀吉と徳川家康の主従関係は、微妙なバランスの上に成立していたと言えるのです。
石田三成は、徳川方の部隊がいる「伏見城」を攻撃して、徳川重臣「鳥居元忠」を戦死させました。徳川家康は上杉軍への攻撃を「出羽国」と「陸奥国」の最上氏・伊達氏に依頼し、自身は東海道から西に向かいます。
この戦いについては、後世において、関ヶ原での布陣だけを見た軍事専門家が西軍の勝利を断言したほど、外見上は西軍が優位でした。しかし、結果は約6時間で東軍が勝利。西軍は内部分裂したり東軍に寝返ったりする者が多く、次第に東軍が優勢となり総崩れ。事実上の大将格・石田三成は、敗走を余儀なくされたのです。
敗戦後、石田三成は処刑され、西軍の武将らも処罰されました。
また、「豊臣秀頼」は65万石、摂津国をはじめとする3国に領地を削減されています。東軍に加勢した大名らと徳川家康の間に主従関係のない場合もありましたが、徳川家康が論功行賞や加増・改易の主導権を得たため、実質的に天下は徳川家康のものとなりました。
徳川家康は徳川家を頂点とした徳川幕府の体制作りに着手しましたが、主君筋にあたる豊臣家の存在は、徳川家康の構想実現に向けた不安の種でした。結局、両者の間でくすぶっていた火種が除去されることはなく、徳川幕府と豊臣家は、1614年(慶長19年)と1615年(慶長20年)の2度に亘って衝突します。
徳川家康が初代将軍となり、徳川幕府による統治が始まったあとも、依然として加藤清正や浅野幸長など豊臣家恩顧の大名がいました。そのため世間的には、徳川の天下はすぐ終わり、豊臣家に政権が戻るだろうと見る向きもあったのです。
そんな状況で、徳川家康は将軍職を子・徳川秀忠に譲り、今後も徳川家が政権を掌握することを世間に示しました。同時に豊臣秀頼に対して、江戸参勤や幕府への臣従などを要求。「淀殿」・豊臣秀頼母子らは、徳川家康との戦いを決意します。
豊臣方は全国から約10万の浪人を集め、大坂城に籠城しました。幕府側は約30万の軍勢で大坂城を包囲しましたが、城の守りが堅固なためこう着状態に。徳川家康は講和を締結するよう仕向けます。その狙いは、大坂城の堀を埋めて防御力を低下させることでした。
堀の埋め立て自体については、講和の内容に盛り込まれていましたが、徳川家康は約束より多くの堀を埋めたと言われているのです。
これに不審を抱いた豊臣方は、再戦に向けた準備を始めますが、これは徳川家康の思うつぼ。徳川家康は国替えや浪人追放などの無理難題を吹っかけることで追い討ちにしました。堀を埋められた大坂城は「裸城」となっていたため、冬の陣のような籠城作戦はできません。豊臣方に残されていた手段は、徳川本陣への突撃のみでした。
しかし、両軍間の戦力差はいかんともしがたく、最前線で戦っていた武将らは続々と討ち死に。その後、大坂城から火の手が上がり、豊臣秀頼らは自害しました。こうして、豊臣宗家は滅亡したのです。
織田信長から始まった天下統一路線は、豊臣秀吉に受け継がれて結実。そして徳川家康が江戸幕府の基盤を築き上げたことによって完結しました。同時に、応仁の乱から続いた戦国時代も終焉(元和偃武[げんなえんぶ]:元和元年の大坂夏の陣以後、世の中が平和になったこと)を迎えます。
織田信長・豊臣秀吉・徳川家康の3人の戦いは、当時の世の中に多大な影響を及ぼしました。その裏にあった様々なドラマや胸を打つエピソードは、現代に至るまで語り継がれています。