関東・甲信越地方の戦国大名

武田家の歴史と武具(刀剣・甲冑)
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武田家は、平安時代から戦国時代にかけて甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)を中心に勢力を広げた武家で、平安時代の武将「源信義」(みなもとののぶよし)が甲斐国で「武田信義」(たけだのぶよし)と名乗ったことが始まりです。
鎌倉時代に入り武田信義が甲斐国の守護に任命されると、武田信義の子「武田信光」(たけだのぶみつ)も甲斐国と安芸国(あきのくに:現在の広島県西部)の守護に任命され武田家の基礎を築いていくことになります。さらに武田家16代当主「武田信玄」(たけだしんげん)が、信濃国(しなののくに:現在の長野県)や駿河国(するがのくに:現在の静岡県中部・東部)などにも勢力を広げ、武田家は全盛期を迎えるのです。
しかし、武田家17代当主「武田勝頼」(たけだかつより)が長篠の戦いで「織田信長」に敗れると、武田家は急速に勢力を失っていきました。
そんな武田家の歴史とゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)などについてご紹介します。

武田家の祖「武田信義」

武田家の家紋「武田菱」

武田家の家紋「武田菱」

武田家の祖は、平安時代の武将「武田信義」です。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」(みなもとのよりとも)などと同じ「清和源氏」(せいわげんじ)の一族で、「佐竹家」や「南部家」の祖でもある「新羅三郎義光」(しんらさぶろうよしみつ)の曾孫にあたります。

新羅三郎義光の子「源義清」(みなもとのよしきよ)が、常陸国那珂郡武田郷(ひたちのくになかぐんたけだごう:現在の茨城県ひたちなか市武田)を領地とし「武田」を名乗りましたが、源義清とその子「源清光」(みなもとのきよみつ)は、常陸国から甲斐国(かいのくに:現在の山梨県)に配流となります。

その後、源清光は「辺見」を名乗りますが、源清光の子・源信義が甲斐国巨摩郡武田郷(かいのくにこまぐんたけだごう:現在の山梨県韮崎市神山町武田)を領地とし、1140年(保延6年)に再び武田を名乗ることで、甲斐武田家が誕生しました。

武田信義は駿河を手中にしたあと、鎌倉幕府初代将軍となる「源頼朝」 (みなもとのよりとも)と協調し、「武田家」の地位を確立しました。

武田家の基盤を築いた「武田信光」

武田信義が失脚すると、五男の「武田信光」が甲斐国の守護に任命されます。

源頼朝に仕えることになった武田信光は、馬術・弓術で優れた才能を発揮。源頼朝の弓馬術師範であり小笠原流弓馬術の始祖である「小笠原長清」(おがさわらながきよ)や、源頼朝を護衛した弓馬の名人「海野幸氏」(うんのゆきうじ)、そして源頼朝の御家人として仕えた「望月重隆」(もちづきしげたか)とともに、弓馬四天王と称されました。

その後、武田信光は将軍として「承久の乱」(1221年)に参戦すると、見事に戦功を挙げ安芸国の守護に任命されます。こうして武田信光は、甲斐国と安芸国に武田家の基盤を築いていくのでした。

武田家の全盛期を築いた「武田信玄」

戦国時代になると、武田家は全盛期を迎えます。

武田家15代当主「武田信虎」 (たけだのぶとら)は、武田家内の対立を治め甲斐国を統一。さらに「今川義元」(いまがわよしもと)や「北条氏綱」(ほうじょううじつな)ら近隣の大名と和睦を結び、勢力を拡大していきます。

ところが、度重なる戦の影響から甲斐国が財政難に陥ると、武田信虎の子「武田信玄」が、父である武田信虎を国外に追放し、16代当主として家督を相続。財政難を克服するとまたたく間に領地を広げ、武田家は120万石の有力大名となります。

精力的に領地拡大を図って近隣諸国に侵攻した武田信玄は、 武田家を戦国時代の一大勢力まで発展させました。上杉謙信(うえすぎけんしん)との5度の戦をはじめ、その道中は平坦なものではありませんでしたが、風林火山の旗印のもと「武田」の名を全国に轟かせ、武田家の全盛期を築き上げるのでした。

1572年、武田信玄は室町幕府第15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)の命を受け、大軍を率いて京都へ進軍します。待ち受けるのは「織田信長」と「徳川家康」。しかしその進軍の途中で武田信玄の持病が悪化し、翌年の1573年に病没してしまうのです。

武田家最後の当主「武田勝頼」

武田信玄が病没すると、武田信玄の子「武田勝頼」(たけだかつより)が武田家17代当主となります。そこへ武田信玄に脅威を感じていた織田信長や徳川家康らの勢力が攻勢に出ると、武田家は「長篠の戦い」で壊滅的な損害を受け敗戦。このとき武田家の多くの有能な武将達が命を落とすのでした。

その後、武田家は同盟を結んでいた北条と対立。織田信長や徳川家康にも攻められた武田家は、急激に勢力を失うことになります。さらに織田信長は、武田勝頼に対し「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)に逆らう朝敵と噂を流布し、武田家を追い詰めていきます。

こうして戦国時代の一大勢力だった武田家は、17代当主「武田勝頼」で最後を迎えることになるのでした。

武田信玄と上杉謙信が戦った「川中島の戦い」

第4次川中島の戦い

第4次川中島の戦い

川中島の戦い」とは、1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)にかけて、武田信玄と上杉謙信の間で行なわれた北信濃の勢力をめぐる5度の戦の総称です。

1561年(永禄4年)に起きた4度目の戦が最大の激戦となり、その舞台となった川中島の名を取って川中島の戦いと呼ばれています。

戦の発端は、武田信玄が甲斐国から北上して信濃国(しなののくに:現在の長野県)に攻め入り次々と勢力を広げていたこと。武田信玄に領地を奪われた「村上義清」(むらかみよしきよ)から支援を求められた上杉謙信が、要請に応え派兵し武田軍と衝突することで、12年に亘る戦が始まりました。

3戦目までは、和睦するなど勢力が均衡していましたが、1561年(永禄4年)に上杉謙信や関東諸将が北条氏康を攻めた「小田原の役」が起こると、武田信玄は同盟を結んでいた北条氏康から援助要請を受け北信濃に軍を進め上杉謙信を牽制。上杉謙信もそれを見て関東から兵を引き、北信濃で武田信玄と対峙したことで、川中島の戦い最大の激突となる4度目の戦に突入しました。

武田信玄は、妻女山(さいじょさん:長野県長野市松代町)に陣取る上杉謙信に対し、別働隊で上杉軍を攻撃し、逃れてきた上杉軍を待ち伏せていた本隊で叩く「啄木鳥戦法」(きつつきせんぽう)を講じます。しかし武田軍の動きを上杉謙信に察知され、上杉軍は夜のうちに妻女山を下山。夜明けとともに武田軍本隊の前に上杉軍が現れることとなり、武田信玄は奇襲をかけるつもりが、逆に奇襲をかけられてしまうのです。裏をかかれた武田軍は大混乱に陥り、別働隊が再合流することで形勢を立て直し、上杉軍に打撃を与え撤退させますが、軍師の「山本勘助」や武田信玄の弟「武田信繁」などが討死するほど、武田軍も大きな損害を受けました。

武田信玄と上杉謙信の銅像

武田信玄と上杉謙信の銅像

また、奇襲を受け乱戦の中、武田信玄は混乱に乗じて攻め入った上杉謙信の馬上からの太刀を軍配で受け止めたと言われており、川中島古戦場史跡公園(長野県長野市)には、そのシーンを描いた像が設置されています。

そのままお互いに兵を引き、両者痛み分けとして4戦目は終結。5戦目も、武田信玄が信濃国と越後国(えちごのくに)の国境に兵を進め上杉謙信とにらみ合いますが、合戦には至りませんでした。

川中島の戦いは「引き分けで終わった」と評されることもありますが、上杉謙信が武田信玄を川中島で食い止められず北上を許し、最終的に武田信玄が北信濃に勢力を伸ばした、という点から見て、武田信玄優勢という評価もされています。

武田信玄の旗印「風林火山」

「風林火山」は、武田信玄を代表するフレーズとして有名な言葉です。「孫子」に出てくる兵法の一節をもとに、「疾如風 徐如林 侵掠如火 不動如山」と書いた軍旗から取られたフレーズで、井上靖の小説「風林火山」で広く知られるようになりました。

「疾きこと風の如く、静かなること林の如く、侵略すること火の如く、動かざること山の如し」と読み、武田軍の戦術の心得が14文字に凝縮されています。武田信玄は、この軍旗を軍勢の先頭に立てて進軍したと伝えられています。

武田家ゆかりの刀剣・甲冑

武田家ゆかりの刀剣甲冑(鎧兜)などをご紹介します。

刀剣

来国長(らいくになが)

来国長は、武田信玄が所用していたと伝えられる日本刀です。

1705年(宝永2年)に恵林寺(山梨県甲州市)で行なわれた武田信玄133回忌にて、甲府藩(現在の山梨県甲府市)藩主「柳沢吉保」(やなぎさわよしやす)が奉納し、現在も国指定の重要文化財として恵林寺に収蔵されています。

来国長

来国長

備州長船倫光(びしゅうおさふねともみつ)

備州長船倫光は、武田信玄が所用していたとされる日本刀です。

短刀」と呼ばれる短い日本刀に分類される南北朝時代の刀鍛冶「長船倫光」の作で、現在は国指定の重要文化財として、恵林寺に収蔵されています。

宗三左文字(そうざさもんじ)

宗三左文字は、武田信玄の父である15代当主武田信虎が、「三好政長」(みよしまさなが)から譲り受けたとされる日本刀です。

武田信虎の娘が「今川義元」に嫁ぐ際、宗三左文字も譲り今川義元が愛刀として所用しますが、今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ、今度は織田信長の手に渡ります。その後、織田信長は刀を短くし「織田尾張守信長」とを入れ、今の形に変えています。

織田信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康など、代々の天下人のもとを経て、現在は重要文化財として建勲神社京都府京都市北区)に収蔵されています。

宗三左文字
宗三左文字
織田尾張守信長
永禄三年五月
十九日義元討捕
刻彼所持刀
鑑定区分
重要文化財
刃長
67.0
所蔵・伝来
三好政長 →
武田信玄 →
今川義元 →
織田信長 →
豊臣秀吉 →
徳川家 →
建勲神社
太刀 銘 長船景光(たち めい おさふねかげみつ)

太刀 銘 長船景光は、武田信玄が愛用し富士山本宮浅間大社静岡県富士宮市)に奉納した太刀。鎌倉時代の名工「景光」の作として国の重要文化財にも指定され、現在もなお富士山本宮浅間大社に収蔵されています。

大薙刀 銘 長船兼光(おおなぎなた めい おさふねかねみつ)

大薙刀 銘 長船兼光は、南北朝時代の刀工「兼光」の作とされる薙刀。武田信玄が武田八幡宮(山梨県韮崎市)に奉納しましたが、明治時代に神仏分離のあおりを受けて法善寺(山梨県南アルプス市)に移されました。

現在も、県の重要文化財として法善寺に収蔵されています。

甲冑

諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)
武田信玄の甲冑

武田信玄の甲冑

諏訪法性兜は、武田信玄の肖像画でもたびたび描かれる、前立前部の飾り)と白い毛が印象的な兜です。

兜の前面には金色の長い角を生やした赤い鬼の前立を飾り、頭頂部は日本に生息していないウシ科の動物「ヤク」の白く長い毛に覆われています。

また、「法性」とは仏教用語で、「本体・本性」という意味を持ち、「諏訪法性」は「諏訪大社の本体」、諏訪明神を指しています。

現在は、諏訪湖博物館(長野県諏訪郡下諏訪町)に収蔵されています。

小桜韋縅鎧兜 大袖付(こざくらかわおどしよろいかぶと おおそでつき)
小桜韋縅鎧兜 大袖付

小桜韋縅鎧兜 大袖付

小桜韋縅鎧兜 大袖付は、新羅三郎義光が所用していたとされる甲冑(鎧兜)です。清和源氏に伝わる8領の鎧「源氏八領」のひとつであり、「楯がいらないほど頑丈な鎧」という逸話から別名は「楯無鎧」(たてなしのよろい)。

新羅三郎義光の父「源頼義」(みなもとのよりよし)が、「後冷泉天皇」(ごれいぜいてんのう)から賜った日本最古の日の丸である「御旗」とともに、武田家の家宝、家督の証として相続されていました。

現在は、国宝として菅田天神社(山梨県甲州市)に収蔵されています。

紅糸縅最上胴丸(べにいとおどしもがみどうまる)

紅糸縅最上胴丸は、武田勝頼が富士山本宮浅間大社に奉納した甲冑(鎧兜)。現在は変色してしまい黄色に近い色合いですが、制作当時は燃えるような紅色の糸で胴体が彩られており、鋲金具にも花菱の紋をあしらうなど見栄えのする外見でした。

現在は、静岡県指定文化財として富士山本宮浅間大社に収蔵されています。

団扇

軍配団扇(ぐんばいうちわ)

軍配団扇は、武田信玄が所用していたとされる軍配です。鉄製で、中心に梵字が描かれているのが特徴。

諏訪法性兜を被り、軍配を持って座る武田信玄の姿は、肖像画や像のモチーフとしてたびたび観ることができます。現在は、恵林寺に収蔵されています。

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