室町幕府を開いた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)を筆頭に、世の中を席巻した将軍足利家。しかし群雄割拠の戦国時代には、天下統一を夢見る大名達の争いに巻き込まれ、豊臣秀吉が太政大臣に就任した際に、将軍職から降ろされてしまいます。そんな足利家の歴史や、ゆかりのある刀剣や甲冑(鎧兜)をご紹介します。
足利家の祖は、「源頼朝」などと同じ「清和源氏」(せいわげんじ)の流れを汲む「源義康」(みなもとのよしやす)です。
源義康が祖父「源義家」(みなもとのよしいえ)の時代から代々領土としていた下野国足利庄(しもつけのくにあしかがのしょう:現在の栃木県足利市)を、父「源義国」(みなもとのよしくに)から相続したことを機に、「足利義康」(あしかがよしやす)と名を改め足利家が興りました。
名家として代々、御家人や将軍として活躍してきた足利家。細川家や斯波家、今川家など、のちに戦国大名として活躍する庶流も分出してきました。
しかし、そんな大名達が争いを繰り広げた戦国時代には、将軍家としての権威は減退し、操り人形として扱われたこともありました。滅亡とまでは至りませんでしたが、一大名に成り下がるなど、表舞台から去ってしまいました。
足利義康の長男「足利義清」(あしかがよしきよ)と次男「足利義長」(あしかがよしなが)は、木曽義仲(きそよしなか)の挙兵に加わりましたが、1183年(寿永2年)備中水島の合戦で討死しました。これにより、三男「足利義兼」(あしかがよしかね)が嫡流を継承。源頼朝とは母同士が姉妹ということもあり、御門葉(ごもんよう:血縁関係がある一族)として丁重に扱われ、武家の中でも最上位にいました。
その後、北条家が権力を確立していく中で足利家は北条家に協力し、さらに地位を上げていきました。足利義兼の跡を継いだ「足利義氏」(あしかがよしうじ)は三河守護(現在の愛知県東部)、その子「足利泰氏」(あしかがやすうじ)は上総守護(現在の千葉県中部)もかねて、所領を増やしました。
足利泰氏以降の3代は、安定した地位を築きましたが、足利尊氏が継いだ頃に転機が訪れます。
鎌倉幕府・北条家との間に確執があった「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が1331年(元徳3年/元弘元年)討幕を企て挙兵。
その鎮圧のため幕府から討伐要請を受けますが、同時期に父「足利貞氏」(あしかがさだうじ)が亡くなってしまい、喪中であったため出兵どころではありませんでした。
そんな足利尊氏を気にもせず幕府側は出兵を強制。足利尊氏は勝利しますが、幕府に不信を抱くようになります。1333年(元弘3年/正慶2年)後醍醐天皇討伐の命を受けて再度出兵。そんな折、後醍醐天皇から味方に付くように誘いを受けて、幕府から離反します。その後、六波羅探題(京都を守る北条家)を攻めて討幕を果たし、後醍醐天皇から高位や30ほどの所領を賜わりました。
1335年(建武2年)、北条家の残党が、関東にて中先代の乱を起こしたため、足利尊氏は弟「足利直義」(あしかがただよし)に鎮圧を任命。その戦に紛れて、足利直義が後醍醐天皇の皇子「護良親王」(もりよししんのう)を殺害するなど、足利家は天皇家と距離を置くようになり対立します。
足利尊氏は幾度もの争いを経て勝利。1336年(建武3年)京で光明天皇(こうみょうてんのう)を立てて朝廷(北朝)を開かせ、京から逃げた後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県)で朝廷(南朝)を開き、南北朝時代が始まりました。1338年(延元3年/暦応元年)、足利尊氏は光明天皇から征夷大将軍に任命され、室町幕府を開きました。
足利尊氏の孫・3代「足利義満」(あしかがよしみつ)は、56年にわたる南北朝の争いに終止符を打ち、室町幕府の権力を確立しました。また現代において、重要文化財に指定されている金閣寺を建立した将軍としても有名です。
その後、後継者問題や有力管領の登場などにより、権力が奪われる危険もありました。特に8代「足利義政」(あしかがよしまさ)の頃、後継者問題から戦国時代がはじまるきっかけとなる応仁の乱が起こります。
この乱が約11年続く中、「足利義尚」(あしかがよしひさ)が9代将軍に就任。下剋上の風潮によって幕府の権威は大きく衰退してしまいますが、権力の確立に努めた足利義尚は34歳の若さで病死。その後4代の間、細川家や大内家などの有力大名の権力争いに巻き込まれ、権威が下落します。
そんななか、13代「足利義輝」(あしかがよしてる)が大名同士の抗争の調停を頻繁に行ない、将軍としての威厳を知らしめました。次に継いだ14代「足利義栄」(あしかがよしひで)は、背中の腫瘍が悪化し病死してしまい、1年足らずで将軍職を廃されます。
最後の15代「足利義昭」(あしかがよしあき)も、就任後ほどなくして織田信長により京都から追われます。豊臣秀吉が天下を取った際には、将軍を辞職。豊臣秀吉から槙島城(京都府宇治市)1万石の待遇を受け、余生を送りました。
数ある刀剣の中で室町時代頃から特に名刀とされた、「三日月宗近」(みかづきむねちか)、「大典太光世」(おおでんたみつよ)、「鬼丸国綱」(おにまるくにつな)、「童子切安綱」(どうじぎりやすつな)、「数珠丸」(じゅずまる)の5振を総称したのが「天下五剣」。
今回は、足利家にゆかりのある4振をご紹介します。
三日月宗近は、平安時代に作られたとされる太刀です。足利義輝所用と伝えられるとともに、天下五剣の中でもっとも美しいと言われました。
現在は国宝として、東京国立博物館(東京都台東区)に収蔵されています。
大典太光世は、平安時代後期の筑後の刀工「三池典太光世」(みいけでんたみつよ)が作った日本刀で、足利家にて代々受け継がれた宝刀だと言われています。足利家が没落したのち豊臣秀吉の手へと渡り、そこから前田利家へ渡ると前田家の家宝として代々伝えられました。豊臣秀吉が前田利家に持たせた魔除けの刀とも言われており、魔を退治する能力があると伝えられています。
現在は国宝として石川県立美術館(石川県金沢市)に収蔵されています。
鬼丸国綱は元々、5代北条家執権「北条時頼」(ほうじょうときより)が所用していました。
名前の由来ははっきりしていませんが、夢に出てくる鬼に苦しめられていた北条時頼が、この太刀のサビを拭い去って立て掛けておいたところ、倒れた太刀が火鉢の鬼の頭を切り落としました。これ以後、鬼に悩まされることがなくなったことから鬼丸国綱と呼ばれるようになったそうですが、この話は後世の創作とされています。
代々北条家に受け継がれ、新田義貞(にったよしさだ)へ、そして足利尊氏へと渡りました。足利義昭が織田信長に贈るまで、15代足利家で重宝されました。
現在は宮内庁で管理されています。
童子切安綱は、「源頼光」(みなもとのよりみつ)が大江山の鬼・酒呑童子の首を切り落とす際に使用し、それが名前の由来として伝わっています。その後足利家へと渡り、足利義昭から豊臣秀吉に贈られるまで代々伝わりました。
現在は国宝として東京国立博物館に収蔵されています。