大友家は鎌倉時代から戦国時代にかけて、豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県の大部分)を中心に、豊後・筑後国(ぶんご・ちくごのくに:現在の福岡県南西部)など、九州北部を支配した戦国大名です。「大友義鎮」(おおともよししげ)が当主だった戦国時代初期には、九州のほぼ全域を領有し全盛期を迎えました。今回はそんな大友家の歴史とゆかりの刀剣や甲冑(鎧兜)、大友家を支えた家臣についてご紹介します。
大友家の初代当主「大友能直」(おおともよしなお)は、相模国愛甲郡(現在の神奈川県厚木市)の地方官僚である「近藤能成」(こんどうよしなり)の息子として生まれました。
神角寺(じんかくじ)の戦いにより九州地方の平家が失脚した1196年(建久7年)、大友能直は豊後・筑後守護職と鎮西奉行(ちんぜいぶぎょう)職に任命されました。
しかし、大友能直とその子「大友親秀」(おおともちかひで)の時代には豊後国(ぶんごのくに:現在の大分県の大部分)に下ったという記録は残されていません。実際に豊後国に下ったのは大友能直の宰臣(君主を補佐して政治を執る者)だったとされています。
大友能直が豊後守護に補任されたのは、筑前国(現在の福岡県西部)、肥前国(現在の佐賀県と長崎県の大部分)を治めた少弐家(しょうにけ)や薩摩国(現在の鹿児島県西部)を治めた島津家(しまづけ)と共に、平家側の武家が多かった九州地方に対する抑えの役割があったと言われています。
その後、3代当主「大友頼泰」(おおともよりやす)の代に豊後国に下向。これは1274年(文永11年)文永の役(ぶんえいのえき)を前に異国を警戒した幕府からの命令でした。
大友頼泰は元寇(鎌倉時代中期、中国大陸を支配していたモンゴルの帝国[元]による日本侵略)における数々の戦で活躍し、大友家の繁栄の基礎を築き上げ、大友家は豊後国に定着し勢力を拡大していったのです。
そして跡取り問題など幾多の分裂を乗り越え、21代・大友義鎮の代では時の権力者に支援を仰ぎ、九州の大部分の覇権を握るまで成長した大友家。また、大友義鎮は戦国時代において数少ないキリシタン大名であり、西洋文化を繁栄させようとした先駆者でもありました。その功績の一部として、大分県は現代日本においての西洋音楽、西洋演劇発祥の地とされ記念碑が建立されています。
室町時代に入ると、九州では南朝勢力が強大化していき、1368年(正平23年)9代当主に就いた「大友氏継」(おおともうじつぐ)は、大友家存続のために南朝側に付きます。同年のうちに当主を弟「大友親世」(おおともちかよ)に譲りますが、大友親世は北朝側に付きました。
これにより、大友家は南朝の大友氏継派と北朝の大友親世派に分裂することになり、当主の座は大友氏継派と大友親世派が、交互に就いていく通例ができたのです。
大友氏継の子で11代当主「大友親著」(おおともちかあき)は、先代当主大友親世の子「大友持直」(おおとももちなお)を後継者としましたが、これに不満を抱いた大友氏継派の者達が豊前国の守護職であった大内家と結んで謀反を起こしました。
しかし謀反は大友持直に鎮圧されて閉幕。大友持直はその後、少弐家と組んで大内家と敵対し、大内家当主「大内盛見」(おおうちもりはる)を討ちました。それに怒った幕府は、大友持直討伐の軍を向けます。
これを境に幕府から新たな13代当主に任命されたのが「大友親綱」(おおともちかつな)です。大友親綱は大内盛見の後継者である「大内持世」(おおうちもちよ)と共に大友持直の討伐に当たりましたが、大友家は再び大友親綱派と大友持直派に分裂することとなり内紛はますます深まりました。
この跡取り問題による内紛は、1444年(文安元年)大友親世派「大友親隆」(おおともちかたか)の娘を大友氏継派「大友親繁」(おおともちかしげ)が妻として迎え、大友親繁が15代当主になることを条件に収まったと言われています。
大友家は、キリシタン大名として有名な21代当主の大友義鎮(おおともよししげ:のちの大友宗麟)の代に最盛期を迎えます。
大友義鎮は、1551年(天文20年)の大寧寺の変(たいねいじのへん)にて大内家当主「大内義隆」(おおうちよしたか)が死去すると、自身の弟「大内義長」(おおうちよしなが)を大内家当主として送り込みました。これにより長年続いた大内家との対立に終止符を打つと共に、九州北部の大内家に服属する国人(その国土着の武士)が大友家にしたがうこととなり、大友家は周防国(現在の山口県東南半分)や長門国(現在の山口県西半分)にも影響を及ぼすようになりました。
大友義鎮はそのあと、幕府に対して鉄砲や多大な金銭の献上を行ない、将軍家との関係強化に努めました。大友義鎮はその成果を認められ、1559年(永禄2年)豊前・筑前国の守護に就任。同年11月には九州探題(政務の採決を行なう職)に任命されるなど、名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友家は全盛期を迎えました。
大友義鎮は領地内でのイエズス会による布教活動を容認し、外国人と多く交流を持つことで、西洋の武器や技術を輸入して軍事力を高めていきました。
軍事への利用だけに留まらず、キリスト教の教え自体に強い感銘を受けた大友義鎮は、そのあと1578年(天正6年)宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名「ドン・フランシスコ」と名乗り正式にキリスト教徒になりました。
しかしこの改宗が家臣団の離反を招き、晩年に国人の反乱多発という形で表面化していくこととなります。
大友義鎮は、1570年(元亀元年)隣国の肥前国を治めていた龍造寺家との今山の戦い、1578年(天正6年)九州南部を治めていた島津家との耳川の戦いで共に大敗を喫してしまいました。この大敗で多くの有力武将を失い、支配力が落ちる中で、それまで大友家の配下にあった肥前・筑前・筑後国の国人領主が次々と謀反を起こし、大友家は危機的状況に陥ったのです。
1586年(天正14年)には島津家に本国である豊後国にまで侵攻されますが、大友義鎮は当時の天下人である豊臣秀吉に支援を要請して自ら臣従したことにより戦いに勝利し、大友家は豊臣政権下で存続することとなりました。
しかし、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いに伴い九州で起きた「黒田官兵衛」(くろだかんべえ)との石垣原の戦い(いしがきばるのたたかい)に、22代当主「大友義統」(おおともよしむね)が敗れ幽閉の身となります。その際に江戸の徳川家に預けられていた大友義統の嫡子「大友義乗」(おおともよしのり)が連座させられることはなく23代当主となりますが、大友義乗の嫡子24代「大友義親」(おおともよしちか)が早世し、大友家は断絶しました。
耳川の戦いに大敗し、大友家が島津家に対して劣勢となり家臣の離反が相次ぐ中、立花道雪は大友家に忠誠を尽くし島津家と戦い続けました。