江戸時代に島津家が治めた薩摩藩(鹿児島県と宮崎県南西部)と言えば、幕末の志士を多数輩出したことで知られています。戦国時代きっての名門と称えられた島津家は、家の興りから江戸時代まで、九州南部を中心とした地域を支配していました。薩摩藩は政治や権力の中心から遠い地にありながら、屈指の雄藩(ゆうはん:勢力の強い藩のこと)として日本の歴史に大きな影響を与え続け、その力は近代日本の創出にも深くかかわっています。「関ヶ原の戦い」で敗退しながらも領地を存続し、「廃藩置県」が施行されるまで強大な藩であり続けた薩摩藩と島津家の歴史や、激動の舞台で活躍した刀剣や甲冑(鎧兜)をご紹介します。
島津家の祖をたどると、鎌倉時代が始まる1185年(元暦2年)にまでさかのぼります。
壇ノ浦の戦いで平家が没したのち、戦に勝利した源頼朝が、南九州にあった国内最大級の荘園(領土)「島津荘」(現在の宮崎県都城市郡元付近)の荘官(荘園の長)にある人物を任命。
それが、のちに島津を名乗り、江戸時代まで約700年の長きにわたり薩摩の地を治めることになる、「惟宗忠久」(これむねのただひさ)でした。
海を隔てて中国大陸と隣り合う土地柄、当時から琉球国を含む外国との交易が盛んで、情報や文化の行き来が多くあり、それがときに脅威となることも身をもって知ったことが、のちに時代をリードする鋭い先見性につながったと言えます。
初代「島津忠久」(しまづただひさ)は島津荘の荘官就任後、さらに薩摩(現在の鹿児島県西部)、大隅(おおすみ:現在の鹿児島県東部と奄美群島)、日向(ひゅうが:現在の宮崎県)の国の守護職に任ぜられます。しかし室町時代になると、内紛や反乱などで体制は弱体化し、その支配地域も縮小してしまいました。
島津家が再び勢力を伸ばすことになるのは戦国時代。内紛を鎮めて薩摩半島を統一した15代当主「島津貴久」(しまづたかひさ)は、かつての支配地を統一しようと、大隅で力を持っていた「蒲生家」(がもうけ)を打ち破ります。
さらに16代「島津義久」(しまづよしひさ)が、日向の「伊東家」(いとうけ)を撃破。続けて、伊東家が亡命した豊後(ぶんご:現在の一部を除いた大分県)の「大友宗麟」(おおともそうりん)と、北九州を支配下に置いていた肥前(ひぜん:現在の佐賀県と一部を除く長崎県)の「龍造寺隆信」(りゅうぞうじたかのぶ)を破ります。
筑前(ちくぜん:現在の福岡県西部)や豊後にまで入った島津家の九州統一は目前まで迫りますが、本州からきた豊臣軍に破れて降伏し、豊臣秀吉に従属します。島津家の激しいほどの勇猛さを全国に知らしめたのが、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いです。
「島津義弘」(しまづよしひろ)率いる島津家は西軍に付きますが、厳しい戦いの末に退路を断たれてしまいます。戦場で孤立した島津の軍勢が選んだ道は「敵中突破」。敵陣への正面突破による退却を敢行しました。島津義弘を薩摩へ帰還させるために、のちに「島津の退き口」と呼ばれる捨て身の戦法で、多数の犠牲を払いながらも戦場からの離脱に成功しました。そして徳川家康との粘り強い和平交渉の末に、島津家は徳川の時代でも薩摩・大隅・日向の地を治めることを許されました。
その後、薩摩藩は徳川幕府の統制下にありながら、領有化した琉球国(現在の沖縄県)を通じて行なった海外貿易で莫大な富を蓄え、海外の文化や技術をいち早く取り入れていくことになります。さらに、島津家は大名家の中で唯一、徳川将軍家の正室である御台所(みだいどころ)を2名も輩出するなど、外様大名(関ヶ原の戦い後に徳川家に従った大名)でありながら徳川家との関係を深めていきました。
時代は幕末となり、欧米各国が開国と通商を求めてやってくるようになると、28代「島津斉彬」(しまづなりあきら)は、海外列強に対抗できる新しい国作りを掲げて、軍備だけでなく産業や教育、医療の近代化に力を入れます。
また、薩摩藩は日本の1藩でありながらイギリスという大国相手に薩英戦争を起こしますが、改めて攘夷(じょうい:西欧諸外国の日本進出に対して、武力で排除しようとする行為のこと)の無謀さを思い知る結果となりました。そして、敗戦後は敵国だったイギリスに留学生を派遣したり、戦艦や武器の調達を依頼したりするなどして友好な関係を築き、日本を開国と近代化へ導きます。
島津斉彬は志半ばで病死しますが、養女として13代将軍の「徳川家定」(とくがわいえさだ)のもとに嫁がせた「篤姫」(あつひめ)や、その弟でのちに「国父」と呼ばれる「島津久光」(しまづひさみつ)、家臣の「西郷隆盛」(さいごうたかもり)や「大久保利通」(おおくぼとしみち)によって、近代日本の礎が築かれていきます。
島津家の歴史を振り返ると、垣間見えるのは薩摩隼人の粘り強さや不屈の精神力。脈々と受け継がれてきたその力強さこそが、後世に名を残す数々の英傑達を生み出したのでしょう。
激動の時代を力強く生き抜いた武士の育成には、島津家独自の教育制度「郷中教育」(ごじゅうきょういく)が一役買ったと言われています。
同じ地域(郷中)に住む6歳から25歳くらいまでの武士の子達が集まり、「長老」(おせんし)と呼ばれる年長者を筆頭に、年齢が上の者が下の者を指導するかたちで自立して武道や道徳などの教育を行なっていました。
その精神的根幹となったのが、島津貴久の父である「島津忠良」(しまづただよし)が残した「島津いろは歌」です。47首の和歌は「人間とはどうあるべきか」について詠っており、島津直伝の精神性を育んでいきました。
島津義弘の孫である島津忠明(しまづただあき)にはじまる薩摩藩の名門家、加治木島津家に伝わっていましたが、現在は個人所有となり、鹿児島県歴史資料センター黎明館(鹿児島県鹿児島市)に寄託されています。
現在は分解して保存され、退色も激しく状態は悪いですが、1726年(享保11年)に「島津継豊」(しまづつぐとよ)が作らせた模造品があり、今に受け継がれています。
1558年(永禄元年)に、島津貴久が鹿児島神宮(鹿児島県霧島市)に奉納した胴丸です。
白や紅、紫の複数の色の糸で緒通しされているため「色々縅」の名前が付いています。
兜の前立は、鍬形の中央に矛が立つ三つ鍬形。矛の下部に三鈷(さんこ:密教の宝具である三鈷杵[さんこしょ]のことで、仏の身・口・意の三密として、それぞれ水・剣・火を意味し、水は対人関係や世間の流れ、剣は言葉、火は欲望を表す)の先端部分があしらわれているのは、室町時代末期の典型的な特徴。
現在は国の重要文化財に指定され、鹿児島神宮が所有し、鹿児島県歴史資料センター黎明館に寄託しています。
その際に着用していたとされる甲冑(鎧兜)が、「紺糸縅腹巻」(こんいとおどしはらまき)です。腹巻の各所には、槍や刀による傷が残されています。1777年(安永6年)、島津家久を始祖とする島津家の分家・永吉家(ながよしけ)が手に入れ、菩提寺である天昌寺(鹿児島県日置市)に納めました。現在は個人所有となり、尚古集成館に寄託されています。