伊勢神宮では20年ごとに「式年遷宮」(しきねんせんぐう)が行なわれています。
式年遷宮とは、定期的な造営や修理の際にご神体を本殿にうつすことで、その際に2つの正殿と14の別宮、さらには装束や須賀利御太刀を含む714種1576点の御装束神宝(おんしょうぞくしんぽう)などをすべて新しく造り替える伝統行事です。
式年遷宮が始まったのは奈良時代の690年。そして伊勢神宮の歴史はさらに古く、創設は皇室の祖先である天照大御神(あまてらすおおみかみ)の時代、日本神話まで遡ります。
いったいどのようにして式年遷宮が始まったのか、伊勢神宮の歴史と式年遷宮、そして神宝の太刀の中でも代表的な御太刀(おんたち)についてご紹介します。
毎年多くの参拝客を集め、「お伊勢さん」として親しまれている伊勢神宮では、20年に一度、宮地(みやどころ:神の鎮座する所)を改め、社殿や御装束神宝を新しくし、神に新宮(にいみや)へお移りいただく祭りがあります。伊勢神宮最大の、式年遷宮と言われるこの祭りは、1,300年以上も前から伝わる伝統の行事です。
伊勢神宮には、皇室の祖先である天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る内宮(皇大神宮)と衣食住や産業の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀る外宮(豊受大神宮)を中心に、14の別宮、43の摂社、24の末社、42の所管社があり、式年遷宮では内宮外宮の正宮(しょうみや)とすべての別宮、宝殿、鳥居、五十鈴川に架けられた宇治橋などが造り替えられます。
また、社殿の造営とともに御装束神宝も作り替えられます。この御装束神宝とは、殿内外の飾りや神に関する衣類・服飾品及び殿内の調度品です。
式年遷宮の中で、神が旧宮から新宮に移る祭儀を「遷御」(せんぎょ)と言い、その日時は天皇陛下がお決めになります。
こうした神に関するあらゆる物を造り替えるとともに、8年の歳月をかけて祭りと行事を重ねていくのです。遷御まで長い時間をかけるその過程は神々しさがあり、日本中が注目するほどの大事業となります。
内宮には19種199点の神宝があり、①紡績具・紡織具 ②武器・武具 ③馬具 ④楽器 ⑤文具 ⑥日常用具の6種類に分類されます。
この中で武器・武具の神宝としては太刀をはじめ、梓弓(あずさゆみ/あづさゆみ)、鞆(とも)、錦靱(にしきのゆき:矢を入れて携行した武具)、盾、鉾などがありますが、代表的なのは4種の御太刀でしょう。
玉纏御太刀(たままきのおんたち)、須賀利御太刀(すがりのおんたち)、金銅造御太刀(こんどうづくりのおんたち)、銅黒造御太刀(どうくろつくりのおんたち)と呼ばれる太刀は、すべて直刀(ちょくとう:刀身に反りのない真っ直ぐな形の物)ですが、それぞれに特徴があります。
玉纏御太刀は神宝の中でも最もきらびやかな太刀で儀礼用の飾り太刀です。鞘には水晶や瑠璃、琥珀、瑪瑙(めのう)が豪華に散りばめられ、5色の吹玉(ふきだま:ガラス玉)を纏っていることからその名が付いています。
須賀利御太刀の須賀利は、須賀流(すがる)とも言われ、黒いジガバチ(似我蜂)を意味します。蜂の美しさからこの名が付けられ、優美な柄の上下には朱鷺(トキ)の尾羽が2枚。今や絶滅危惧種として特別天然記念物になっている朱鷺ですが、朱鷺の羽根を保管している篤志家から譲り受けていたため、2013年(平成25年)の第62回式年遷宮まで、その姿を留めることができています。
金銅造御太刀と銅黒造御太刀は、あまり装飾を施さないシンプルな太刀。正宮と別宮に奉納されるため複数作られます。
なお、これらの太刀をはじめ神宝類は、神宮徴古館で撤下品(てっかひん:神前からのお下がりの品)を観ることができます。
伊勢神宮の歴史は古く、その創設は日本の神話時代にまで遡ります。天照大御神は天孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨した際に八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさぎのつるぎ)の三種の神器を授け、その中の八咫鏡に天照大御神自身の神霊を込めました。
その後、八咫鏡は初代天皇である神武天皇のもとに置かれ、以後、代々天皇のそばに安置。
しかし第10代崇神(すじん)天皇の時、大御神を皇居外に祀ることを決意し、皇女である豊鍬入姫命(とよすきいりびめのみこと)は大和の笠縫邑(かさぬいのむら)に神籬(ひもろぎ:神祭りをするにあたり、神霊を招くための依り代となる物)を立てて八咫鏡を祀りました。
第11代垂仁(すいにん)天皇の時代になると、豊鍬入姫命から代わった倭姫命(やまとひめのみこと)が、永遠に神事を継続できる新たな場所を求めて、大和国から伊勢国へ。天照大御神は「この神風の伊勢の国は、遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国である。都から離れた傍国ではなるが、美しい国である。この国にいようと思う」と言われたと「日本書紀」に記載されています。倭姫命は五十鈴川の川上に宮を建て、紀元前5年(垂仁天皇25年)に永遠の御鎮座地となりました。
創設された時代の神宮は、現在ほど大規模な宮でなく、神籬や祠(やしろ)と呼ばれる仮設的な祭場に天照大御神をお祀りしていたと考えられています。これが今のような大規模な宮となったのは、690年(持統天皇4年)に行なわれた第1回の式年遷宮の頃と思われます。
天照大御神の御鎮座から約500年後、外宮は天照大御神の食事を司る御饌都神(みけつかみ)を丹波国から迎えるために開かれました。また、伊勢神宮では祭典を行なう際に、まず外宮から行ない、そして内宮へ移る慣わしになっています。これは「外宮先祭」(げくうせんさい)と言い、外宮は天照大御神の食事を司る神であるため、内宮に先んじて神饌(しんせん:神に供える食事)をお供えするためです。この順序に倣い参拝もこれに合わせて外宮からお参りするのが正式とされています。
永遠の御鎮座地を得た天照大御神ですが、20年ごとに社殿や御装束神宝も作り替える式年遷宮はどのように始まったのでしょうか。
690年(持統天皇4年)に最初の式年遷宮が行なわれていますが、これは天武天皇のご発意によるものでした。「皇太神宮儀式帳」(こうたいじんぐうぎしきちょう)には「常に二十箇年を限りて一度、新宮に遷し奉る」と書かれ、「延喜太神宮式」(えんぎだいじんぐうしき)に「凡(おおよそ)太神宮は廿年(にじゅうねん)はたとせに一度ひとたび、正殿宝殿及び外幣殿を造り替えよ」と記載があります。
しかし遷宮の理由についてはどの書籍や資料にも記載されていません。これまでも研究などによって様々な理由が推察されてきましたが、確証を得るものはありませんでした。
ただ、これまで長きにわたって伝えられたことで、「唯一神明造」(ゆいいつしんめいづくり)という日本古来の建築様式や御装束神宝などの調度品を現在に伝えることができ、神宮としていつの時代にも変わらない姿を披露することで、神と人、国家に永遠を目指したと考えられています。
奈良時代に始まった式年遷宮は、室町時代後期に経済的理由から中断を余儀なくされますが、織田信長や豊臣秀吉が遷宮費用を献納して復興に尽力しました。徳川幕府も全面的に協力し、明治時代に入ると遷宮は国儀として盛大に催行されるようになったとされます。
変化があったのは終戦後でした。日本を統治していたGHQが国家神道を廃止して、政教分離を命じたのです。これにより式年遷宮は主軸が国家から国民に変わり、国民の手によって受け継がれるようになりました。