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普寛霊場の刃渡り神事
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普寛霊場の刃渡り神事 普寛霊場の刃渡り神事
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埼玉県本庄市の普寛霊場(ふかんれいじょう)では、日本刀の刃の上を素足で歩く、刃渡り神事が行なわれています。
刃渡り神事は荒行の一部と言われており、悟りを開くために行なうようです。苦痛を伴う過酷な状況下に置かれることにより、精神力を高めることを目的としています。
刃渡り神事が行なわれる普寛霊場は、普寛行者が亡くなった場所で、信仰者にとっては聖地のようなものです。そのため普寛行者を偲んで、4月と10月の大祭には、全国から信者が集まります。
普寛霊場で行なわれる刃渡り神事とは、具体的にどのような行事なのでしょうか?
こちらでは、刃渡り神事が行なわれる普寛霊場や、場所・信仰にかかわりのある修験者の普寛行者について、ご紹介します。

普寛霊場で行なわれる火渡り神事と刃渡り神事

刃渡り神事

刃渡り神事

日本刀の刃を裸足で踏みしめる刃渡り神事は、剣渡り神事とも呼ばれ、木曽御嶽山を崇拝する山岳信仰の荒行のひとつです。

埼玉県本庄市の普寛霊場、深谷市の瀧宮(たきのみや)神社では、こうした刃渡り神事が現代でも見られ、奇祭を催す神社として全国的にも有名です。

特に普寛霊場は、木曽御嶽山表山道王滝口開山の師である普寛上人が入寂(にゅうじゃく:徳の高い僧侶が死ぬこと)した地で、毎年春と秋の2回、大祭が開かれ、火渡り神事とともに刃渡り神事が行なわれます。

火渡り神事では、燃え盛る炎の周囲を、修験者達がお経を唱えながら練り歩き、炎が収まった頃に裸足で火の上を歩きます。

刃渡り神事は、高さ3mほどのやぐらに日本刀でできた13段の梯子を裸足で昇る修行です。

修験者は、昇る前に合掌してお経を唱え精神を統一してから梯子に向かいます。梯子を登るときは素手で刃を掴むことになるため、昇っている最中は観覧者をはじめ周囲に緊張感が走ります。そして無事に昇り終えた修験者は、反対側の普通の梯子で下りることになっています。

このように切れ味鋭い真剣の上を裸足で渡ることに、どのような意味が込められているのでしょうか。

普寛行者の高弟(弟子のなかで、特にすぐれた弟子)である一心行者は「明日の身を知り得ぬ人生は恰(あたか)も日に月に剣の刃を渡るに等しい。故に1年を12ヵ月に閏月1ヵ月を加えた13ヵ月を象り(かたどり)、真剣白刃を13段の梯に組み素手素足をもって渡るも法力の功徳によって難を避け、大難を小難に、小難を無難に踏み鎮め生涯を通して円満息災の利益を得せしむにあり」とその意義を説いています。

刀の梯子を人生に例え、それを用心深く昇ることで、災いを避けられるということのようです。

普寛行者所縁の地である普寛霊場

こうした荒行は、山岳信仰など密教的な宗教に見られます。自然の山を神として信仰する風習は古代からあり、登拝する場合は行者が信者を導き、一緒になって聖地を巡礼します。御嶽山を信仰する者は御嶽講と呼ばれ、行者はその講社を広める役割がありました。

江戸時代に、覚明(かくめい)行者が黒沢口登山道を、普寛行者が王滝口登山道をそれぞれ開山したことで、御嶽講を広める大きな足がかりとなりました。 祭神(さいじん:その神社に祀ってある神)は国常立尊(くにのとこたちのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなびこなのみこと)を奉斎主神として御嶽大神として祀っています。木曽御嶽山を開山した覚明、普寛の両行者は崇敬神として「開山霊神」と信仰者から奉称されているのです。

刃渡り神事が行なわれる普寛霊場は、普寛行者が亡くなった場所で、信仰者にとっては聖地のようなもの。そのため普寛行者を偲んで毎年4月10日と10月10日に全国から信者が集まり、大祭が催されるようになりました。

この霊場では、普寛行者の遺骨を砕いて木像に黒漆で塗り固められた「御霊像」が御堂に安置され、ご神体として祀られています。御堂は、1870年(明治3年)に全国の信者の寄進によって造営された物。普寛行者の墓塔も同じ敷地内にあります。

庶民の病苦を祓うために尽力した普寛行者

普寛行者は1731年(享保16年)に武州秩父郡大滝村で生まれ、幼いときに浅見家の養子となりました。少年時代は剣術に励み、のちに江戸へ出て剣術や漢学を学びました。

1764年(明和元年)に郷里に帰ると、三峯山観音院の日照の門に入り、名を普寛と改め修験道へ進みました。師のもとで修行を積み、3年間で天台密二教の奥義を究めると、1766年(明和3年)には権大僧都(ごんのだいそうづ)に昇格。本明院と号して再び江戸に入り、先師法性院の法統を継ぎました。

52歳のときには聖護院派の修験長に任命されましたが、その意志がなかった普寛行者は修験長の職を退き、「庶民のために病厄を戒除する」と称して深山にひとり籠もって木食(もくじき)、水飲の修行に務めました。

その後各地を放浪し、江戸に戻ると八丁堀の法性院に住んで、剣術の指南をする傍ら、病を患った庶民のために祈祷を行なっていました。ある日、祈祷によって少女のあざを治したことが江戸の評判となり、当時の有力な商人達の帰依を受けるようになったと言われています。

1790年(寛政2年)、木曽王滝村出身の日雇頭が失明に悩む人を救ったという話を聞き、普寛行者はその日雇頭を頼って王滝村を訪れ、そのときに王滝口からの新ルートを開拓しました。その後、御嶽講社の結衆に力を入れ、江戸をはじめ関東一円に広く御嶽信仰を広めるようになります。

さらに越後の八海山、武蔵の意和羅山(いわらやま)、上野国の武尊山(ほたかやま)も開山し、その分神を御嶽山へ勧請(他の地に移して祀ること)しています。

また普寛行者は修験道の巫儀(みこぎ:自分に生霊や動物霊などを乗り移らせて行なう祈祷法)である「御座」(おざ)を編み出しました。御座とは、神仏や霊神を行者に降臨させて教えを説く儀礼で、木曽御嶽信仰の展開の原動力となったとされています。

布教の途中だった普寛行者は1801年(享和元年)、本庄宿に滞在していたときに病気となり、71歳でその生涯を終えました。普寛行者の遺言によって、遺骨は御嶽山麓花戸と郷里三峯山麓、遷化の地本庄宿、それに江戸法性院墓地に分骨埋葬されたとのことです。

心身をギリギリまで追い込む修験者の荒行

火渡り神事

火渡り神事

刃渡り神事や火渡り神事などは荒行の一部と言われており、山岳信仰の修行には、こうした荒行がよく見られます。普寛行者が御嶽山開山にあたって山ごもりをしたときに、米、麦、栗、大豆などの五穀を断つ木食行(もくじきぎょう)を行なったとされ、普寛行者の弟子であった一心も一千日の木食行を試みて成就したと言われています。

こうした荒行は、悟りを開くために行なうもので、苦痛を伴う過酷な状況下に置かれることにより、精神力を高めることを目的としています。

他の山岳信仰でも数日間食事を取らないばかりか、眠ることや横になることもない状態でお経を唱えたり、険しい山道を何百日も歩き続けたりする修行もあります。生きるために必要な物をギリギリまで制限したり、限界まで体を痛めつけたりするこれらの修行は、精神と肉体を極限状態にまで追い込みます。

修験者が着用している白装束は、本来死者が身に付ける物。このことからも修行が常に死と隣り合わせであることを意味します。

刃渡り神事や火渡り神事は一般人でも参加することができるため、その体験を通して修行の意味を感じ取るのも良いでしょう。修験の語源が「修行して迷いを除き、験徳をあらわす」と言われるように、修行を積んで自己を成長させていく考え方は、私達の日常生活や仕事にも通じるものがあります。

普寛霊場の刃渡り神事
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