「切腹」は自ら腹を斬る行為です。その勇気を讃えて武士にとって切腹は名誉あるものと考えられてきました。日本最初の切腹は平安時代でしたが、それは「名誉ある死」とはほど遠いものだったようです。
しかし戦国時代になると切腹の意味合いも変わり、江戸時代には武士としての面目を保つ、名誉を挽回する行為となります。そんな武士の切腹についてご紹介していきます。
日本刀はかつての日本においては有力な武器のひとつであり、特に江戸時代には刀を持つことが武士の象徴でもありました。
その武士の象徴である日本刀で自死する行為「切腹」は、武士にとって名誉ある死とされてきました。罪のある者は斬られたこと、そして自ら腹を斬る行為は勇気が必要だったことから、切腹は例え命じられた場合でも本人の勇気を讃えて名誉あるものと考えられたようです。
日本で最初に切腹したのが誰なのかは諸説ありますが、定説になっているのは、988年(永延2年)に亡くなった「藤原保輔」(ふじわらのやすすけ) です。藤原保輔は「袴垂」(はかまだれ)とも呼ばれた泥棒で、武士ではありませんでした。
13世紀初め頃に撰された「続古事談」(ぞくこじだん)によると、藤原保輔は強盗を働いたことが密告によって明らかにされ、逃げ切れなくなってついに刀を抜いて腹を切り、それでもすぐには亡くならず、翌日に絶命という最期を迎えました。現代の時代劇で見る武士の切腹には介錯人が付いて、腹を切ったあとすぐに首を斬り落として絶命しますが、このときは介錯人がいなかったようです。
自死の方法として切腹が登場してから、時代を経て意味合いも変化していったと考えられています。室町時代には敵方に追われてやむなく切腹を選ぶといったことも多かったとか。戦国時代になると、敵方でありながら切腹を許す行為が美談として残されることもあったようです。
戦国時代には、窮地に立たされた城主が自ら切腹することで家臣を救ったエピソードも残されています。よく知られているのは、備中高松城主「清水宗治」(しみずむねはる)でしょう。
清水宗治は、毛利家に仕えた武士(武将)で、中国地方の大名「毛利元就」(もうりもとなり)の三男「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)からとても信頼されていました。
1582年(天正10年)4月、織田信長の家臣「羽柴秀吉」(はしばひでよし)と宇喜多勢は、織田信長の野望であった天下統一を実現すべく、中国攻めを行ないました。
このとき、清水宗治は羽柴・宇喜多勢への対抗策として籠城(ろうじょう)を選びます。備中高松城は難攻不落と言われており、籠城が一番の策と考えたのでしょう。「降伏すれば備中一国を与える」と羽柴勢が交渉を持ち掛けるものの、断って籠城を続行。そのため、黒田官兵衛(くろだかんべえ)の策もあり備中高松城は水攻めと兵糧攻めにされました。
じわりじわりと高松城が攻められる中、日本中を揺るがす一大事が起こります。天下統一を目前にした6月2日、本能寺の変により織田信長が没したのです。報せを聞いた羽柴秀吉は、全国へ訃報が伝わる前にいち早く明智光秀を討つため、京都へ向かうことに。このとき、秘密裡に城主である清水宗治の首を条件にした和平交渉を進めます。
そして6月4日、清水宗治は水攻めによってできあがっていた城周りの池に船を浮かべ、「舞」を踊って辞世の句をよみ、潔く切腹。これにより高松城は陥落、家臣達の命は救われました。この切腹は羽柴秀吉側が勧めたことで自発的ではなかったものの、切腹にいたる過程にかかわりなく、一国の主や城主の首を差し出すことで家臣達を許すというのはこの時代にはよくあることだったようです。
江戸時代になると士農工商と身分が定められ、日本刀の所持が許された武士の死罪については切腹がスタンダードになっていきます。切腹は自ら選んだ名誉ある死でしたが、次第に切腹によって武士としての面目を保つ、名誉を挽回するという意味合いも強くなっていきました。
また、主のあとを追って切腹する「殉死」(じゅんし)が増えたのも江戸時代だったようです。史料では通常「追腹」(おいばら)と表現されています。
江戸時代初期に殉死が増えた理由について、一説には死んだ主との関係がただの主従関係にあらず、男色関係にあったため後追いしたのではと考えられているようです。江戸時代になり切腹する者が増えたことで、罪人の処刑についても斬首ではなく、切腹を命じるようになっていきました。
庶民の死刑としては磔(はりつけ)や火刑、死罪(首を斬られたのち、試し斬りにされる)、下手人(首を斬られたのち、試し斬りにされない)などがありましたが、武士は原則、切腹とされていたのです。
ただし、幕末の動乱の最中には牢内で斬首されるなど、例外も多かったとか。また、罪の重い武士について、切腹で亡くなったのち刀の試し斬りにされるというケースもあったようです。
18世紀初頭、46人の切腹を命じられた事件が起こりました。のちに「仮名手本忠臣蔵」という浄瑠璃のテーマにもなった、「赤穂事件」(あこうじけん)のことです。
ことの発端は、江戸城の松の廊下で赤穂藩藩主の「浅野内匠頭」(あさのたくみのかみ)が「吉良上野介」(きらこうずけのすけ)に斬り付け、切腹に処せられたことでした。
斬り付けた理由は明らかになっていませんが、殿中で刃傷に及んだことに激怒した将軍が浅野内匠頭に切腹を命じ、播州赤穂浅野家には改易(武士身分の剥奪と屋敷などを没収、切腹より軽い罰)と、赤穂城を幕府に明け渡すよう伝えます。喧嘩両成敗のため吉良上野介にも切腹を命じたのかと思いきや、斬り付けられた吉良上野介は日本刀を抜かず逃げ腰だったためか、おとがめはありませんでした。
浅野家家臣達は理由も聞かずに主のみ処され、吉良上野介におとがめがなかったことに反発。切腹と赤穂藩のお取り潰しが決まり反発する者が多い中で、浅野内匠頭の弟・浅野大学を擁立して浅野家再興が叶うことを願い、いったんは赤穂城を明け渡して幕府の指示に従います。
しかし、浅野大学は昼夜とも外出の許されない閉門に科せられたうえ、広島藩の浅野家本家に引き取られることが決まり浅野家再興の道が絶たれると、筆頭家老の大石内蔵助は旧浅野家家臣達との集まりで「敵討ち」を表明。1702年(元禄15年)、大石内蔵助含む浅野家家臣の47名が吉良邸に討ち入り、吉良上野介を討ちとりました。
討ち入りのあと、1名はどこかへ消え、残った46名が「主人の仇を報じ候」と幕府に吉良邸討ち入りの報告をして、いったん四大名家に分かれてお預けになります。討ち入りの処罰としては斬首が言い渡されてもおかしくはありませんが、幕府は赤穂浪士達に切腹を命じたのです。
そして赤穂浪士の切腹と同日、吉良家を継いだ吉良義周を処するよう命じ、吉良家は断絶。赤穂浪士達の実力行使により、事実上、幕府が松の廊下の刃傷事件について考えを改めたのです。
幕末の動乱から明治の幕開けとともに武士という身分がなくなり、官吏などが持つ武器の主流は刀から鉄砲へと変わっていきました。明治時代以降も割腹する者はいましたが、衣装や介錯人など切腹の作法とは異なり、意味合いも「世間への抗議」などで名誉ある死という印象ではありません。
現代では、ハラキリとは不祥事の責任を取っての辞職、あるいはリストラという意味合いもあります。職を退くことで組織を守り、せめてもの汚名をはらすといった側面は、戦国から江戸時代にかけての切腹、武士としての名誉挽回という意味合いが通じているようです。