日本刀にまつわる行事のひとつに、箱根神社境内にある武道場で行なわれる「居合道全国選抜八段戦箱根大会」があります。居合道で「八段」になるには、長い年月と居合道の確かな腕が必要になりますので、「居合道全国選抜八段戦箱根大会」は居合道の熟練者が集まる厳しい大会です。
「居合道全国選抜八段戦箱根大会」の由来は、鎌倉時代に生きた曽我兄弟が関係しています。そんな曽我兄弟の話を中心に、箱根神社境内にある曽我神社や傘焼の儀についてご紹介。「居合道全国選抜八段戦箱根大会」が生まれることになった曽我兄弟の物語をご覧下さい。
箱根神社の境内にある、武道場。こちらでは居合道において最高峰とも言われる「居合道全国選抜八段戦箱根大会」が毎年5月28日に開催されています。
この日は、武道場と同じく箱根神社境内にある曽我神社の例祭が行なわれる日であり、居合道八段から九段の剣士が全国より箱根に集まって演武を奉納。箱根大神(はこねのおおかみ)と曽我兄弟二柱神の御神前で鍛錬の賜物を披露します。
箱根神社の境内にある看板では、居合道全国選抜八段戦箱根大会について次のように書かれています。
曽我神社の御祭神である曽我十郎祐成命・五郎時致命の兄弟二柱神は、鎌倉時代の建久四年(1193)5月28日、富士の裾野で見事大願成就を成し遂げられました。曽我神社はその佳日が例祭日となっています。
本大会は、御祭神の大願成就より800年後(平成五年)に斎行された曽我兄弟800年大祭を奉祝記念して開催されてより、『武士の鑑』と仰がれた曽我兄弟の御実績と御遺徳を顕彰して毎年盛大に行なわれています。
(記載内容より一部を抜粋)
この説明にあるように、武士の鑑と後世に語り継がれる曽我兄弟とは、いったい何を成し遂げた人物なのでしょう。
曽我神社の御祭神である曽我十郎祐成命と曽我五郎時致命は、文芸作品などで「曽我物語」として知られる兄弟のことです。
1176年(安元2年)、兄弟が5歳と3歳のときに同族間で所領をめぐる争いが起こり、父親が工藤祐経(くどうすけつね)に討たれてしまいました。2人の母親は子供達を守るため、曽我祐信(そがすけのぶ)と再婚して曽我姓を名乗るようになります。
兄は元服したのちに曽我家の家督を継ぐことになり、弟は箱根権現(はこねごんげん:箱根神社の古名)別当(べっとう:長官)に預けられて、実父の菩提を弔うべく修行に専念することになりました。
ただし、弟は修行の傍らで、杉の木を相手に密かに武術に励んでいたとされています。この杉の木はのちにご神木として「兄弟杉」と名付けられ、「剣難除けの杉守」として信仰されました。現在では根株のみとなって、その名残を伝えています。
曽我兄弟の実父が亡くなってから時が経ち、1187年(文治3年)、実父の仇である工藤祐経が、時の将軍・源頼朝に付き添って箱根権現へ参拝しているのを弟が目撃してしまいます。
ただし仇を討つことは叶わず、弟は工藤祐経から「赤木柄の短刀」(あかぎつかのたんとう:箱根神社所蔵・国重要文化財)を授けられて諭されたと言います。その出来事のあと、弟は修行をやめて箱根山を降り、元服して兄とともに仇討ちを決意します。
そして1193年(建久4年)、兄弟はまず箱根権現別当へ弟の過去の非礼を詫びて、暇乞(いとまごい)をします。兄弟は、念願の仇討ちによって箱根権現に迷惑がかからぬよう、別れを告げに行ったのでしょう。その際、別当から兄弟へ宝刀の微塵丸(みじんまる)と薄緑丸(うすみどりまる)を授けたそうです。
箱根権現をあとにした兄弟は、源頼朝に付き従って富士に滞在していた工藤祐経の隙を狙い続け、5月28日の夜、館を奇襲して仇討ちを成し遂げました。とどめを刺したのは、かつて弟が工藤祐経から与えられていた赤木柄の短刀だったとされています。
曽我兄弟は工藤祐経を討ったあと、そのまま源頼朝の館まで奇襲しますが、このとき兄は討死してしまいます。弟は捕えられて翌日に斬首となり、仇討の一部始終は幕を閉じました。このとき、兄は22歳、弟は20歳だったそうです。
斬首となる前に、弟は仇討までの経緯を述べており、これを知った源頼朝は兄弟の親を想う気持ちに感嘆しました。残念ながら弟は斬首となりましたが、義父・曽我祐信に領地の年貢を免じて兄弟の菩提を弔わせたと言います。
のちの世で、曽我兄弟の仇討ちは赤穂浪士の主君仇討ちとともに「その忠節は武士の鑑である」と神社に祀られ、人々に語り継がれています。
曽我兄弟を題材にした能も残されており、「調伏曽我」(ちょうふくそが)ではまだ稚児だった弟が工藤祐経と遭遇するも仇討ちを果たせず決意新たにすること、「元服曽我」では兄が箱根権現別当を訪ねて仇討のために弟の元服を願い出て、許しを得たことで元服させて兄弟で仇討を誓い合う内容となっており、それぞれ箱根神社が舞台となったお話です。
箱根神社の境内にある曽我神社は、曽我兄弟の霊を慰めるために「勝名荒神祠」(しょうみょうこうじんし)として祀られたのが始まりです。
1647年(正保4年)、小田原城主・稲葉美濃守正則が石造の本殿を造営し、平成になって社殿を改修しています。曽我神社の例祭は曽我兄弟が仇討という本願を果たした5月28日に開催されており、居合道全国選抜八段戦箱根大会もこの日に行なわれます。
朝から選抜選手9名による予選の部が始まり、全国から集まった剣士達の奉納演技へと続き、決勝へと移ります。
昼近くになるといったん武道場を出て曽我神社例祭の斎行となり、祝詞奏上から神楽舞、「傘焼の儀」、宝刀を拝受した剣士による居合が奉納され、それぞれに玉串拝礼を納めて再び道場へと戻ります。
このとき行なわれる傘焼の儀とは、曽我兄弟にちなんだ神事です。工藤祐経の館へ討ち入る際、大嵐の中で傘に火を点けて明かりとした故事に由来しています。
居合道は抜刀の一瞬で勝負が決まるとも言われ、試合ではあらかじめ定められた形を披露していきます。そこに相手がいると仮定して剣士ひとりが日本刀を操る居合道では、単純にキレのある動きが重要視されるわけではなく、修行の深さや礼儀、技の正確さ、心構えなどを総合的に見て判定されます。
そのため十分かつ正確に日本刀を操れるだけの肉体と、何事にも動じず礼節を重んじる武士道精神が必要とされ、居合道の修行は特に精神鍛錬の面が大きいとも言えそうです。
己を鍛え、大願を成就させた曽我兄弟は、居合道と通ずるところがあるのでしょう。