『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎』などで知られる中村彰彦(なかむらあきひこ)。その活動初期から、明治新政府の元で賊軍となった尊皇佐幕派の会津藩にこだわり続けます。歴史の敗者を発掘しようとする取り組みは、戦前では子母澤寛、戦後では山本周五郎、その山本周五郎の弟子・早乙女貢がいます。中村彰彦は先行して会津藩を書き続けた早乙女貢を継承しています。
中村彰彦は東北大学文学部在学中、本名・加藤保栄名義の短編「風船ガムの海」で第34回文學界新人賞にて佳作入選します(1972年)。大学卒業後、文藝春秋社に入社し、編集者として勤務。読み切り小説中心の『オール讀物』、連載小説中心の『別冊文藝春秋』などの編集を担当しました。
編集者生活の傍ら、中村彰彦名義で、『決断!新選組』(のち『新選組全史』改題)、『激闘!新選組』、時代小説集『明治新選組』など、主に新選組に関する著作を発表します。
『明治新選組』の表題作は、新選組隊士の生き残り・相馬主計(そうまかずえ)を書いた短編「待っていろ、利三郎」(1987年『小説宝石』掲載)の改題です。同短編は第10回エンタテインメント小説大賞を受賞しました(1987年)。
相馬主計は新選組局長・近藤勇の捕縛の際、新撰組隊士・野村利三郎と共に同行。釈放後に土方歳三の死後、新選組最後の隊長となった人物です。
中村彰彦は、新選組への関心は新選組を庇護した会津松平家に向かわせたと語ります。そして、長編『鬼官兵衛烈風録』(1989年『別冊歴史読本』掲載)を発表します。会津藩藩士で戊辰戦争では鬼佐川・鬼官兵衛と敵に恐れられた家老・佐川官兵衛の生涯を記しました。
その2年後、会津藩藩士の悲劇の史実を記した短編「五左衛門坂の旋風」(1991年『時代小説』掲載)を発表します。同作で中村は、第1回中山義秀文学賞を受賞しました(1993年)。時代小説集として単行本化された際には表題作にもなり、『五左衛門坂の敵討』と改題されています。同賞を受賞した44歳の年、中村彰彦は編集者を辞め、作家活動に専念することになります。
『五左衛門坂の敵討』の単行本には中村彰彦のこの時期のもうひとつの関心であった、宇喜多秀家(関ヶ原の戦いで敗軍となった西軍の副大将)についての短編も収録されました。
こうした賊軍・敗軍への関心は、戦前は子母澤寛、戦後は山本周五郎や山本周五郎の弟子で会津藩を特化して書いた早乙女貢が特に取り組みました。
短編「五左衛門坂の敵討」は、それまで知られることのなかった史実がもとにされました。
2名の会津藩藩士・松坂三内と平向熊吉が尊王攘夷派の集団・天誅組の動向を探るなかで、佐幕派の大和郡山藩の軍奉行・藪田極人(やぶたたかひと)に誤って殺されます。そこで、残された家族が敵討を実行しました。
中村彰彦は遺族から聞いたこの史実を大いに脚色しました。刀商に扮した松坂三内の叔父で養子に出た原掟之進、松坂三内の息子・松坂鯛二らは敵討のため、藪田極人が暮らす五左衛門坂の武家屋敷に潜り込みます。
掟之進はそこでことばを切り、気をもたせてからいった。
「古刀では、大磨り上げの無銘ものを三振り。新刀の江戸ものでは水心子正秀、細川正義。西国ものでは鬼塚吉国、波平安定。奥州ものでは山城大掾国包や三善長道などですか。新刀はともかく古刀は値が張りますので、仕入れるのも売るのもなかなかでしてな」
三善長道とは、和泉守兼定――通称会津兼定とともに、会津のお国鍛冶の双璧をなす刀匠である。その名をあえて出したのは、極人が会津ということばを思い出してどのように反応するかを見るためであった。「五左衛門坂の敵討」より
短編「五左衛門坂の敵討」は、第1回中山義秀文学賞を受賞します。
中山義秀(なかやまぎしゅう)は第7回芥川龍之介賞受賞後、五味康祐・柴田錬三郎による剣豪ブームのなかでは『新剣豪伝』『新星 上泉伊勢守秀綱』『平手造酒』『塚原卜伝』など剣豪小説を書きます。
『戦国武将録』『戦国秘巻』『戦国史記 斎藤道三』『山中鹿ノ介』『戦国残党記』『戦国無双剣』などの戦国小説も残しました。織田信長に反旗を翻した戦国武将・松永久秀が壮絶な最期を遂げたとされるイメージは中山義秀の中編「松永弾正」からともされます。
中山義秀は戦前では鷲尾雨工が、戦後では早乙女貢が小説化した明智光秀の生涯を記した『咲庵』で野間文芸賞受賞と日本芸術院賞を受賞しています(1964年・1966年)。
中山義秀文学賞は、中山義秀記念文学館(福島県白河市)の開館を記念して創設されました(1993年)。第9回からは公開審査が行なわれ、他に類を見ない異色の文学賞です。
歴代選考委員にはこれまで、安西篤子、尾崎秀樹、早乙女貢、縄田一男、北原亞以子、津本陽、竹田真砂子、安部龍太郎、清原康正、朝井まかて他が務め、中村彰彦自身も選考委員を務めています。
中村彰彦による人知れぬ会津藩士の発掘はその後も続きます。
長編『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎』(2002~2004年『中央公論』連載)では会津藩藩士・秋月悌次郎(あきづきていじろう)の生涯を記しました。同作は第24回新田次郎文学賞を受賞します。
秋月悌次郎は会津藩の藩校・日新館に学んだのち、江戸に出て江戸幕府直轄の昌平坂学問所にも学び、秀才と呼ばれた人物です。
秋月悌次郎は、昌平坂学問所の書生寮・舎長の職を経て会津へ帰国。西国諸藩を視察したのち、藩主・松平容保が京都守護職就任の際にその側近となります。そして会津藩と薩摩藩との盟約を主導し、急進的な尊王攘夷派の長州藩を京から退去させることを実現させました(八月十八日の政変)。
急進的な尊王攘夷派を京から追放した会津藩には、孝明天皇から宸翰(しんかん:天皇の直筆の文書)と御製(ぎょせい:天皇の作った詩歌)が届きます。
中村彰彦はこの史実をもとに、松平容保の前で家老・横山主税が宸翰と御製とを読み上げ、秋月悌次郎が心して聞く場面を書きました。そして、短編「五左衛門坂の敵討」で書いた松坂三内と平向熊吉の話も盛り込みました。
「たやすからざる世に武士の忠誠の心を喜びてよめる
和らくも武き心も相生の松の落葉のあらず栄えん
武士と心あはしていはほも貫きてまし世々の思ひ出」
御製は二度ずつ読みあげられ、それもおわると主税はこの文面も高々と掲げて一同に示した。天皇はこちらには、万葉仮名を多用する草書体を用いていた。
第一首の歌意は、公武合体によって日本という国を栄えさせてゆきたいものだ、という希望の表明にほかならない。天皇はあえてこのような宸翰と御製を特に容保に与えることにより、言外にこう伝えたのであった。――松平容保こそは諸侯のうちもっとも忠誠なる者である、と。
悌次郎はこれまでの苦労が報われたように感じる一方で、
(松坂三内殿と平向熊吉にもこれを知らせてやりたかった)
と思わずにはいられなかった。『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎』
『落花は枝に還らずとも 会津藩士・秋月悌次郎』で中村彰彦は、第24回新田次郎文学賞を受賞します。ノンフィクションを主な対象とした同賞は新田次郎没年の2年後に第1回が受賞されました(1982年)。
新田次郎は、山岳小説『強力伝』で第34回直木三十五賞を受賞。『武田信玄』と一連の山岳小説に対して第8回吉川英治文学賞も受賞しています。
長野県諏訪市出身の新田次郎は、甲斐国(現在の山梨県)の武田家について多く記し、『武田三代』『武田勝頼』『大久保長安』などを残しています。
新田次郎文学賞の初期選考委員は、井上靖、戸川幸夫、水上勉、吉村昭、尾崎秀樹、山本健吉、城山三郎が務めました。選考委員の筆頭の井上靖は武田信玄に仕えた軍師・山本勘助を主人公にした『風林火山』で海音寺潮五郎や新田次郎以前に戦後の武田信玄ものの先鞭を付けた作家です。第1回新田次郎文学賞は沢木耕太郎が『一瞬の夏』で受賞しています。
中村彰彦はその後も幕末を中心に書き続け、会津藩の人々の発掘を続けます。
軍人の兄・山川浩と文人の弟・山川健次郎の兄弟を記した『逆風に生きる 山川家の兄弟』(1997~1999年『歴史と旅』連載)や、会津藩の5~7代藩主に仕え天明の大改革を実施した名家老・田中玄宰(たなかはるなか)を記した『花ならば花咲かん 会津藩家老田中玄宰』(2008~2010年『文蔵』連載)などがあります。
近年、中村彰彦はこれまでの功績から第4回歴史時代作家クラブ賞・実績功労賞を受賞しています(2015年)。
会津藩を書き続け、人知れぬ人物を発掘し続ける中村彰彦。そこには歴史の敗者を蘇らせようという強い意志があります。