『覇王の番人』『天魔ゆく空』で時代小説に挑んだミステリー作家・真保裕一(しんぽゆういち)。ミステリー小説と時代小説との両ジャンルの交点は、海外のミステリー小説の時代小説化のはじまりである捕物帳物の創始者・岡本綺堂に辿ることができます。明智光秀と細川政元を題材とした真保裕一の時代小説では、細川家を中心とした独自の戦国時代史観が見出せます。それは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と語られる戦国三英傑と称される歴史の流れとは別の見方です。
真保裕一は子供の頃、兄の影響で少年漫画を乱読します。
同時にポプラ社『少年探偵団』シリーズやあかね書房『少年少女世界推理文学全集』、辻真先(つじまさき:小説家でアニメーション脚本家)のミステリー小説にも親しみ、父親の本棚にあった司馬遼太郎も手に取ります。
アニメーションに夢中になった高校生時代を経てアニメ専門学校へ進学。卒業後はアニメーターの仕事に就きます。
小林よしのりや藤子不二雄Ⓐの漫画のアニメーション化の脚本の制作進行管理、演出と進むなかで、応募した少女漫画の原作賞に入選し、少女漫画の原作を手がけます。その後ひとりですべてを手がけたいという思いから小説家を志します。この間、ロシアの作家フョードル・ドストエフスキーや、イギリスのミステリー作家ディック・フランシスに大きな影響を受けました。
宮部みゆきが短編「我らが隣人の犯罪」で第26回オール讀物推理小説新人賞を受賞した年、真保裕一の投稿作は1次通過止まりとなります(1987年)。宮部みゆきの技量にも奮起させられ、改めて本格的に小説に取り組みます。
そして汚染食品の謎を追う食品Gメンを主人公にしたハードボイルド・ミステリー『連鎖』で第37回江戸川乱歩賞の受賞に至りました(1991年)。
受賞後、小説家に転身。以後、『ホワイトアウト』で第17回吉川英治文学新人賞(1995年)とこのミステリーがすごい!国内編第1位(1996年)を受賞。『奪取』で第10回山本周五郎賞と第50回日本推理作家協会賞・長編部門を受賞(1997年)。山岳ミステリーの短編集『灰色の北壁』で第25回新田次郎文学賞を受賞(2006年)し、アクション・サスペンス、ハードボイルド・ミステリー系の作家としてその名が知られていきます。
人気アニメーション映画シリーズの脚本(藤子・F・不二雄原作『ドラえもん のび太の新魔界大冒険7人の魔法使い』)も手がけるようになった頃、真保裕一は自身初の時代小説に挑みます。世間では家庭用ゲーム『戦国BASARA』(2005年~)の人気をきっかけに「歴女」なる言葉が使われるようになり始める時期にあたります。
真保裕一初の時代小説は、明智光秀を主人公にした『覇王の番人』(2007~2008年『週刊現代』連載)です。
江戸時代初期に記された太田牛一(おおたぎゅういち:織田信長・丹羽長秀・羽柴[豊臣]秀吉の家臣)による『信長公記(しんちょうこうき)』や儒学者・小瀬甫庵(おぜほあん)による『信長記』『太閤記』などの伝記で、織田信長・豊臣秀吉礼賛によって生み出された負のイメージの明智光秀像を覆すことを意識したと言います。
物語は、斎藤道三・朝倉義景・足利義昭(のちの室町幕府第15代将軍)から織田信長の家臣へ、細川藤考(のちの細川幽斎)との交流、浅井長政・朝倉義景軍から敗走した金ヶ崎の戦い、比叡山焼き討ち、武田勝頼軍に勝利した長篠の戦い、松永久秀を討ち取る信貴山城の戦い、荒木村重軍を攻め落とした有岡城の戦い、京都御馬揃え、甲州(武田)征伐、本能寺の変などの史実に沿って進行します。そして明智光秀=南光坊天海(徳川家康の側近)説を採り、表題の「覇王」に2重の意味を持たせました。
『覇王の番人』で本能寺の変の経緯は、足利義晴(室町幕府第12代将軍)の子という説もある細川藤考(のちの細川幽斎)の暗躍説を採用します。同説は安部龍太郎『関ヶ原御免状』にて大きく広まりました。
老僧の元を訪れた若き侍(物語の最後で細川幽斎の子・細川忠興と明かされる)が話を聞く回想形式も採用されます。こうした現在から過去を知る者への回想形式は歴史・時代小説では岡本綺堂『半七捕物帳』で効果的に導入され、近年では浅田次郎が『壬生義士伝』などで得意としています。
また忍びや盗賊の導入によって史実の空洞の補完もなされ、それは中里介山『大菩薩峠』や村上元三『佐々木小次郎』、司馬遼太郎『竜馬がゆく』などが先行しています。
『覇王の番人』では、歴史・時代小説の伝統的な形式がふんだんに用いられました。
真保裕一は『覇王の番人』のなかで大きく2つの創作を行ないました。明智光秀が忍びを束ねていたこと、織田信長が徳川家康を葬ろうとしていたことです。
そんな真保裕一版明智十兵衛光秀では、配下の忍び・小平太が暗躍します。織田信長の非情さを表す戦い・比叡山焼き討ちについては次のように記しました。
焼き討ちの首尾を見届けると、光秀は供回りと京へ上り、信長が宿所とする妙覚寺へ入った。
「見事な眺めであったぞ、十兵衛。比叡を焼く炎が夜通し京からも見えておったわい」
信長は機嫌良く肩を揺すりながら御座所に現れると、取次を介さずに光秀に相対した。
「聞いておるか。あの猿めは腰が引け、町衆らに成りすました坊主を取り逃がしおったそうな。しょうもないやつよ」
戯け者と称される秀吉だから、許されるやり方であった。なまじ慈悲の心を見せて町衆を逃そうものなら、信長の勘気を浴びる。秀吉は自らを貶めることで、罪のない者らを助け、憐れみの心を持つ主君であると、家臣に見せたのである。
それに引き替え、自分は何ができたか。忍びにすべてを託し、血の滴る川を見やるしかなかった。『覇王の番人』より
明智光秀=南光坊天海説は、須藤光暉『大僧正天海』(1916年)の記述や明智滝朗『光秀行状記』(1966年)などの研究書で広まります。時代小説では、早乙女貢が『明智光秀』(1961年)で採用。隆慶一郎『吉原御免状』(1986年)でも導入されています。
この間、史実を重んじた中山義秀『咲庵』(1964年)や、本能寺の変・イエズス会宣教師黒幕説を唱えた八切止夫『信長殺し、光秀ではない』(1967年) など、様々な明智光秀像が描かれています。
平成に入ると明智光秀公顕彰会も発足されます(1989年)。
同会は明智光秀の菩提寺・西教寺(滋賀県大津市坂本)が中心となっています。発足の前年、同会の副会長となる中島道子による『熈子 明智光秀の妻』(1988年)も出版されています。
近年では、日本史学者・藤田達生『本能寺の変の群像 中世と近世の相剋』(2001年)で本能寺の変・足利義昭黒幕説や、明智滝朗の孫・明智憲三郎『本能寺の変 四二七年目の真実』(2009年)で本能寺の変・徳川家康黒幕説も唱えられるなど、明智光秀像についてはいまだに新しい読み解きがなされています。
『覇王の番人』で得た成果は次作で独自性を生み出すことになります。
真保裕一は大作映画との共同作業(外交官・黒田康作シリーズ)に取り組む同時期、再び時代小説に挑みます。応仁の乱以後、戦国時代以前という描かれることの少ない時期と人物に光をあてました。
修験道に凝った奇人、半将軍とも呼ばれる守護大名・細川政元(細川氏第12代当主)を主人公とする『天魔ゆく空』(2010~2011年『小説現代』連載)です。
父は応仁の乱で舅の山名宗全と争い勝利した細川勝元(室町幕府管領)、姉は応仁の乱で細川勝元に付いた守護大名・赤松政則の側室となる洞勝院。そんな細川政元は、12歳の足利義遐(あしかがよしとお:のち義高-義澄)を室町幕府第11代将軍として擁し(明応の政変)、権力を手に入れます。けれども自身の家督争いのなかで家臣に暗殺され(永正の錯乱)、その生涯を閉じました。
同作では、応仁の乱の要因のひとつを作った日野富子(室町幕府第8代将軍・足利義政の正室で第9代将軍となる足利義尚の母)の存在も大きく描きます。日野富子は、夫・足利義政の弟・足利義視の将軍就任約束後に生まれた実子の足利義尚へ将軍の乗り換えを図り、足利義視-細川勝元派と足利義尚-山名宗全派とに分断するきっかけを作りました。
応仁の乱から11年後、足利義尚が病死すると、足利義視と日野良子(日野富子の妹)との子・足利義材(あしかがよしき:義尹-義稙)が第10代将軍になります。けれども日野富子は対立した第10代将軍を排そうとし、その際、細川政元と手を組みます。こうして2人にとって傀儡となる足利義遐(義高-義澄)を室町幕府第11代将軍として擁するに至りました(明応の政変)。
真保裕一は資料の多くないこの時代を描くうえで、細川政元を父・細川勝元の正室で宿敵・山名宗全の養女だった波瑠(春林寺)との間に生まれたのではなく、母のもとに出入りしていた能役者との間にできた子としました。
足利義澄を裏で操る細川政元の存在を周囲に語らせる手法も採り、仮面を着けた能楽師のような存在としました。目次も序・破・急としています。
細川政元は織田信長以前に比叡山焼き討ちを行なっています。
その生涯を真保裕一は、織田信長同様あるいはそれ以上の存在として見出そうとしたと明かしています。細川政元は織田信長の70年前を生き、『覇王の番人』で暗躍する細川藤考(幽斉)の本家にあたり、細川藤考(幽斎)の祖父の代と同時代です。
表題の「天魔」とは、織田信長と同時代の日本にやってきたイエズス会宣教師ルイス・フロイスの手紙のなかで、武田信玄と織田信長との手紙に関する記述「第六天魔王」に基づいています。第六天魔王とは人間が住む欲界を支配する仏教の大敵の存在です。
細川政元が足利義遐(義高-義澄)を室町幕府第11代将軍として擁したのち(明応の政変)、京から追い出した足利義材(義尹-義稙:第10代将軍)が比叡山延暦寺を味方に付けて攻めてきます。このとき細川政元は比叡山焼き討ちを行ないました。
真保裕一は織田信長との共通性を見出す大きな要素とした細川政元による比叡山焼き討ちを、次のように記しました。
根来寺も延暦寺も高野山も興福寺も、今や大寺院は僧兵を集めて驕り、将軍と武家を軽んじていた。政元のみならず、日野富子や伊勢貞親が、蓮如の率いる本願寺に手を貸してきたのも、すべては大寺院の力を今以上にしてはならぬ、との思いがあるためであった。
「そもそも寺社は、寄進された米を、慈悲の心から貧しき者らに分け与えてきた。その実りがもたらされたなら、人々は借りた米よりわずかでも多くを寺社に返そうと努めてきた。それが礼節というものであるからじゃ。その見返りを、寺社は当然と驕るようになり、ついには慈悲を忘れて金貸しに精を出す始末よ」
(中略)
「よいか。皆にも伝えよ。我らは鬼退治に出かけるだけぞ。騙し討ちもせぬ。公方様より征伐の触れをいただき、山法師にもそれを伝えてやる。今すぐ兵を集めよ」『天魔ゆく空』
戦国時代の端緒は応仁の乱(1467~1478年)ではなく、将軍を家臣が追い出した=足利義材(義尹-義稙:第10代将軍)を細川政元が追い出した明応の政変(1493年)からと考える学説もあります。
真保裕一第1弾の時代小説『覇王の番人』では明智光秀の生涯を通じて、暗躍者の細川藤考(幽斎)を描いたとも言えます。続く第2弾の時代小説『天魔ゆく空』では、その細川藤考(幽斎)の祖先にあたる細川政元を取り上げました。
ここに細川家を通じて戦国時代をとらえようとする真保裕一の歴史観も見出せます。
それは織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と語られる戦国三英傑と称される歴史の流れとは別の見方です。真保裕一は『天魔ゆく空』で「支える者あってこその政元の才であったのだ、と。」と記し、自身の歴史観を披露しています。
東日本大震災が起こった年、真保裕一は3作目の時代小説を執筆します(2011年)。
大震災を題材にした『動乱始末』(2011~2012年『小説すばる』連載。単行本時『猫背の虎 動乱始末』改題。文庫化の際『猫背の虎 大江戸動乱始末』)です。
江戸時代後期、安政の大地震が起こった江戸を舞台に南町奉行所の新米同心・大田虎之助(おおたとらのすけ)の活躍が描かれました。急逝した仏の大龍と呼ばれた父と比較され、高身長からくる猫背の龍と呼ばれるような主人公です。
大田虎之助は大地震によって被害のあった本所深川の臨時市中見廻り役を命じられ、地震後の混乱のなかで起こる様々な事件の解決に取り組みます。
『猫背の虎 動乱始末』で真保裕一は、宮部みゆきの時代小説の大きな特徴である本所深川を舞台にした捕物帳物に挑みました。捕物帳は創始者・岡本綺堂からの伝統の系譜です。
ミステリー小説と時代小説とを手がける真保裕一。その時代小説では、明智光秀の負のイメージを覆すことが意識され、細川政元と織田信長とが重ね合わされました。
そこには織田信長・豊臣秀吉・徳川家康と語られる歴史の流れへの対案となる、独自の戦国時代史観が隠れています。