皇族と浮世絵

天皇家と浮世絵
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天皇家と浮世絵 天皇家と浮世絵
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「浮世絵」と聞くと、武将や合戦、役者や女性などを題材とした作品を思い浮かべる方が多いかもしれません。なぜなら、浮世絵は「憂き世」、すなわち風俗を描いた絵画であり、そうした世俗と一線を画している天皇家(皇族)は、題材として親和性があるとは言い難いとも思えるからです。
もっとも、浮世絵のなかには、天皇家(皇族)を題材としている作品が一定数存在していることも、また事実。それらは、市井において天皇家(皇族)がどのように見られていたのかを映し出す鏡のような存在であるとも言えるのです。ここでは、天皇家(皇族)を題材とした浮世絵をご紹介します。

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皇族 浮世絵
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日本建国期

日本最古の歴史書「古事記」や、奈良時代に著された歴史書「日本書紀」には、「神武天皇」(じんむてんのう)が日向から東征し、瀬戸内海を通って難波から上陸。吉野経由で大和に攻め入って平定したのち、「橿原宮」(かしはらのみや:現在の奈良県橿原市)で初代天皇に即位したという旨の記述があります。

こうして発足した大和朝廷によって、日本という国家の輪郭が描かれたのです。これらは神話に属する話ですが、いわゆる肖像画ではなく、物語の「挿絵」的な要素のある浮世絵とは親和性が高く、神武天皇の東征については、様々な浮世絵師によって描かれてきました。

神武天皇によって樹立された大和朝廷ですが、全国統一には至っていません。大和朝廷による全国統一事業を推し進めていた12代「景行天皇」(けいこうてんのう)の皇子「日本武尊」(やまとたけるのみこと)は武勇に優れ、西方の「熊襲」(くまそ)征伐を成し遂げたのちには、東方の「蝦夷」(えぞ)平定に赴くなど、大和朝廷による全国統一事業の象徴でした。

志半ばで伊勢・能煩野(のぼの)でこの世を去り、白鳥になって飛び去ったとされる日本武尊は、14代「仲哀天皇」(ちゅうあいてんのう)の父であるとされ、「日本略史図 日本武尊」において、女装して「川上梟帥」(かわかみのたける/くまそたける)を討ち取る様子が描写されるなど、その波乱万丈な生涯は、浮世絵の題材とされています。

大和朝廷による勢力を拡大させたと言われているのが、21代「雄略天皇」(ゆうりゃくてんのう)です。

畿内を中心としていた大和朝廷にとって、東国はその支配力が及んでいると言えない地域でした。しかし、大和朝廷の執政官制度である「大臣」(おおおみ)、「大連」(おおむらじ)を制定した雄略天皇の治世に至ると、東国も大和朝廷の統治下に入ったと考えられています。「大日本史略図会 雄略天皇」には、猪を射止め、蹴り殺す様子が描写されており、雄略天皇は、精力的な人物と伝えられているのです。

1968年(昭和43年)に、埼玉県行田市の「稲荷山古墳」(いなりやまこふん)から出土した鉄剣には、「獲加多支鹵大王」(わかたけるのおおきみ)の文字が金で象嵌(ぞうがん:地の素材を彫り、そこに他の材料をはめ込む技法)されています。この文字が示す人物こそ、雄略天皇だと推察されるのです。

古墳はその土地における有力者の墓。そこに雄略天皇を示す人物の文字が刻まれた鉄剣が埋葬されていることは、少なくともこの時点において、大和朝廷の影響力が東国に及んでいたことが証明されたと言えるのです。

古代

大和朝廷による全国統一事業によって、その影響力が全土に及ぶようになったあと、新たな政治的枠組みが作り出されました。それが、天皇を中心とした中央集権国家体制です。

その基礎を築いたのが「聖徳太子」(厩戸皇子:うまやどのおうじ)。「推古天皇」(すいこてんのう)の「摂政」(せっしょう)として、内政や外交に尽力しました。外交面で「遣隋使」を派遣して大陸文化の吸収に努めた一方で、内政では「冠位十二階」や「十七条憲法」を制定。これらの施策は、古代における国家体制の礎となったのです。

聖徳太子(厩戸皇子)については、政治家としての手腕だけでなく、武勇も知られていました。それを示すのが「武者絵」の名手として知られる「月岡芳年」(つきおかよしとし)の筆による浮世絵「厩戸皇子」です。

「大日本名将鑑」に収録されているこの浮世絵は、「丁未の乱」(ていびのらん)における聖徳太子(厩戸皇子)を描写している作品。政治的に不安定な時代における新しいリーダー・聖徳太子(厩戸皇子)が、文武両道であったと伝えられていたことを窺わせる1枚です。

中世から近世

天皇を中心とした中央集権国家体制が確立されると、日本の政治は天皇家を中心とした朝廷によって行なわれていきました。もっとも、平安時代になると、天皇の外戚関係となった藤原氏が摂政や関白などの要職を独占し、政権運営を行なっていきます(摂関政治)。

平安時代後期には「保元の乱・平治の乱」を経て、「平清盛」を中心とする平家が躍進。1167年(仁安2年)に平清盛が「太政大臣」となったことで、平家政権を樹立し、武家が政権を握ります。

そののち、「源頼朝」が鎌倉幕府を開き、本格的に武家による政権運営が開始されました。途中、天皇家(皇族)が政権を握った期間もありましたが、江戸時代が終わるまで、武士が日本における支配階級となったのです。

そのため、平安時代から江戸時代にかけて天皇家(皇族)が表舞台に立つ機会は、あまり多くはありませんでした。この時代において、天皇家(皇族)が表舞台に出てくるのは、大きな時代の変革を迎えようとしているとき。「小学日本略史 後醍醐天皇 名和長重」には、鎌倉幕府に対して2度の反乱を起こしたものの、失敗して「隠岐」(現在の島根県隠岐諸島)への流刑となった後醍醐天皇が、伯耆国(現在の鳥取県西部)の武将「名和長重」に背負われて隠岐から脱出する際の様子が描写されています。

そののち、後醍醐天皇は、鎌倉幕府打倒の中心となり、建武の新政において一旦は天皇親政を実現しました。

近代

明治維新によって、徳川家を中心とした武士による統治が終焉を迎えると、国の支配権は「明治天皇」へと移ります。

1889年(明治22年)に発布された「大日本帝国憲法」では、天皇を「元首」とし、天皇が国の統治権を総攬(そうらん:統合して一手に掌握すること)する旨が規定されました。すなわち、日本は広範な大権を有する天皇によって統治される国家であることを対外的にも宣言されたのです。

天皇が「大権」を有する根拠は、「万世一系」(ばんせいいっけい)であること。建国されたときから絶えず続いてきた天皇の血筋こそが、日本の「主権者」としての地位を揺るぎないものにしていたと考えられていたのです。

こうした思想は、浮世絵にも反映されました。明治時代に宮廷画を数多く描いた「楊洲周延」(ようしゅうちかのぶ)作の3枚続の浮世絵「本朝拝神貴皇鏡」(ほんちょうはいしんきこうかがみ)には、中央に明治天皇、右側の画面には初代天皇と伝えられる「神武天皇」が描かれています。

同じ作品の中で、初代天皇と今上天皇(きんじょうてんのう:その時代において在位している天皇)が、ひとつの作品に収められていることは、天皇が万世一系であることを象徴している構図であるとも言えるのです。

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