「浅野長政」(あさのながまさ)は、五奉行の筆頭として豊臣秀吉から重用された戦国武将です。武将と言えば、戦に優れた姿を思い浮かべがちですが、浅野長政は、戦よりも政治面で手腕を発揮していたことでも知られる豊臣政権に欠かせない人物でした。ここでは、主に浅野長政の「官」の側面に焦点をあてて、その生涯や功績を振り返ります。
1547年(天文16年)、浅野長政は尾張国(現在の愛知県西部)春日井郡北野の「安井重継」(やすいしげつぐ)の長男として生まれました。
出生当初は安井姓を名乗っていましたが、間もなく人生に転機が訪れます。織田信長に仕えていた「浅野長勝」(あさのながかつ)の子供に男子がいなかったため、浅野家に養子として迎えられることになったのです。
当時、このような養子縁組は極めて一般的でしたが、浅野長政の場合は少々事情が異なっていました。
本来、安井氏は織田領内の地侍(土着した下級武士)に過ぎず、浅野家への婿入りは、身分の違いを超えていたのです。
この養子縁組によって、浅野長政は歴史の表舞台に顔を出すきっかけをつかみます。
こうした幸運の裏には、浅野長政の母親が関係していました。浅野家の当主・浅野長勝は、浅野長政の母の兄だったのです。男子に恵まれなかった浅野長勝は、安井家の男子・浅野(安井)長政に白羽の矢を立てます。浅野長政は、浅野長勝の養女・ややの婿となり、当初浅野長吉を名乗っていました。
また、浅野長勝のもうひとりの養女の存在が浅野長政の運命を大きく変えることとなります。それが、豊臣秀吉の正室「北政所」(きたのまんどころ:ねね[おね])でした。
浅野家当主となっただけでなく、豊臣秀吉とも姻戚になったことで、その後の浅野長政の生涯は、大きく変化していくことになったのです。
浅野長政は、はじめ織田信長に仕えていましたが、織田信長の命令により「与力」(よりき:大名や有力な武士に従属する下級武士)として豊臣秀吉に仕えることになります。
豊臣秀吉は、姻戚関係にあたる浅野長政を重用するようになりました。
1573年(天正元年)、織田信長が浅井氏を攻めた際に活躍した浅野長政は、豊臣秀吉が織田信長から浅井氏の遺領を与えられたときに、豊臣秀吉から近江(おうみ:現在の滋賀県)で120石の知行を与えられています。
また、1582年(天正10年)には、同じく豊臣秀吉家臣の「杉原家次」と共に京都奉行に就任。杉原家次の病によって「前田玄以」と交代してからは、2人で京都の複雑な問題に対処しました。
当時の京都には、「禁裏御料」(天皇の領地)や「門跡領」(特定寺社が所有していた領地)にかんする問題が山積。これらの問題は、武力だけで解決できるものではなく、伝統や教養についての理解がなければ対処することが難しい問題でした。浅野長政は、これらの問題を大きなミスなく処理していたと言われています。
また浅野長政は同年、「山城国」(やましろのくに:現在の京都府)において行なわれた検地奉行も務めました。この検地を成功裏に終えたことが、のちの「太閤検地」へと繋がっていきます。こうした一連の流れを見ると、浅野長政が果たした功績は大きいと言えるのです。
さらに、後年にも見られるように、浅野長政はこの時期から東国の大名との折衝を担当します。その一環として、諸大名から没収した東国の金山・銀山の管理を任されていました。早い時期から豊臣秀吉の内政面を支えた浅野長政は、豊臣政権に欠かせない存在となっていったのです。
織田信長の生前から、豊臣秀吉の与力として頭角を現していた浅野長政ですが、豊臣秀吉が天下人となったことで、その地位も急上昇していきました。ここでは、豊臣秀吉の側近として活躍した浅野長政の姿を見ていきます。
浅野長政の政治的功績を示す代表的なものに、太閤検地の成功があります。それまでも、自国の領内を検地する大名は少なくなく、織田信長なども検地を実施していました。
しかし、これを全国規模で実施し、中央政権が全国の石高を把握するというのは前例がなく、未知なる試み。豊臣秀吉からこの挑戦を一任されたのが、浅野長政でした。
浅野長政は豊臣秀吉の下で検地を行ない、成功させた経験があります。その手腕を見込まれ、太閤検地の実施という大役を命じられた浅野長政は、豊臣秀吉の期待にこたえ、大事業を成功に導いたのです。
太閤検地によって、中央政権の石高の把握に大きく貢献したことは、同時に江戸時代の租税制度の礎ともなりました。そのため、太閤検地の意義は、現代でも高く評価されています。
1593年(文禄2年)、浅野長政は長年の活躍を認められ、甲斐(現在の山梨県)22万5,000石を与えられます。これにより浅野長政は国持大名となり、甲斐府中城主となりました。そして浅野長政は、豊臣秀吉と東国大名の取次役を任されるようになったのです。
甲斐や東北の支配体制を強化した浅野長政は、東国においては豊臣秀吉に次ぐ権力を手にしていました。特に、「奥州仕置」に関しては、中心的な役割を担い、「葛西・大崎一揆」や「九戸正実の乱」に対処しました。
しかし、浅野長政は必ずしも諸大名に歓迎されたという訳ではなく、東北の盟主「伊達政宗」が浅野長政に絶縁状を叩き付けたと言われています。
また、家督を譲る意味も含めて、息子の「浅野幸長」(あさのよしなが)に16万石を付与。浅野長政は、豊臣政権の中枢を担う大名であったため、基本的に都にいることが多かったとされています。そのため、領国である甲斐国内の統治は、主に浅野幸長が取り仕切っていました。
これにより、浅野家の実質的な後継者は、浅野幸長と定められます。浅野幸長は、浅野家を後世に残すことに大きく貢献しました。
浅野長政と豊臣秀吉の間の信頼関係を象徴する出来事に、「朝鮮出兵」における逸話があります。
豊臣秀吉は突然、総大将自ら海を渡って戦うと言い出し、周囲は騒然。動揺する徳川家康や「前田利家」を尻目に、浅野長政はこう言い放ちました。
「今の太閤(豊臣秀吉)には狐がついておられる。そうでなければ、これほど馬鹿なことを言い出すことはないでしょう」。
これを聞いた豊臣秀吉は激怒し、浅野長政の首に刀を向けたとも言われています。
このように緊迫した事態になってもなお冷静だった浅野長政は、豊臣秀吉に向かって、さらにこう告げたのです。
「私の首を何度はねても、天下にどれほどの影響があるでしょう。太閤(豊臣秀吉)が企図された朝鮮出兵によって、日本だけでなく朝鮮国民も困窮し嘆き悲しんでいます。ここで太閤(豊臣秀吉)までも渡海すれば、これ以上世が乱れることにも繋がりかねません。ですから、自ら渡海されることはおやめ下さい」。
浅野長政の天下人に対する「直言騒動」は、徳川家康や前田利家のとりなしによって、ことなきを得ます。もっとも、その効果はてきめんでした。豊臣秀吉は、これ以降自身が渡海するとは言わなくなったと言われています。
長年に亘って豊臣秀吉に仕え、天下人を知り尽くしていた浅野長政だからこそ、このように直言できたのかもしれません。
浅野長政は、「五大老」と呼ばれた豊臣秀吉配下の重鎮達とも良好な関係を築いていました。
特に五大老筆頭格の徳川家康とは共に囲碁をたしなむ関係であったと言われ、浅野長政の死後、徳川家康は囲碁を辞めたとまで伝えられているほどです。
もっとも、「石田三成」とは最後まで反りが合わなかったと言われています。不仲を象徴する出来事は、豊臣秀吉が「小田原攻め」を敢行した際にも残っています。
小田原に入る前、豊臣秀吉は徳川家康の居城である「駿府城」での宿泊を予定していました。しかし、石田三成が異議を唱えます。それは徳川家康が、敵である北条氏と内応して豊臣秀吉の暗殺を企図しているという内容でした。
それを聞いた浅野長政は、徳川家康がそのようなことを考えるはずがないと反論。2人の意見を聞いた豊臣秀吉が導き出した結論は、駿府城での宿泊でした。すなわち、浅野長政の言葉を受け入れたのです。
豊臣秀吉の側近官僚として、政治面で重用された2人ですが、その後も反目し合います。朝鮮出兵に際しては、軍監として朝鮮に渡っていた浅野長政は、同じく渡海していた石田三成と激しく対立。最後まで関係が改善されることはありませんでした。
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉がこの世を去ります。これが浅野長政の波乱に満ちた晩年の始まりでした。
天下人の政(まつりごと)を支える文官としての手腕を発揮した浅野長政でしたが、「関ヶ原の戦い」では徳川家康が率いる「東軍」に与します。豊臣秀吉恩顧の代表的な大名のひとりだった浅野長政は、徳川家康の近侍として江戸で最期を迎えました。
徳川家康の命令によって隠居していた浅野長政でしたが、関ヶ原の戦いが勃発した際には、石田三成を中心とした「西軍」ではなく、徳川家康率いる東軍に参戦。
浅野長政・浅野幸長親子は、関ヶ原の戦いで活躍をみせ、東軍の勝利に貢献しました。特に浅野幸長は、当時天下一とも称された砲術の腕前をいかんなく発揮したと伝えられています。他方、浅野長政も、「徳川秀忠」軍に従いました。
関ヶ原の戦いにおける武功を高く評価された浅野幸長は、徳川家康から紀伊(現在の和歌山県)37万6,000石を与えられ、紀伊和歌山藩主となります。その後の和歌山藩は、浅野幸長の弟「浅野長晟」(あさのながあきら)が継ぎましたが、浅野長晟の代で安芸広島藩へ転封。その後は、改易や断絶することなく明治の「廃藩置県」まで存続しました。
江戸幕府成立後の1605年(慶長10年)、浅野長政は江戸に移住。近侍として徳川家康に仕えました。前述のように、徳川家康と浅野長政は囲碁仲間。浅野長政が隠居する原因となった徳川家康暗殺未遂騒動などがあった一方で、個人的な関係は一貫して良好だったと言われています。
そして、浅野長政は1611年(慶長16年)、65歳でその生涯を終えました。浅野幸長は、父の死に際して盛大な葬儀を営んだことで、「孝心に厚く道徳を解した人物」として、儒教的道徳観が奨励された江戸時代では高く評価されたと言われています。