戦国時代に活躍した「長束正家」(なつかまさいえ)は、「豊臣秀吉」に重用された五奉行のひとりです。同時期に活躍した武将達が、武力、知略、統率力など、合戦で活かす能力を武器にして生きた中で、長束正家は「算術」の能力を武器にして立身出世を果たした武将でした。官僚タイプの長束正家は、戦国の風雲急を告げる時代にあって、合戦の能力に頼らなかった一風変わった武将なのかもしれません。
「長束正家」(なつかまさいえ)の出自については、よく分かっていません。
1562年(永禄5年)に、近江国(現在の滋賀県)、あるいは、尾張国(現在の愛知県西部)で生まれたとされています。
当初は、「織田信長」の重臣である「丹羽長秀」(にわながひで)に仕えました。のちに、丹羽長秀の息子である「丹羽長重」(にわながしげ)の補佐役を務めるようになります。
1585年(天正13年)、主君である丹羽長秀が亡くなりました。丹羽長重の代になったとき、「豊臣秀吉」は丹羽家を大幅な減封処分とします。加えて、財政上の不正を指摘しました。
さらに豊臣秀吉は、長束正家を含めた丹羽家の重臣らを引き抜こうとします。そこで長束正家は、丹羽家を踏みにじる豊臣秀吉に抵抗を試みました。
抵抗を示そうとする長束正家が使った武器は「帳簿」。長束正家は、丹羽家の財務管理を任されていた長束正家自身が書き記していた帳簿を見せて、不正経理が行なわれていない点を明確に豊臣秀吉に示しました。
丹羽家に恩義を感じている長束正家は、丹羽長秀が亡くなったあとに14歳で当主となった丹羽長重が身に覚えのない疑いをかけられたままでは、豊臣秀吉に引き抜かれて仕えることなどできなかったのです。
豊臣秀吉にとって、武力や勇猛さといった合戦で活用できる能力に長けた武将が多い中、長束正家のようなタイプの武将は特異な存在です。ひとりでも多く有能な人間を配下として味方にしておきたい豊臣秀吉が、稀有な能力に優れている長束正家を放っておく訳がありません。
不正がないと受けとめた豊臣秀吉は、丹羽家への不正の疑いを解き、長束正家を引き抜いて直参の家臣としました。
長束正家の担当は、豊臣家の直轄地の管理や太閤検地など財政管理。
正確で地道な作業が必要とされました。金庫番として豊臣家の財務一切を任された長束正家を、豊臣秀吉がいかに信頼していたか分かります。
1586年(天正14年)に島津家の討伐を目指した九州征伐や、1590年(天正18年)に北条家を討伐した「小田原の役」では、兵糧奉行として戦地への食糧の輸送を担当。特に小田原の役では、長束正家は20万石もの米を無事に送り届けました。さらに、戦地周辺の米3万石を買い占め、小田原城の兵糧攻めにも力を尽くします。
1590年(天正18年)に、「石田三成」が総大将を務めた「忍城の戦い」(おしじょうのたたかい)では、長束正家が副将となり勝利を収め、長束正家の家臣らが多く武功を立てます。弟の「長束直吉」(なつかなおよし)も武功を認められ、のちに豊臣秀吉直参の家臣に抜擢。家臣や兄弟を含め、長束正家が大活躍した合戦でした。
長束正家は、1592年(文禄元年)の「文禄の役」、1597年(慶長2年)の「慶長の役」と、2度に亘る朝鮮出兵の際も、肥前国(ひぜんのくに:現在の、壱岐と対馬を除く長崎県、佐賀県)の名護屋で兵糧奉行の任務を遂行しています。
敵の首級を取り武功を上げるといった派手さはないものの、長束正家は内政を堅実にこなし、戦時には確実に後方支援をやり遂げました。
豊臣秀吉に仕える期間が長くなるにつれて、徳川家とのつながりも深くなります。1590年(天正18年)、豊臣秀吉が諸大名から人質を確保しようとした折、「徳川家康」から人質として差し出された「徳川秀忠」(とくがわひでただ)を迎えたのは長束正家でした。徳川家臣の「本多忠勝」(ほんだただかつ)の妹を正室とし、徳川家と良好な関係を構築するために心身を捧げています。
功績を着実に積み上げた長束正家は、1595年(文禄4年)、近江国の水口城を与えられ、5万石の知行を得ました。五奉行の末席にも名を連ねることになり、豊臣家の重臣としての地位を確固たるものとします。さらに、2年後の1597年(慶長2年)には、12万石に加増となりました。
ところが、1598年(慶長3年)、病の床に数ヵ月のあいだ伏せていた豊臣秀吉が亡くなってしまったのです。豊臣家は「豊臣秀頼」(とよとみひでより)が継ぐことになり、彼を徳川家康や「前田利家」(まえだとしいえ)といった五大老や五奉行が補佐することになりました。
豊臣秀吉が亡くなったあと、朝鮮出兵から撤退した武将達が日本に帰還すると、考え方の違いから豊臣家臣達の間で派閥が形成され、対立が鮮明になってきます。
豊臣政権で主に内政を担った文治派と、軍務を担ってきた武断派の対立です。文治派には、石田三成、「小西行長」(こにしゆきなが)らがいました。
武断派には「加藤清正」(かとうきよまさ)、「福島正則」(ふくしままさのり)らがいます。
五奉行のうち、「増田長盛」(ましたながもり)と「前田玄以」(まえだげんい)は、表面上は石田三成と同じ文治派に属していましたが、実際には徳川家康に内通していました。
徳川家康と疎遠な関係ではなかった長束正家ですが、豊臣秀吉の死後、石田三成に急接近。そのために徳川家康との関係は悪化していきます。
のちに徳川家康と「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)との関係が悪化し、徳川家康が会津征伐を決めた際、長束正家は徳川家康に中止を嘆願しましたが、徳川家康は拒否しました。
結果として、会津征伐に向かう徳川家康の暗殺を長束正家が水口城で計画しているといううわさが広がってしまい、徳川家康は、水口城を素通りして東へと兵を進めます。これにより、徳川家康との関係は決裂しました。
1600年(慶長5年)、長束正家は文治派の石田三成らと共に、「毛利輝元」(もうりてるもと)を擁立して挙兵。「関ヶ原の戦い」に臨むことになりました。
前哨戦の「伏見城攻め」では、甲賀衆の家臣が、伏見城内の甲賀衆の寝返りを成功させます。家臣達の活躍で、城主の「鳥居元忠」(とりいもとただ)が自害し、落城に成功しました。続く「安濃津城の戦い」(あのつじょうのたたかい)でも攻略に成功。その後は水口城を弟の長束直吉に任せ、長束正家は関ヶ原の戦いへと向かったのです。
関ヶ原の戦いは、短時間で勝敗が決した合戦でした。徳川方の東軍に内通していた「吉川広家」(きっかわひろいえ)に長束正家の軍は妨害され、ろくに戦いに参加することさえできませんでした。
関ヶ原の戦いの折、長束正家の人柄を偲ばせる逸話があります。長束正家が水口城へ撤退する途中、同じ西軍の「島津義弘」(しまづよしひろ)が、戦場から逃れてきた姿に遭遇。長束正家は、周辺の地理に疎い島津軍のために、自分の家臣を道案内として手配しました。機転が利く彼の性格がよく分かる逸話です。
水口城へと撤退した長束正家は、重臣を失いながらも、家臣の助力を得て入城しました。
ところが、敵将の「亀井茲矩」(かめいこれのり)と「池田長吉」(いけだながよし)が、本領を安堵するという嘘を使い城外へ誘い出すことに成功。そこで長束正家は、他の重臣6名と共に捕縛されてしまいます。
その後、長束正家とその家臣6名は、切腹となりました。39歳で最期を迎えた長束正家の首は京の三条橋にさらされ、彼の財産はすべて池田長吉に奪われます。居城だった水口城は、のちに廃城となりました。
長束正家にまつわる刀剣として、重要文化財となっている「岩切長束藤四郎」(いわきりながつかとうしろう)があります。
豊臣秀吉が死に際して長束正家に与えた短刀で、銘は「吉光」(よしみつ)です。吉光は、京の粟田口(あわたぐち)の地で刀匠として活躍した「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)の通称で、豊臣秀吉が「天下の3名工」と賞賛しました。
「岩切」の名称は、この短刀の持ち主が船旅で暴風に襲われた際、岩に短刀を突き立てて船が流されてしまうのを防いだ伝承に由来しています。
この短刀に「長束」と付くのは、長束正家の所持品だったことが由来です。そして、福島正則の手に渡ったのち、奥平家に伝わり、現在は東京国立博物館に所蔵されています。