戦国時代の英傑である「織田信長」、「豊臣秀吉」、「徳川家康」の3人すべてに仕えた武将は多くありません。しかし、3人に器量を認められ、重用された人物のひとりに「前田玄以」(まえだげんい)がいます。英傑らは、それぞれまったく異なる性格ですが、共通して人物の器量を見抜く眼力は、優れていたに違いありません。そんな前田玄以は、豊臣秀吉に仕えた五奉行として、「石田三成」らと共に名を連ねていたことが有名です。
ここでは、朝廷にも人脈を形成し、外交や内政で活躍した前田玄以についてご紹介します。
「前田玄以」(まえだげんい)は、1539年(天文8年)、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)で誕生しました。
織田信長が、尾張国(おわりのくに:現在の愛知県西部)の一大名から勢力を拡大していった頃から、家臣として前田玄以の名前が登場。
それ以前には、何らかの理由で仏門に入り、美濃国の僧侶だったと言われています。
比叡山で出家した伝承がありますが、禅僧だったとも言われ、明確なところは分かっていません。尾張国の小松寺の住職を務めていたことがあるとも伝わっています。
当初は、織田信長に仕えていたようです。史料には、1579年(天正7年)時点で、織田信長の嫡男である「織田信忠」(おだのぶただ)の家臣だったとの記録があり、織田信長が、前田玄以を嫡男の側近として付けました。
織田信忠は1575年(天正3年)、織田家の家督を織田信長から譲られています。
織田信長は、家督を譲っても実権は握り続けましたが、嫡男に尾張国や美濃国の統治は任せました。その補佐役として、前田玄以は抜擢されたようです。
前田玄以は、「村井貞勝」(むらいさだかつ)の娘を正室に迎え、1576年(天正4年)には、長男の「前田秀以」(まえだひでもち)が誕生しています。
村井貞勝は織田信長の重臣のひとりで、行政面で大きな役割を果たしました。1573年(天正元年)に、織田信長は京から「足利義昭」(あしかがよしあき)を追放したのち、村井貞勝を京都の市政を司る「京都所司代」(きょうとしょしだい)に任じています。
京都所司代は、京の治安を維持するための警備をはじめ、朝廷との交渉、寺社の統治、京での事務処理といった任務にあたりました。
キリスト教の宣教師「ルイス・フロイス」は、村井貞勝を「都の提督」と認めています。朝廷を掌握し、京の有力な寺社勢力と結び付き、強大な権力を手にしていたと考えられるのです。
村井貞勝と縁戚になるのは、前田玄以にとってこの上ない後ろ盾でした。権勢を引き継いだ前田玄以は、1583年(天正11年)に織田信長の次男である「織田信雄」(おだのぶかつ)に仕え、織田信雄から京都所司代に任命されます。
のちに豊臣秀吉が政権を握ったときも、前田玄以は引き続き京都所司代となりました。前田玄以が、京において高い政治能力を発揮していたのは想像に難くありません。
天下統一を掌中に入れようという織田信長でしたが、重臣である「明智光秀」の裏切りによって、野望を断たれてしまいます。1582年(天正10年)に起きた「本能寺の変」です。
京都の本能寺で織田信長が明智光秀に討たれた際、織田信忠や村井貞勝らと共に、前田玄以も京都にいました。織田信長を討った明智光秀は、二条城に向かい次に織田信忠を狙います。
織田信忠が自害したのち、村井貞勝もあとを追いましたが、前田玄以は二条城を抜け出すことに成功しました。
京都を脱出した前田玄以は、美濃国に向かいます。美濃国の岐阜城には、織田信忠の嫡男である「三法師」(さんほうし)がいました。前田玄以は、織田信忠から三法師を保護するように命じられていたのです。
前田玄以は岐阜城にたどり着き、三法師を無事に保護して、尾張国の清洲城へと移ることになりました。
1582年(天正10年)に、「山崎の戦い」で豊臣秀吉が明智光秀を討ったのち、豊臣秀吉の権勢が京都に及ぶようになります。
前田玄以は、1584年(天正12年)、豊臣秀吉の家臣となりました。
そして、豊臣秀吉に仕えてからも、前田玄以は引き続き京都所司代として活躍します。
1588年(天正16年)、豊臣秀吉が世間の人々に対して権威を示すための「聚楽第行幸」(じゅらくだいぎょうこう)の際にも、朝廷とのつなぎ役として能力を発揮しました。
豊臣秀吉は、朝廷を重視します。朝廷から関白に任じられ、さらに太政大臣に就任して、朝廷の最高位を独占しました。背景には、京や朝廷に通じた前田玄以の取り成しがあったと考えられます。
1595年(文禄4年)には、豊臣政権への功績が認められ、丹波国(たんばのくに:現在の京都府中央部と兵庫県東部)の5万石を領有し、丹波亀山城の城主となりました。
1598年(慶長3年)、豊臣秀吉が亡くなる直前に五奉行に任ぜられ、後事を託されます。石田三成をはじめとする五奉行のひとりとして、前田玄以は内政に手腕を発揮しました。
豊臣秀吉が亡くなったのち、豊臣政権下での主導権をめぐって、徳川家康と石田三成が火花を散らすことになります。
前田玄以は、何とか事態を沈静化するために奔走しました。しかし、1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」で両勢力は東軍と西軍に分かれ、武力衝突に至ります。
前田玄以は、石田三成の西軍に加担し、徳川家康の弾劾に署名しました。
ところが、同時に、石田三成の動向を徳川家康に知らせるなど、両者の間を立ち回ります。
決戦に際しては、「豊臣秀頼」(とよとみひでより)の後見人を申し出て大坂城にとどまり、病気を理由にしてどちらにも最後まで加勢をしませんでした。
中立を保った姿勢が徳川家康に評価され、前田玄以は、丹波亀山5万石の領有を継続して認められています。関ヶ原の戦いののち、前田玄以は丹波亀山藩5万石の初代藩主となりました。