日本刀の重要な一部である「鍔」(つば)。刃と刃を切り結んだとき、柄を握る手を守ることをはじめ、刀身と柄部分との重量のバランスを取ることなど、様々な役目があります。現代では、日本刀の一部であるに留まらず、鍔自体が独立した美術品として評価されているのです。
そして鍔には、戦での勝利や家の繁栄を願った武士の想いも込められました。鍔の図柄に焦点を当て、意匠に表された意味と、縁起について解説していきます。
「動物」の意匠に込められたのは、大自然に育まれ逞しく生きる動物達への畏敬の念と、その力にあやかりたいという願いです。
また、日本や中国の古典から題材を取った、縁起の良い図柄も数多く鍔に表されました。動物を表現した鍔には、どんな作品があり、どのような意味を持っているのでしょうか。
春4月頃、日本へ戻ってくるツバメと入れ替わるように、雁(がん/かり)の群れがシベリアへ向けて大空を旅立って行きます。
雁は、鴨(かも)よりも大きく、白鳥より小さい水鳥です。
そんな雁の、渡りという人智を超えた能力への驚きは、その習性の不思議さや、自然の摂理に対する畏敬の念と相まって人々の憧れとなり、雁をかたどった意匠として鍔を飾りました。
また、雁が飛ぶときは整然とした群れをなすことから、軍事における「絆」(きずな)を象徴する鳥として、武士が好んだとのことです。
兎が野原や草原を生き生きと駆け回る姿は、「飛躍」や「向上心」につながり、険しい山道や段差をものともせず、一気に跳ねて登る様子は「人生が跳ね上がる」を連想させます。
その走り方は、前へ進むことはあっても後ろへ退くことはないと考えられ、武士が持つべき武勇の心を象徴する図柄として用いられました。
また、兎には高い繁殖力があることから、子宝に恵まれ、子孫が繁栄するという縁起の良さからも好まれた意匠です。
猪は、走るときに直線的に突進し、向こう見ずで粗暴であるものの、この勇猛さは戦いには必要とされることがあります。
そのため、野を駆ける野猪の図柄は、勇猛果敢な様子が武士に喜ばれました。
勇ましい猪の図柄が多いなか、本鍔では花咲く樹木の下に猪と狩人を表し、のどかさを味わっているような、穏やかな図柄となっています。
すすき野に遊ぶ鶉(うずら)は、大和絵(平安時代に興った日本的な絵画のこと)の古典的な題材です。
室町時代に活躍した「土佐光信」(とさみつのぶ)や、江戸時代の「酒井抱一」(さかいほういつ)など、有名な絵師も描いています。
鶉を用いた意匠は、秋の情景を表す象徴として、すすきや菊の花など秋の植物と組み合わせて表現されました。
また、その鳴き声が「御吉兆」(ごきっちょう)と聞こえることから、戦に臨む武士から縁起物として好まれたと伝えられています。
貝は、古くから人々に親しまれ、食用や装飾品として様々に用いられてきました。
鮑(あわび)は肉厚の珍味、蛤(はまぐり)は食用でもあり、蜃気楼(しんきろう)を出現させるという伝説もあります。法螺貝(ほらがい)は軍陣には欠かせません。
また、古代には貨幣として使用され富貴(ふうき)を意味し、女性の装身具に使われた他、遊具の貝合わせや、漆に埋めて研ぎ出し美しい光沢に目を楽しませる螺鈿(らでん)など、生活のすべてにおいて宝物でした。
鍔に施された貝は、豊かさを象徴する意匠なのです。
「聖武天皇」(しょうむてんのう)の時代から信楽(現在の滋賀県甲賀市信楽町)に、蛙の背中に蛙が乗った「信楽蛙」(しがらきかえる)があり、「八相縁起」という縁起を表しています。
「八相」とは、
蛙の夢は「大吉夢」とされ、財運上昇や地位が飛躍的に上がることを暗示することから、鍔の意匠として尊ばれました。
「百獣の王」獅子と、「百花の王」牡丹が一緒に描かれているのはなぜでしょうか。
それは、獅子の命をも脅かす「獅子身中の虫」は、牡丹の花から滴り落ちる夜露に当たると死ぬと言われているからです。牡丹の下は、獅子にとって安心できる場所なのです。
転じて、武士にとっての「獅子身中の虫」である、味方でありながら害をなす者を防ぎたいとの思いがこの図柄には込められていると考えられます。
また獅子は、「文殊菩薩」(もんじゅぼさつ:知恵を司る仏様)の乗る霊獣であり、悪い気を食べてくれるため、獅子舞で人の頭を咬む動作は、悪い気を食べてもらうという意味があるのです。
「三光」とは、「月・日・星」(つき・ひ・ほし)を指します。「三光鳥」(さんこうちょう)は、そのさえずりが「月・日・星」と聞こえることから名付けられました。
一方、藤の花には「佳客」(かかく)という花言葉があり、好ましく、良い客人の意味があります。
いずれも風流を感じさせる縁起の良い意匠です。
客人側も、迎える側も、品格高くありたいとの願いが込められた、趣のある鍔となっています。
白鷺は、白い羽が美しい優雅な姿をしており、中国においては、蓮(はす)と同様に泥のなかにあっても泥にまみれない高潔な人格の例えとして好まれました。
芦(あし)と共に描かれることが多く、「鷺」と「芦」のどちらも中国では「路」(みち)と同じ発音になることから、人生の「路」を、夫婦一緒に清く平安に過ごすことができるという吉祥文様として、本鍔に表現されています。
龍は、雨を呼ぶ水神であるなど、多数の解釈がありますが、「不動明王」(ふどうみょうおう)の化身を意味することが多いです。
昇り龍は、「上求菩提」(じょうぐぼだい)と言い、真理と知恵が一体となって自己の人間性を向上させることであり、降り龍は、「下化衆生」(げけしゅうじょう)で、下に向かって生きとし生ける者を救済し、人のために尽くすことを意味。
どちらも人間としての理想を具現化した姿となっています。本鍔の龍は、荒波を乗り越え、理想を目指して高く飛躍していく、おめでたい図柄です。
古くから人と一緒に暮らしてきた馬は、周囲の状況を察知する能力が高く、その目は真後ろ以外の約350度を見渡すことができます。
さらに、右側左側別々に物事を認識することができ、夜の暗がりでも視界ははっきりしているのです。
このことから、先の見通しが分かると神聖視されました。
本鍔は、青鹿毛(あおかげ:ほとんど黒色で一部に褐色が入る毛色)に駁毛(ぶちげ:大きな白斑がある毛色)の馬と、月毛(つきげ:クリーム色や淡い黄白色の毛色)の馬の放牧図です。
「延喜式」(えんぎしき:平安時代の法令集)には、「雨を願うときは黒馬を、晴れを願うときは白馬を献納する」とあります。馬は神の使いであり、幸福をもたらす兆し(きざし)と考えられてきました。
菊や梅、藤、松など、植物を題材とした精緻な図柄も、武士は好んで鍔に用いています。厳しい環境にあっても、力強く枝葉を伸ばし、花を咲かせて実を結ぶ植物は、健康長寿や子孫繁栄の象徴でした。
図柄のひとつひとつを紐解けば、単なる装飾ではない奥深い意味と、武士の切なる願いが見えてきます。
「菊花舞う」とは、風に揺れ動く様子を表します。
中国で菊は仙人の住むところに咲く花であり、不老長寿、無病息災、若返りの象徴として、9月9日の重陽(ちょうよう)の節句には、主役に用いられる縁起の良い花です。
平安時代、宮中の女官達は、重陽の節句の前夜、菊の花に真綿を被せ、翌朝には夜露を含んだその真綿を顔に当てて、長寿と若返りを願いました。
また、菊は天皇家の紋でもあり、高い格式があります。
槲(柏)は、東北地方から北海道にかけて多く自生するブナ科の植物で、葉は餅や饅頭を包むのに使われます。
端午の節句の「かしわ餅」がそれです。
柏の葉は、秋に枯れても落ちることがなく、翌春に新芽が出るまで枝に付いたままであることから、「葉守の神」が宿る縁起の良い植物であるとされました。
さらに、古い葉が、新芽を守っているようにも見えるため、子孫繁栄の象徴になったとも伝えられています。
また、古代に宮中の警護を司った役所「衛府」(えふ)の異名が柏木で、これは武士を意味しており、鍔にふさわしい装飾として柏木の図柄が多く用いられました。
藤は、長寿で繁殖力の強い植物です。
「ふじ」の発音は「無事」につながると考えられ、しっかりとツルを巻き付けて育つことから、「幸運を決して離さない」との意味もあります。
「古事記」には、「応神天皇」(おうじんてんのう)の御代(みよ)に、藤の繊維を使って服を織り上げ、弓も作って身に付けたところ、服も弓も藤の花に変わったと記されており、これは、藤の生命力の強さを表す一文です。
また、「万葉集」では、藤は縁起の良い花として27首(一説には26首)が詠まれています。
松は常緑樹で、冬でも葉が青々しているため、不老長寿の象徴とされ、「神が木に宿るのを待つ」と言い、神の依代(よりしろ)としての神木と考えられてきました。
また、松の葉が2本1対であることから、「夫婦愛の木」とも言われ、「枯れて落ちても2人連れ」との言葉もあります。
本鍔に表された朝霧に霞む松林には深い趣があり、神の降臨をも感じさせる意匠です。
梅は2月の花で、冬の寒風や霜雪(そうせつ)に耐え、年明け1番に咲くことから「百花の先駆け」と称されています。
戦場で一番乗りを果たす先駆けは、武士にとってたいへんな名誉であるため、梅の図柄は鍔によく用いられました。
また梅は、春を迎える喜びを表現した吉祥の意匠であり、「万葉集」にも多く詠まれ、平安時代までは花を代表する象徴だったのです。
芦(あし)と鷺(さぎ)1羽の図を「一路平安」と言います。
鷺は中国では「路」と同じ発音で、1羽の鷺は、すなわち1路であり、これを旅路の平安にかけました。
交通機関の未発達な時代には、旅は危険と隣り合わせであったため、旅路の平安無事を切に願う気持ちから、この画題が生まれたのです。
本鍔は、主題である鷺をあえて彫刻しない「留守模様」とし、芦の茂る情景から鷺を連想させることで、鷺の存在感を強調しています。
鉄錆の黒色に、武士の力強く潔い心が感じられる鍔です。
冬の厳しい寒さを耐え忍んだ梅は、春先1番に黙って花を咲かせ、黙って散っていきます。
それは、1輪の花の心であり、1本の枝の真(まこと)です。
「剣禅一如」(けんぜんいちにょ:剣の道を究める境地は、禅の無念無想の境地と一致するということ)の世界観が凝縮された、見事な鍔と言えます。
「人物・物語」の意匠は、「古典落語」、「中国の故事」、「能楽の演目」、「新古今和歌集」、「万葉集」などの物語を題材にした彫物など様々であり、当時の武士の教養や願いが表れています。
古代中国の説話集「有象列仙全伝」(ゆうぞうれっせんぜんでん)、及び「後漢書」の「方術伝」に載る「費長房」(ひちょうぼう)の物語を彫った鍔。
「費長房」は、後漢の修行者。あるとき、薬売りの老人が瓢箪(ひょうたん)のなかに入って行くのを見かけた費長房は、老人に頼み込んで一緒に瓢箪に入りました。
そこは桃源郷のような別世界で、立派な建物が並び、美酒やご馳走で溢れかえっていたため、2人は思うままに飲食をすると、再びもとの場所に戻ります。
「壺中天あり」(こちゅうてんにあり)は、「酒を飲んで俗世を忘れる」と言う意味の他、転じて「独自の世界を持つことで精神の安定を図ることができる」と言う解釈もできる故事です。
古典落語の演目のひとつ「西行法師」(さいぎょうほうし)の「西行鼓ヶ滝」(さいぎょうつつみがたき)を図にした鍔。
「西行法師」は、武士でありながらも僧侶や歌人として名を馳せた人物です。
あるとき、西行法師が歌の名所である摂津国(現在の大阪府北中部と兵庫県南東部)の「鼓が滝」(つつみがたき)に足を運び、そこで一句を作りました。
「伝え聞く 鼓が滝に 来てみれば 岸辺に咲くや たんぽぽの花」
自分で作った歌の出来栄えに満足した西行法師は、うたたねをします。
そして、夢の中で見慣れない老夫婦とその孫娘が現れて、西行法師の詠んだ歌を直しました。
「音に聞く 鼓が滝を 打ち見れば 川辺に咲きし たんぽぽの花」
夢に現れた3人は、実は「住吉三神」と呼ばれる和歌の神様だったのです。
西行法師は、慢心を諌められたことを励みとして、より一層歌道に励みました。
中国の仙童「菊慈童」(きくじどう)を彫った鍔。
周の5代王「穆王」(ぼくおう)の時代に、「慈童」(じどう)と言う少年がおり、王から寵愛を受けていました。
しかし、あるとき慈童は誤って王の枕の上をまたぐ罪を犯してしまい、罰として「酈縣山(れっけんざん/てっけんざん)に捨てられます。
慈童は、王から賜った法華経の二句の妙文(みょうもん:優れた経典のこと)を、菊の葉に書き付けました。
しばらくすると、菊の葉に水が溜まったので慈童がそれを飲むと、その水は霊薬となっていたため、慈童は不老不死の仙人になってしまったのです。
中国の故事「三聖吸酸」(さんせいすいさん)の図。
描かれている3人は、儒教の「蘇軾」(そしょく:別名「蘇東坡」[そとうば])、道教の「黄庭堅」(こうていけん:別名「黄山谷」[こうざんこく])、仏教の「仏印禅師」(ふついんぜんじ)。
「桃花酸」(とうかさん)と言う酢を舐めて、その酸っぱさを共感している様子です。
「酢は酸っぱい」と言うことを通して、3つの宗教の一致(三教一致:さんきょういっち)を示しており、「真理はひとつである」と言うことを意味しています。
馬と鳥居を彫った鍔。「蟻通し」の正式名称は、「蟻通明神」(ありとおしみょうじん)。「蟻通明神」は、和泉国(現在の大阪府)泉南町長滝にある神社の名前。
社名の由来は2説あり、ひとつは「清少納言」の「枕草子」に掲載される「社は」の段にある説話。
「穴の空いた小さな玉に糸を通せ」と言う無理難題を求めてきた唐の帝に対して、「某中将」と言う人物が、蟻に糸をくくりつけて穴のなかを歩かせることで解決した説話です。
もうひとつは、謡曲「蟻通」から来ているという説。「紀貫之」の歌集にある故事がもとになっており、紀貫之が馬に乗って蟻通明神の前を通りかかったとき、馬が何かに恐れをなして動けなくなってしまいます。
紀貫之は、蟻通明神の神霊が下馬せず通りかかったことに対して怒りを示したと察して、歌を奉りました。すると、馬はたちまち歩くことができるようになったのです。
能楽の演目「桜川」を象徴的に表現した鍔。
日向国(現在の宮崎県)に、貧しい暮らしをする母親と娘「桜子」がいました。桜子は、母親のために自ら人買いに身を売ってしまいます。
母親は悲しみ、桜子を探す旅に出かけました。3年後、母親は遠く離れた常陸国(現在の茨城県)までやって来ます。
「桜川」と言う川に来た母親は、掬い網で桜の花びらを掬い、桜子との再開を願いました。同じ頃、桜川の近くの「磯辺寺」から、住職と娘が花見にやって来ます。
近くに住む男が「物狂いが花を掬う様子が面白い」と言うので、住職と娘が見にいくと、そこにいた母親は「桜子と言う娘に会いたい。故郷の氏神が桜の木を神木とする木花開耶姫(このはなさくやひめ)であるため、娘に桜子と名付けた」と言いました。
住職と共にいた娘はそれを聞くと「私は桜子です」と名乗り、母親は正気を取り戻して、母親と桜子は共に故郷へ帰ることができたと言う物語です。
中国八仙のひとり「呂洞賓」(りょどうひん)を彫った鍔。呂洞賓の師匠は「鐘離権」(しょうりけん)と言い、2度も科挙試験に落ちた呂洞賓に対して修行するよう誘いますが、呂洞賓は断ります。
その後、呂洞賓は酒に溺れた矢先にこんな夢を見ました。科挙試験を合格し、家庭を持ち、理想的な人生を40年過ごしたのち、重罪に問われてすべてを失う、と言う夢です。
俗世の儚さを夢で悟った呂洞賓は、「終南山」と言う山で10の試練を見事にこなして仙人になりました。
本作は、修行の荒々しさはありませんが、龍は可愛らしく彫られ、呂洞賓も上品に描かれて、全体に金象嵌(きんぞうがん)で表現されています。
「新古今和歌集」の「秋の夕暮れ三種」を図案にした鍔。
新古今和歌集の選者の第1は、正二位中納言「藤原定家」。克明な日記「明月記」は、国宝にも指定されています。
鍔に彫られている3種の和歌は以下。
「見わたせば 花も紅葉も なかりけり 裏の苔屋の 秋の夕暮」(藤原定家)
「さびしさは その色としも なかりけり 槙(まき)立つ山の 秋の夕暮」(寂連法師)
「心なき 身にもあわれは 知られけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮」(西行法師)
突然の夕立と雷(神鳴り)に逃げ惑う人びとを、雷神と共に喜劇的に表現した鍔。
「雷が鳴ったら、くわばら、くわばらと言うと雷避けになる」と言う民間伝承があります。
「くわばら」が雷避けの呪文となった理由については諸説あり、最も有名なのは「菅原道真伝説」。
太宰府に流されたのちに没した菅原道真が雷神となり、京都の至るところに雷を落としますが、菅原道真の領地だった「桑原」には雷が落ちなかったことから「くわばら」が雷避けの呪文になったと言う伝承です。
一方で万葉集には、「天雲(あまくも)に 近く光りて 鳴る神の 見れば畏(かしこ)し 見ねば悲しも」(雷が鳴っているが、雷を直に見ていると怖い。しかし、見ていないとどこに落ちるか分からないので、それも心配だ)と言う歌が存在。雷は、「神鳴り」と言う当て字をされるほどに恐るべき自然現象であり、同時に雨をもたらします。
雨は、作物を育てる重要な物ですが、大雨は返って洪水などの被害を招くこともあり、必ずしも人びとの味方というわけではありません。日本人は、そういったどうしようもない自然現象も風情のひとつとして受け入れてきました。
このことは、本鍔以外でも、掛け軸や浮世絵などのあらゆる美術品の装飾や描画から知ることができます。
雷神と風神を描いた鍔。一見では、風神が見当たりませんが、鍔の下部にある雲が風神を表しています。
風神と雷神は、多くの場合は1対として扱われますが、これは仏教美術に由来する物です。
6世紀頃に中国の「敦煌石窟」(とんこうせっくつ)で描かれた壁画には、風神と雷神が描かれています。
日本において風神と雷神が描かれる場合、併せて千手観音が描かれることが多いですが、これは風神と雷神が千手観音の眷属(けんぞく:付き従う者のこと)であると言われているためです。
鍔に彫られる文様や道具にも、制作者の願いや気配りが窺えるものです。室町時代以降、太刀から打刀に変わっていくなかで、鍔は徐々に絵画的な美が施されていきました。
特に、縁起や吉凶が重んじられていた戦国時代において、験(げん)を担ぐことは何よりも重要とされていたため、日本刀の刀装具にも、より華美で精巧な装飾が施されるようになります。
「三崩し」の模様が描かれた鍔。
「三崩し」は、和算で用いられる計算の道具「算木文」(さんきもん)を崩したように見える模様のこと。算木文を、3本ずつ縦横に崩したように見えることが名称の由来です。
なお、4本ずつ縦横に崩したように見える文様を「四崩し」、5本ずつであれば「五崩し」と呼びます。
「網代」(あじろ)は、川で魚を捕る際に、網の代わりに木や竹を編んだ網状の道具のこと。編んだときにでき上がる模様を「網代模様」と呼び、使用する素材や編み方によって、様々な種類と模様に変化します。
8本の扇子を繋いで「末広がり」を表現した鍔。
扇子の形状は、「末広がり」に通じる縁起の良い物として、古くから親しまれてきました。
涼を取るだけではなく、贈り物や舞踊など、見た目の美しさと実用性の高さをかね備える万能の道具です。
平安時代には、扇の上に和歌や花を乗せて、相手に恋心を伝えたり、扇を交換し合ったりと言った雅な使い方もされていました。
「木瓜」(もっこう)は、地上に作られる鳥の巣のこと。
木瓜を象った紋を「木瓜紋」(もっこうもん)と呼び、木瓜はもともと神殿や宮殿で使っていた御簾(みす:すだれ)上部の帽額(もこう:御簾の上部に飾る横長の幕)に付けられた、円形の模様にちなんでおり、帽額の文様は、鳥の巣を上から見た形に見えるため、「窠紋」(かもん)とも呼ばれます。
木瓜紋は、織田家が家紋として使用していた紋であり、子孫繁栄や神からの加護を授けられると言う意味がある、めでたい文様です。
「産霊」(むすひ)は、「結び」のこと。
神道における重要な概念で、「天地・万物を生成・発展・完成させる霊的な働き」のことと言われています。
「産」(むす)は自然に生じることを意味し、「霊」(ひ)は神意(霊的・神秘的な働き)のことです。
天地万物を生み出す霊的な働きは、「森羅万象に神が宿る」と言う考え方の根幹を成す物であり、過去・現在・未来に神威(神の威光)を及ぼすことを目的に施された文様と推測されます。
「足利尊氏」の肖像画として有名な騎馬武者絵がありますが、その人物が肩に担ぐ日本刀の鍔が、「車輪透し」です。
「車輪」は、平安時代頃から文様として用いられていました。鎌倉時代末期頃から、家紋として使われるようになったと言われています。
天皇や公家が座乗する牛車の車輪が「車輪」のもとであると言われており、古くは「御所車(ごしょぐるま)の紋」とも呼ばれていました。
印籠と皮袋、根付に鬼面が描かれた鍔。
鬼面と皮袋には、病魔を退散させて皮袋に閉じ込めると言う意味があり、印籠には高貴薬(こうきやく:高価で入手が難しい薬物)が模様として描かれていることから、健康祈願や長寿の願いが込められていると推測されます。
なお、印籠は薬を入れる容器として知られていますが、本来は印鑑を入れる容器でした。