「直江兼続」(なおえかねつぐ)と言えば、大河ドラマの主役にもなった有名な武将。その直江兼続の代名詞とも言えるのが、前立に大きな「愛」の文字をあしらった兜です。
安土・桃山時代以降において、兜所用者の哲学や思想を託したとされる立物の中でも、一際目を引く斬新なデザイン。その由来には、大きく分けて3つの説がありました。今回は愛の立物に秘められた直江兼続の「想い」を探ります。
直江兼続と言えば、どのような相手に対しても誠実に接する人物。すなわち「義」を重んじる人物として知られています。
主君、家臣はもちろん、統治下にある領民に対しても、それは同じ。これらを守る気持ちが、ときには権力者に対する強い姿勢となって現れることもありました。
象徴的だったのが徳川家康に対する「直江状」。豊臣秀吉亡きあと、権力の頂点に最も近かった徳川家康による上杉景勝に向けた上洛要求への書簡に対し、家老の直江兼続は、毅然たる態度で拒絶の意思を示したと言われています。
そして、この書状が「関ヶ原の戦い」の引き金となったという見方もあるのです。
関ヶ原の戦い後、徳川家康は敵対した上杉景勝の所領を約30万石に減封。石高が従来の約4分の1となったことで、当然、直江兼続の収入も激減しました。しかし、直江兼続は質素な生活をするなど、自らの身を削ることで家臣をリストラすることはなかったと言われています。
これらの直江兼続のエピソードにかんがみると、情け深い心で人を思いやることを意味する仁愛の愛を、自らの哲学として立物に託したとしても不思議ではないと言えるのです。
「愛宕権現」(あたごごんげん)とは、「勝軍地蔵」(しょうぐんじぞう)が垂迹(すいじゃく:仏や菩薩が仮の姿でこの世に現れること)した軍神。鎌倉時代から戦国時代にかけて武士の間で広く信仰されており、戦の前に「愛宕神社」を訪れることは、恒例行事のようになっていたのでした。
これを象徴するのが明智光秀。「本能寺の変」直前、明智光秀は愛宕神社での連歌会で「ときは今、天(あめ)が下(した)知る、五月哉(さつきかな)」という句を詠んでいたのです。
愛宕神社を信仰する武将には、直江兼続の主君・上杉景勝の養父、上杉謙信も含まれていました。
上杉謙信は、戦いの前には愛宕神社を訪れて参拝していたと言われています。
直江兼続と上杉謙信の間での交流については諸説ありますが、上杉景勝を通じて影響を受けた直江兼続が、武神たる毘沙門天の生まれ変わりを自称し、毘を旗印に用いていた上杉謙信に習って、愛宕権現の愛を兜の前立に施したとも考えられるのです。