米沢藩の初代藩主である上杉景勝を支えた武将「直江兼続」。「関ヶ原の戦い」の敗戦後、米沢城下の整備を徹底的に推進し、現在の城下町米沢の基盤を築きました。ここでは、直江兼続という武将の人となりを、彼が愛用していた甲冑を通して見ていきます。
「長高く、姿容美しく、言語晴朗なり」(たけたかく、しよううつくしく、げんごせいろうなり)と言われた「直江兼続」(なおえかねつぐ)。彼の甲冑は「金小札浅葱糸威二枚胴具足」(きんこざねあさぎいとおどしにまいどうぐそく)です。
そして、「愛」の文字が前立に付いた「六十二間筋兜」(ろくじゅうにけんすじかぶと)は、変わり兜としても有名。直江兼続はどのような思いで、この愛の文字を掲げて戦場に赴いたのでしょうか。その理由には、3つの説があると考えられています。
ひとつ目は、「愛宕権現」(あたごごんげん)説です。愛宕権現とは、仏教の地蔵菩薩「勝軍地蔵」(しょうぐんじぞう)を本尊とし、当時は多くの武将から信仰されていた軍神。
直江兼続に大きな影響を与えた「上杉謙信」(うえすぎけんしん)は、武神である「毘沙門天」(びしゃもんてん)を信仰しており、その「毘」の文字を軍旗に掲げていました。直江兼続もそれに倣い、愛の文字を兜に付けたと言われています。
2つ目は、「愛染明王」(あいぜんみょうおう)説です。愛染明王とは密教の神で、愛は「愛欲」を、「染」は「執着」を意味し、これらの煩悩が悟りに繋がることを示す明王です。
愛染明王は、忿怒相(ふんぬそう:激しい怒りを表す仏画や仏像の表情)で武具を持つ姿であったことから、軍神ともされてきました。直江兼続は、愛染明王の強さにあやかって、自身の兜に愛の文字をあしらったと考えられているのです。
そして、3つ目が「愛民」説です。直江兼続のゆかりの地である山形県米沢市(よねざわし)では、「民のために政治を行なう決意を、兜の前立に刻んだ」と古くから言い伝えられています。愛とは民を愛する「仁愛」。
また、直江兼続が敬愛する上杉謙信は、「義」を重んじる武将でした。儒教の教えである「五常の徳」(仁・義・礼・智・信)の義は「義理」のこと。私利私欲を捨て、義を大切にした上杉謙信のもとには多くの人が集まり、直江兼続もそのひとりでした。
そんな上杉謙信の義の上の位である「仁」を付けるのは僭越とし、仁愛から愛の文字を兜に付けたという解釈もあります。
直江兼続は、越後上田庄(えちごうえだのしょう:現在の南魚沼市)で生まれました。
幼少より利発だったことから、越後上田城主である「長尾政景」(ながおまさかげ)夫人「仙桃院/仙洞院」(せんとういん)の目に留まり、世継ぎ・長尾景勝(ながおかげかつ)の小姓となります。
そして、長尾景勝が叔父・上杉謙信の養子となる際、直江兼続も上杉謙信のもとへ居を移しました。ここで過ごした数年間で義理と愛民の精神を、上杉謙信から受け継いでいったのです。
上杉謙信の死後、直江家の養子となった直江兼続が家督を継ぐことになり、上杉景勝の側近として領地経営にも手腕を発揮します。
その当時の越後は上杉家のお家騒動である「御館の乱」(おたてのらん:1578年[天正6年])や、家臣が謀反を起こした「新発田重家の乱」(しばたしげいえのらん:1581~1587年[天正9~11年])といった、およそ10年にもわたる内乱で疲弊していた状況。
それを直江兼続は、1590年(天正18年)に成立し、安定していた豊臣政権のもと、新田開発や越後・佐渡の金・銀山支配なども任せられたことで立て直したのです。
豊臣秀吉が亡くなると徳川家康が天下取りを見据え、活発に動き出します。そんな中、上杉景勝が「神指城」(こうざしじょう:現在の福島県会津若松市)の建設を始めると、徳川家康から「武力増強は、豊臣家に対しての謀反では?すぐ大坂城に来て弁明せよ」と詰問を受けました。
しかし、上杉景勝も直江兼続も徳川家康の行動を豊臣秀吉に背く「義に欠ける行為」と考えていたため、直江兼続は上杉家の立場を示す書状、世に言う「直江状」を送り返すのです。
直江状の内容は、「築城は怠っていた部分を補完しただけ。会津は雪国ですから、すぐに上洛はできません。太閤秀吉様の掟に背くのは、言いがかりを付けて上杉家に汚名を着せようとしている家康様では。返答に不満があれば、討伐軍を差し向けて下されば、いつでもお相手しますよ」とかなり挑発的な書状でした。
これに激怒した徳川家康は会津征伐を決意したのです。
徳川家康が上杉討伐の軍を興し会津へ向かう途中、石田三成が挙兵します。その報を受け、徳川家康率いる東軍は会津征伐を中止、急遽軍勢を関ヶ原に戻すことに。
徳川家康を待ち受けていた直江兼続も方針を転換、東軍である出羽(でわ:現在の山形県・秋田県)「最上義光」(もがみよしあき)の領地へ出陣します。
しかし、関ヶ原の戦いで西軍が敗れたことが伝わると撤退を決意。最上軍が追撃するも、直江兼続自らが殿(しんがり:退却する部隊の最後尾を担当し、敵の追撃を防ぐこと)を務めて上杉軍を無事に会津に戻すことに成功するのです。
その後、直江兼続は上杉景勝と共に上洛。徳川家康に謝罪し忠誠を誓いますが、上杉景勝は会津の領地を没収されることに。しかし、直江兼続が「私が秀吉様に頂いた米沢30万石は、景勝へ与えて欲しい」と徳川家康に懇願し、それを許されるのです。
そして、直江兼続は上杉景勝に、「責任は私にあります。領地が減りましたが、ひとりでも家臣を召し放つことはしないで下さい。農業振興で米沢藩を潤します」と言ったと伝えられています。
この敗戦をきっかけに、直江兼続は治水事業や新田の開発、街の整備を徹底的に推進。合戦が中心であった上杉家の方針を、産業や農業へ力を入れることへ変更しました。
そして、会津120万石から大減封された上杉家の財政改革を、米沢藩において最後までやり遂げたのです。上杉謙信から受け継いだ義理を大切にし、主君への忠誠、家臣や領民に誠実であった直江兼続。彼ほど愛の文字が似合う武将はいないと言えます。