陣羽織は、戦国時代に登場したと言われ、戦場において武将が鎧の上から羽織りました。着物型の羽織やマント形式など、武将のセンスが光る陣羽織が数多く存在。その豪華絢爛さもあいまって、百花繚乱の様相を呈しました。ここでは、陣羽織について概要をご説明したあと、戦国武将がこだわり抜いたオリジナルの陣羽織の一部をご紹介します。
陣羽織は、丈の短い着物の一種。安土桃山時代以降、戦国武将達が甲冑の上から着るようになりました。
戦場において甲冑が雨や寒風にさらされることを防ぎ、特に冬場の戦いにおいて、防寒具として重宝されていたのです。
もっとも、当時は「陣羽織」と言う名称は使われておらず、「具足羽織」(ぐそくばおり)、「陣胴服」(じんどうぶく)などと呼ばれていました。
陣羽織は、実戦において雨や寒さから武将の体を守っただけではなく、軽量化の工夫が施されるなど、実用品として進化。同時に武将の威厳を示す装飾品としても発達していきました。
特に軍を統率する立場の武将は、背面に家紋や絵の刺繍を施し、生地も派手な柄の織物を使用。華やかな陣羽織を着用することは、自らの財力を示すと同時に、カリスマ性をも示す手段でもあったのです。
安土桃山時代以降、陣羽織用に重宝された素材が「羅紗」(らしゃ)でした。毛織物の一種で、製造工程で繊維に熱や圧力を加えてフェルト状にした素材。
織り方には、平織、綾織、繻子織(しゅすおり)など様々な種類があり、南蛮貿易によって日本にもたらされました。保温性に富み、熱も通しにくいという特性を有していたことから、羅紗は、陣羽織以外にも幅広く重用されるようになります。
この他、絹や「緞子」(どんす:絹織物の一種)、ビロードなど、高級な生地も使用されました。
陣羽織にも流行があり、時代によって色や形を変えています。安土桃山時代に陣羽織が登場した当初は、「半纏」(はんてん)のように袖がある物が多かったと言われていますが、次第に動きやすく、軽快な袖のない形に変わっていきました。
素材は「猩々緋」(しょうじょうひ)と呼ばれる「緋羅紗」(ひらしゃ)が人気で、当時の武将達が競って使用しています。刺繍も能の装束などと同じ、甘撚り(あまより:弱く撚ること)の渡し繍(わたしぬい:糸を必要な長さに渡して綴じていく刺繍技法)で施されました。
江戸時代になると、戦がなくなったことで、陣羽織も儀礼的な物へと変化。戦場における重厚な印象が消え、軽やかで華やかな色彩が好まれるようになったのです。
襟元に絹の緞子、裏地にはヨーロッパ更紗(さらさ:花や人物などの模様を染め付けた絹布や綿布など)などが用いられ、豊かさを表現する物に変貌を遂げます。
もっとも、江戸時代後期の「黒船襲来」によって、武士達は再び戦闘用の装備を調えなければならなくなりました。
そこでは、西洋の軍服で使用されていた、肩章に似た飾りを肩に付け、西洋の影響を強く受けた陣羽織が登場します。
陣羽織は、高価な品だったことから、贈答品としても用いられました。
1587年(天正15年)「豊臣秀吉」が九州出兵の際、秋月氏攻略に大隅町(現在の福岡県嘉麻市)の住人達が貢献したことの恩賞として、自らが着用していた陣羽織(華文刺縫陣羽織:かもんさしぬいじんばおり)を大隅町に与えたと言われています。
また、徳川幕府の公式記録である「徳川実紀」には、豊臣秀吉が「徳川家康」に対して臣下となるよう説得に赴いた際、徳川家康は臣下となる代わりに、豊臣秀吉の陣羽織を所望したというエピソードを収録。
この逸話については、豊臣秀吉が偉大さを誇示するため、徳川家康に一芝居打ってもらったという説が有力ですが、豊臣秀吉は「毛利輝元」(もうりてるもと)をはじめ、数多くの武将に陣羽織を贈っていることから、豊臣秀吉が諸大名を引き入れるための贈答品としても陣羽織を活用していたことが分かるのです。
ちなみに、当時豊臣秀吉が着用していた陣羽織は、サファヴィー朝(16~18世紀にかけてペルシアを支配したイスラム王朝)の宮廷工房で作られた織物で仕立てられた逸品でした。金糸や銀糸をふんだんに用いた、大変高価で貴重な物として武将の間でも有名だったと言われています。
「吉祥文様」(きっしょうもんよう)は、おめでたいことを知らしめる文様とされ、縁起の良い文様として、陣羽織でも使用されました。
松竹梅、瑞雲、鶴亀、蝶、鳳凰などの縁起の良い文様を、鮮やかな絹糸で織り込むことで、晴れ着である陣羽織において、めでたさや縁起の良さを表現したと言われています。
「菊」は、長寿を象徴する代表的な花とされ、心身の安定など多様な意味を持つ花です。「牡丹」(ぼたん)は豪華な見た目から、「百花の王」と呼ばれ幸福、富貴、高貴さを表しています。
小さな丸いつぼみから大輪の花を咲かせることにあやかり、菊と牡丹両方を組み合わせた文様が陣羽織にも好まれ、よく使われました。
「蛙」(かえる)や「兎」(うさぎ)、「猿」などが闘争、遊戯する様子を擬人化した絵画を模して、文様に取り入れられました。世の中は諸行無常であり、多様性を表現しているとされています。戦国武将では、豊臣秀吉が好んで使ったと言われている文様です。
豊臣秀吉と言えば、派手好きな性格として知られていますが、陣羽織にもこだわりがあり、コレクションと言えるほど多数の逸品を所有。豊臣秀吉が作らせた陣羽織は、どれも意匠が凝っており、異彩を放つ物ばかりでした。
「蜻蛉燕文様陣羽織」(とんぼつばめもんようじんばおり)は、金の布地にツバメと日の丸の文様が描かれ、袖には青い羽根。
陣羽織に羽を埋め込んで作られた物は、当時の戦国武将達に人気の意匠でした。比較的、年齢が上の武将達に好まれたと言われています。
また、「富士御神火文黒黄羅紗陣羽織」(ふじごしんかもんくろきらしゃじんばおり)には、黒地に黄色で簡素化した富士山が描かれました。黒い空を背景に富士が噴煙を吹き上げ、裾に水玉模様を描くことで、溶岩が飛ぶ様を表しています。
富士山の山頂は文殊、釈迦、普賢の三尊に見立てた霊峰を、三連のふくらみによって表現。豊臣秀吉は、他にも鳥獣戯画を用いた、鳥獣文様の陣羽織など、多種多様な陣羽織を所持していました。
「島津久静」(しまづひさなが)は、江戸時代後期の薩摩藩士。1832年(天保3年)に誕生し、1856年(安政3年)から都城島津家の25代当主として家督を継ぎます。
島津久静は、当時の大名でもなかなか作れなかったであろう「緋羅紗地丸に十字紋陣羽織」(ひらしゃじまるにじゅうじもんじんばおり)という大変高価な陣羽織をあつらえました。
1862年(文久2年)に京都警備を任されたことから、上京する際、この陣羽織を着ていたと言われています。
「小早川秀秋」(こばやかわひであき)は、丹波亀山城主、筑前名島城主を経て、備前岡山城主となりました。豊臣秀吉の正室「高台院」(こうだいいん=おね)の甥に当たり、豊臣秀吉の親族として豊臣家では重要な任務を担当。
そのあと、小早川家の養子となり、小早川家の家督を継ぎました。何より、天下分け目の「関ヶ原の戦い」で、勝敗のカギを握った人物であったと言うことは、よく知られています。
小早川秀秋が纏った陣羽織は、鮮やかで大胆な物でした。緋羅紗を表地に用い、背面に家紋である違い鎌を、白と黒の羅紗で大きく入れてあります。陣羽織の形状も、裾広がりの意匠となっています。
鮮やかな赤は神社の鳥居に用いられているように、魔よけの効果があるとされました。見た目の鮮やかさと、験担ぎ、奇抜さのすべてにおいて、突出していた小早川秀秋の陣羽織は、動きやすさを求めた袖なし型が主流だった安土・桃山時代には珍しい袖付き型です。
「伊達政宗」(だてまさむね)は、伊達氏の17代当主で、仙台藩の初代藩主でもあります。
幼少期に疱瘡(天然痘)にかかったことで、右目を失明。隻眼(せきがん:片目)となりました。のちに「独眼竜」とも呼ばれます。
1593年(文禄2年)には、「文禄の役」に従軍。伊達政宗が伊達家の家臣用にあつらえた戦用の装束は豪華絢爛で、京へ向かう道中、大きな噂となりました。
他の軍勢が通るときは住民も静かに見守っていましたが、伊達家の1,500~3,000人の軍勢が通る際には、その見事さに歓声が上がったと言われています。
伊達の軍勢のように派手な装いを好み着こなす人を、のちに「伊達者」(だてもの)と呼ぶようになりました。
伊達政宗が現代において戦国時代の「ファッションリーダー」と呼ばれる所以となった出来事と言えます。
もちろん、伊達政宗自身も派手な陣羽織を着こなしました。代表的な陣羽織が、「仙台藩歴代藩主所用陣羽織」(せんだいはんれきだいはんしゅしょようじんばおり)、別名「山形文様陣羽織」(やまがたもんようじんばおり)です。
黒の羅紗地を金銀のモールで飾り、裾は緋羅紗で山形の文様を表しています。
縫い目が見えないように「切嵌」(きりばめ)という繊細な技法が用いられました。ファッションリーダーらしく、当時流行していた要素をふんだんに盛り込んであつらえられています。
「前田利家」(まえだとしいえ)は、加賀百万石の大大名です。妻の「まつ」と夫婦で支え合い、加賀百万石を築き上げたことでも有名。
前田利家の陣羽織は、とても迫力がありつつ、繊細な作りをしている「鍾馗陣羽織」(しょうきじんばおり)です。
「橙黄色千千良織」(だいだいきいろちぢらおり)の絹地を使い、前面に菊の花、背面に「鍾馗」(しょうき:中国における魔よけの神)の刺繍が施されています。
妻のまつが手製で刺繍したと伝えられているこの陣羽織は、国の重要文化財に指定されている逸品。
身丈がコートのように長く、刺繍も背中いっぱいに大胆に入れられており、派手好きな秀吉も感服して褒めちぎったという逸話が残っています。
北条家に伝わる陣羽織は、「緋羅紗地三鱗紋陣羽織」(ひらしゃじみつうろこもんじんばおり)です。
大胆に赤い羅紗地を用い、背面上部に家紋の「三鱗紋」(みつうろこもん)を、背面下部には吉祥文様のひとつである「瑞雲」(ずいうん)を白で大きく入れています。
上杉家に伝わる陣羽織は、「緋羅紗陣羽織」(ひらしゃじんばおり)です。
表は濃赤色の最上質な羅紗地を使い、裏は牡丹や鳳凰、雲文の黄色い緞子を用いて、あつらえています。形状は袖のない物でした。
表に大きく目立つ意匠はありませんが、濃赤色の目を見張る鮮やかさに圧倒されます。北条家同様、代々受け継がれたと言われています。
豊臣秀吉も織田信長同様、陣羽織だけでなく、マントも着用していました。豊臣秀吉のマントは、当時高級品だったビロードを用いて、陣羽織のように仕立て直しています。
生地全体に金糸や紺糸を使い、龍、唐草、持仏、動物が刺繍された、朱地の艶やかなマント形式の陣羽織です。
陣羽織は、南蛮文化と深いかかわりがありましたが、「南蛮胴」(なんばんどう)と呼ばれる鎧も、南蛮文化と共に伝来。豊臣秀吉や、徳川家康などが所用したと言われています。
南蛮胴の伝来を確認できる最古の一次史料(当事者が残した記録)は、1588年(天正16年)に作成された、ポルトガル領ゴアのインド副王から豊臣秀吉への外交文書「ポルトガル国印度副王信書」(国宝:京都・妙法院蔵)の贈呈目録。
陣羽織の1スタイルであるとも言えるマントと南蛮胴の組み合わせは、この時代の最先端スタイルだったと言うことができます。
南蛮胴は、鉄砲の攻撃にも耐えられる強固な甲冑でしたが、西洋甲冑(プレートアーマー)の胴部分を転用していたため、サイズが大きかった上に、重量が重く、高価でした。
そのため、胴の表面に継ぎ目が見えないようにする「仏胴」の技術を応用し、南蛮胴を模倣した純国産の「和製南蛮胴」が作られるようになったのです。