火縄銃は、1543年(天文12年)に種子島に漂流したポルトガル人によってもたらされた武器と言うのが定説です。一方で、種子島伝来以外にも様々な過程を経て日本にもたらされた説や、種子島へ伝来する以前から日本に伝わっていた説など、鉄砲伝来についてはいまだに議論の余地が残されています。
日本における合戦のあり方を根本から塗り替えた火縄銃とは一体どのような物なのか。また、火縄銃伝来に関する諸説と、戦国時代に鉄砲が広く浸透した理由についてご紹介していきます。
「種子島伝来説」は、種子島に漂流したポルトガル人が、火縄銃を持参していたことから日本に鉄砲が伝来したと言う説。
この時、ポルトガル人が2挺の火縄銃を持っていたため、種子島の領主「種子島時尭」(たねがしまときたか)が目を付けて買い取ります。
種子島時尭は、買い取ったうちの1挺を種子島の刀匠に貸し与え、火縄銃の複製を作るように命令を下しました。ここからわずか1年余りで国産化に成功。
一方で、薩摩の「島津義久」を経由して室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)に献上されたもう1挺の火縄銃をもとに、近江国「国友」の刀匠も半年ほどで鉄砲の国産化を実現。
ポルトガル人が種子島に持ち込んだ鉄砲が、戦国時代における軍事革新と戦術の変化をもたらしたと言うのが従来の定説でした。
種子島伝来説は、禅僧「南浦文之」(なんぽぶんし)が著した鉄砲記の記述に基づいたものです。
南浦文之は、中国の朱子学に精通し、薩摩の島津義久、「島津義弘」、「島津家久」の3代に仕え、藩の外交、内政に尽力した人物でした。
鉄砲記は、種子島に鉄砲が伝来したと言われる1543年(天文12年)から約半世紀後の1606年(慶長11年)に書かれた歴史書。
種子島時尭を顕彰(けんしょう:功績を世間に広めること)する内容で、日本に鉄砲を広めたのは種子島時尭である、と言う強い意図が込められているため、鉄砲伝来の史料としての信憑性には欠けるのではないかという見解もあります。
これまで種子島に持ち込まれた鉄砲は、ヨーロッパで作られた火縄銃だと思われていました。
しかし、ポルトガル人が持っていたのはヨーロッパの「緩発式火縄銃」(かんぱつしきひなわじゅう)をもとに、東南アジアで改良された「マラッカ式火縄銃」だった可能性が浮上してきたのです。
マラッカ式火縄銃は、「瞬発式火縄銃」(しゅんぱつしきひなわじゅう)と呼ばれています。
瞬発式火縄銃とは、引き金を引くとロックが外れ、ばねの力で瞬時に火縄が火皿の点火薬に叩きつけられる仕組みとなっており、即座に弾丸を撃つことが可能な鉄砲のこと。種子島に持ち込まれた鉄砲は、この瞬発式火縄銃だったのです。
一方、ヨーロッパで発明された火縄銃は、緩発式火縄銃。西洋の火縄銃は、引き金と「火ばさみ」がS字状に連動しており、ばねの弱い力で火ばさみを火皿から浮かせた状態にしています。
引き金を引くと連動して火ばさみが下に動くような仕組みでした。つまり、火皿に火縄がつくまで引き金を引き続ける必要があり、引き金を引いてから実際に弾丸が発射されるまでの間に時間差があったのです。
この弱点を補うために、ヨーロッパではその後様々な点火装置を備えた鉄砲が開発されました。
なお、この緩発式火縄銃がどのような経緯で瞬発式火縄銃に改良されたかの詳細は明確になっていません。
1511年(永正8年)、ポルトガルが「マラッカ王国」のゴアを占拠した際に使っていた鉄砲と同じ型式が種子島に伝わっており、そこからマラッカ式火縄銃と呼ばれています。
ポルトガルは、当時大航海時代により東南アジアを開拓し、香港の対岸にあるマカオで交易を行なっていました。
現在のマレーシアにあたるマラッカ王国は、インド洋と南シナ海を結ぶ海洋貿易の要衝であり、ムスリム商人が東アジアに進出する際の拠点として機能していたのです。西方インドからは綿織物やアヘン、東方の中国(明)からは陶磁器や絹、武器を輸入。
そして東南アジアからは、香料やスズ、銅、硫黄、白檀など、特にヨーロッパで重宝された特産品が、マラッカ王国を経由してインドや中国へ輸出されていたのです。
マラッカ王国を中心とした交易は、大航海時代以前、ヨーロッパ商人が参入してくる前から活発で、当時「琉球王国」からの商人も参入していたと言います。
その後、マラッカ王国の植民地化によりポルトガル人も東アジア、東南アジア、そして西方インドを結ぶ海洋交易に参入したのです。
こうした経緯から、ポルトガル人は確かに火縄銃を種子島に持ち込みましたが、それはすでに東南アジアで改良された鉄砲であり、厳密にはヨーロッパから直接持ち込まれた銃器ではなかったことが分かります。
種子島鉄砲伝来説によって広く浸透しているのが「種子島へ漂着したのは、ポルトガルから直接やってきたポルトガル商人だった」と言う誤解です。実際には、種子島に漂着したのは明(みん)の密貿易船であり、そこにポルトガル商人が乗船していたにすぎませんでした。
当時の中国は、明王朝のもとで海禁政策が取られていました。「海禁政策」とは、朝貢関係にない国の貿易船の受け入れを禁止したもので、さらに自国商船の海外渡航を禁じた政策です。
このため、浙江(せっこう)、福建、広東など、中国東南部沿海地の海上生活者や海外貿易家は、国禁を犯して非合法の海上貿易を行なうようになりました。16世紀、明政府の取り締まりが厳しくなると、非合法の密貿易活動は激しさを増し、「奸商」(かんしょう)、「海賊」、「海寇」(かいこう)、「倭寇」(わこう)と呼ばれる海賊集団が各地で盛んに活動するようになります。
海禁政策により、ポルトガルは海寇の交易に参入することでしか中国との交易を行なえませんでした。種子島に漂流したポルトガル人も、海寇に参加した際に種子島へ流れ着いたとも考えられており、「鉄砲を日本にもたらしたのはポルトガル人であった」と言うよりも、密貿易をしていた海寇(倭寇)によってもたらされたものだったとも言えるのです。
「ポルトガル船に乗ったポルトガル商人によって鉄砲は伝来した」という、従来の種子島伝来説とは別の仮説が倭寇伝来説。
そもそも倭寇とは、13~16世紀頃にかけて中国東南沿海部で活動した密貿易船や海賊の総称のことです。15世紀、室町幕府と明の勘合貿易が盛んになると、倭寇の活動は一時停滞しますが、16世紀に再び活発化します。
16世紀における倭寇の主体は、明の海禁政策により非合法貿易を行なった中国東南沿海部の貿易家。国禁を破って東南アジアや東アジアで独自の交易を行なっていたことから、ポルトガルが拠点としたマラッカにも立ち寄ったことが考えられるのです。
そして日本にも、1532~1555年(天文年間)に倭寇が多くやってきたという記録が残っています。1546年(天文15年)、薩摩に停泊していたポルトガル船船長「ジョルジュ・アルバレス」は「九州地方に来航する中国船が年々多くなってきている」と「日本報告」に記しました。
また、倭寇は九州の豊後、薩摩、備前諸港に立ち寄り、太平洋や日本海沿岸を北上。そして、日本の商人もやがて倭寇に加わって明に出向くようになります。
明の役人「鄭若曾」(ていじゃくそ)が記した倭寇研究書「籌海図編」(ちゅうかいずへん)では、この時代の倭寇には種子島や紀伊、摂津、薩摩を始めとした西日本地域出身者が、構成員として多く参加していたと記されているのです。
倭寇は、次第に日本の諸大名との繋がりを持つようになりました。
「王直」(おうちょく)という倭寇は、肥前(ひぜん:現在の佐賀県・長崎県)に屋敷を構えて、守護大名の「大内義隆」(おおうちよしたか)や、九州大名の「大友義鎮」(おおともよししげ)とも接触し、交易を行なっています。
倭寇の中でも中国側の商人が日本に来た理由は、銀の買い取りでした。明は、銀による納税を定めていたため、国内で銀の需要が増していたのです。
しかし、海禁によって銀が公に手に入らなくなったことから、密貿易に頼るようになりました。日本から銀を輸入する代わりに、倭寇は日本に明の禁制品である硝石、硫黄、生糸、絹を輸出。
ここで注目するべきなのは、硝石や硫黄です。これらは、火縄銃の火薬として使われる材料であり、日本では産出されない物質でした。
火薬の原料を扱っていたということは、鉄砲そのものも商品として扱っており、日本に鉄砲をもたらしたのは倭寇だったのではないかと言う見方もできます。
前出の倭寇伝来説に関して、倭寇が実際に西洋式の火縄銃を入手していたかどうかは推測の域を出ないのが現状です。
しかし、倭寇が「火砲」と呼ばれる火器を使っていたことは、朝鮮の記録から分かっています。
倭寇は海上を移動するので、悪天候による遭難はよくあることでした。日本海の「しけ」により北上に流され、朝鮮半島に流れ着いた倭寇が拿捕(だほ:捕らえられること)されることもあります。
朝鮮王国は当時、明と朝貢関係を結んでいたので、倭寇を取り締まった場合は乗組員を明に送還しなければなりませんでした。
1544年(天文13年)、朝鮮水軍が倭寇と思われる不審船を発見し、調査をしようとしたところ乗組員がいきなり火砲を撃って逃げたという記述が「朝鮮王朝実録」に記録されています。
倭寇に火砲で砲撃された朝鮮軍は、同じく火砲で応戦したという記述があることから、火砲とはマラッカ式火縄銃のことではなく、中国を起源とする伝統的な「銃筒」(手銃の一種)のことではないかとも言われています。
中国をはじめとするアジアでは、すでに11世紀頃には各種の火薬兵器が開発されていました。
明朝時代には火器の製造が進展し、銃筒などの小型火器の他に「碗口銃」(わんこうじゅう)と言う中型火器などを生産しています。なお、西洋式火器との決定的な違いは、点火装置部分のカラクリや引き金がない点です。
アジア地域では火器が浸透していく一方で、日本は火器の進展から取り残されていましたが、鉄砲伝来と共に急速に普及したというのが定説となっていました。
しかし、それ以前の日本には東洋式の旧式「鉄砲」が伝来しており、使われていたという説も存在します。
13~14世紀に中国や朝鮮の沿岸部を襲った倭寇は、火砲による迎撃を幾度となく受けており、倭寇側もこうした火砲を略奪して持ち帰ることもありました。
倭寇が捕虜とした朝鮮人から、硝石の製法を聞きだそうとした記録も残っています。また、日本は持ち帰った中国式火器を模した「鳥銃」と言う火器を開発しており、朝鮮側がこれを持ち帰って火器製造の見本にしようとしていたという史料も存在。
なお、鳥銃が具体的にどのような火器であったのかは史料が残されていないため明確ではありません。
日本に中国式火器が浸透しなかった理由に、日本での使い方に適していなかったことが挙げられます。
中国式火器は、火薬と弾丸を銃口から入れ、上部の点火口から差し火で点火する仕組みで、装填にかかる時間が長く、命中精度も低い物でした。
主に城壁都市での攻防戦や密集地への射撃、水上船での戦闘向きであり、機動性が必要とされる日本の野戦には向いていなかったのです。
また、日本において中国式火器が浸透しなかった別の理由として、火薬の調合で必要な天然硝石が取れなかったからと言う説もあります。
倭寇の活動が活発になるにつれ、明政府は硝石の製造方法が倭寇に漏れることを危惧して朝鮮での製造を中止。
1445年(文安2年)、明でも中央政府で管理、製造するように命じており、日本は硝石を手に入れることができなくなりました。
しかし、その後の南蛮貿易によって再び日本に硝石が輸入されるようになり、さらに硝石の国産化にも成功。
こうして、火器に関して世界に後れを取っていた日本でも、全国的に鉄砲が普及。多くの戦国武将が鉄砲を大量に使用するようになり、戦国時代末期の日本は、世界一多く鉄砲を保有する国になったのです。