「藤堂高虎」(とうどうたかとら)と言えば、「豊臣家」(とよとみけ)と「徳川家」(とくがわけ)に仕えるまで、次々と主君を替えたことで知られる戦国武将。
「武士たる者、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」との格言を残しているほど、21歳までは仕官先を転々と渡り歩きました。こうした言動から「変節漢」(へんせつかん:状況によって主義主張を変える男に対する蔑称)と言われることもありますが、その一方で、豊臣家と徳川家に仕えてからの藤堂高虎は忠臣だと評価されることも。
また多くの名城を築いた「築城の名手」としても評価されています。多様な顔を持つ藤堂高虎の人生を、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)を中心にご紹介しましょう。
「藤堂高虎」(とうどうたかとら)は、1556年(弘治2年)に近江国犬上郡藤堂村(おうみのくにいぬかみぐんとうどうむら:現在の滋賀県犬上郡甲良町)の土豪「藤堂虎高」(とうどうとらたか)の次男として生まれました。
藤堂氏は、この地を発祥として代々領主を継いできた一族でしたが、藤堂虎高の代には農民にまで落ちぶれていたと言われています。そんな藤堂氏を再興し、最も繁栄させたのが藤堂高虎です。
藤堂高虎は、父にしたがって近江国の「浅井長政」(あざいながまさ)に足軽として仕えます。1570年(元亀元年)の「姉川の戦い」(あねがわのたたかい)で初陣を飾り、首級を挙げる健闘ぶりを見せました。
しかし、1573年(天正元年)の「小谷城の戦い」(おだにじょうのたたかい)で、浅井長政は「織田信長」(おだのぶなが)と「徳川家康」(とくがわいえやす)の連合軍に大敗。このとき藤堂高虎は、浅井長政を見限り、「浅井氏」(あざいし)から「織田氏」(おだし)に寝返った「阿閉貞征」(あつじさだゆき)を主君に選びます。ところが藤堂高虎は、早々に「阿閉氏」(あつじし)のもとを離れ、約1ヵ月後には織田信長に仕える浅井氏旧臣の「磯野員昌」(いそのかずまさ)の家臣となったのです。
さらに驚くことに、その数ヵ月後には「磯野氏」(いそのし)のもとからも行方をくらまし、新たな主君を求め近江国を出国。そして4人目に仕えたのが、織田信長の甥「織田信澄」(おだのぶずみ)でした。
こうして藤堂高虎は、短期間で4人も主君を替え、仕官先を探している間は無銭飲食をしながら、流浪生活を送っていたと言われています。のちに天下人のもとで大名として名を馳せる人物とは思えない生活ぶりだったのです。
1576年(天正4年)、藤堂高虎は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の弟である「豊臣秀長[羽柴秀長]」(とよとみひでなが[はしばひでなが])と出会い、5人目の主君として300石で仕えます。
5年後の1581年(天正9年)には、武功を挙げたことで10倍の3,000石に加増。
そののち、豊臣秀長が織田信長に従軍すると共に「三木合戦」(みきかっせん)、「鳥取城の戦い」(とっとりじょうのたたかい)、「冠山城の戦い」(かんむりやまじょうのたたかい)、「高松城の戦い」(たかまつじょうのたたかい)などに参陣します。
これらの「中国攻め」(ちゅうごくぜめ)に加えて、織田信長の死後は「山崎の戦い」(やまざきのたたかい)や「賤ヶ岳の戦い」(しずがたけのたたかい)にも参陣し、藤堂高虎は豊臣秀吉が天下を取るための主要な戦いに、ほぼ従軍しました。
特に、賤ヶ岳の戦いでは、「鬼玄蕃」(おにげんば)の通称で知られる猛将「佐久間盛政」(さくまもりまさ)を銃撃して敗走させる活躍を見せ、戦功として1,300石が加増されたのです。
1585年(天正13年)には「紀州征伐」(きしゅうせいばつ)での活躍が評価され、紀伊国粉河(きいのくにこかわ:現在の和歌山県紀の川市内)に5,000石を与えられることに。これに伴い、藤堂高虎は「猿岡山城」(さるおかやまじょう)の改築と「和歌山城」(わかやまじょう)の築城に携わり、築城の才能を開花させていくこととなります。
1586年(天正14年)、作事奉行に任命された藤堂高虎は、上洛する徳川家康の屋敷を「聚楽第」(じゅらくだい:豊臣秀吉が京都府に建てた城郭)の邸内に建てることに。設計図通りに進めると警備上に不備が生じることに気付いた藤堂高虎は、独断で設計を変更し、自費で工事を進めました。この一件で藤堂高虎は、徳川家康の心に深く印象付けられることとなったのです。
やっと順風満帆な人生を手にした藤堂高虎でしたが、1591年(天正19年)に主君であった豊臣秀長が病死。そののち、豊臣秀長の養子である「豊臣秀保」(とよとみひでやす)に仕えましたが、4年後の1595年(文禄4年)に豊臣秀保も早世してしまったのです。自分を評価してくれた豊臣秀長に恩を感じていた藤堂高虎は、新しい主君を探すことなく高野山に出家します。
しかし、藤堂高虎の将才を惜しんだ豊臣秀吉は、使者を派遣して藤堂高虎を呼び戻すことに。こうして、藤堂高虎は豊臣秀吉に仕えることとなり、伊予国板島(いよのくにいたじま:現在の愛媛県宇和島市)にて、7万石の大名となりました。
1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が亡くなる直前から、藤堂高虎は徳川家康と書状を交換するなど親交を深めていました。
そして、1599年(慶長4年)には、徳川家への忠誠の証として弟「藤堂正高」(とうどうまさたか)を人質として江戸に送ります。
こうして「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)に至るまでに、藤堂高虎は早々に徳川派であることを示し、「東軍」に与する意志を固めました。
1600年(慶長5年)、徳川家康の命で「会津征伐」(あいづせいばつ)に従軍。徳川軍が江戸を留守にしているうちに「石田三成」(いしだみつなり)率いる「西軍」が挙兵を始めると、藤堂高虎は徳川家康の指示で「木曾川・合渡川の戦い」(きそがわ・ごうとがわのたたかい)に出陣します。
東軍の「福島正則」(ふくしままさのり)を大将とした主力部隊に続き、「美濃国」(みののくに:現在の岐阜県)に入り、藤堂高虎は「黒田長政」(くろだながまさ)と「田中吉政」(たなかよしまさ)と共に、大将を務めて「大垣城」(おおがきじょう)の東に位置する合渡川に布陣することに。藤堂高虎達は、ここで西軍部隊を討ち取り、関ヶ原の戦いへ向けて進軍しました。
9月15日、藤堂高虎の部隊は「京極高知」(きょうごくたかとも)隊と共に、中山道沿いの柴井地区に着陣。ここで、東軍先鋒の福島正則隊の左翼2隊として、西軍「大谷吉継」(おおたによしつぐ)と激突しました。
藤堂高虎は、この本戦前にすでに「脇坂安治」(わきざかやすはる)、「小川祐忠」(おがわすけただ)、「朽木元綱」(くつきもとつな)、「赤座直保」(あかざなおやす)に東軍への寝返りを工作していたと言われており、藤堂高虎の調略によって、大谷吉継隊は総崩れとなったのです。
こうして、多くの寝返りを成功させた東軍は、関ヶ原の戦いで勝利を掴みました。
藤堂高虎・京極高知隊に敗れた西軍の大谷吉継は、戦場で切腹。
このとき介錯した側近の「湯浅五助」(ゆあさごすけ)は、重い病を抱えていた大谷吉継から、「病で崩れた顔を敵に晒すな」という遺言を聞き、大谷吉継の首を隠すように戦場に埋めたのです。
しかし、この場面に藤堂高虎の甥「藤堂高刑」(とうどうたかのり)が遭遇。湯浅五助は、自分の首を差し出すことで主君の首を埋めたことを見逃して欲しいと頼みます。藤堂高刑はこの思いを受け入れ、湯浅五助の首を討ち取りました。
甥の藤堂高刑が、猛将と知られる湯浅五助の首を取ったことを、藤堂高虎はとても喜び、藤堂高刑の手柄を徳川家康に報告。これを聞いた徳川家康は「側近の湯浅五助ならば、大谷吉継の首の場所も知っていたのではないか」と藤堂高刑に尋ねました。すると、藤堂高刑は「湯浅五助に口外しないことを誓って首を取ったので、どなたであろうと言えません。私を処分して下さい」と答えたと言います。
徳川家康は、手柄になるにもかかわらず、口を割らない藤堂高刑の強い信念を礼賛し、自分の槍と日本刀を褒美として与えたのです。
関ヶ原の戦いのあと、藤堂高虎は西軍諸将を東軍へ寝返らせたことが高く評価され、徳川家康より伊予国今治(現在の愛媛県今治市)に12万石を加増されます。藤堂高虎は「今治城」(いまばりじょう)を新たな居城とするために、1602年(慶長7年)から築城に取り掛かり、1604年(慶長9年)に完成させました。
1608年(慶長13年)には、江戸城改築などで「天下普請」においても活躍を見せたため、恩賞として「伊賀国」(いがのくに:現在の三重県南部)に10万石、伊勢国安濃郡(いせのくにあのうぐん:現在の三重県津市)に10万石が与えられることとなります。
こうして、「津藩」(つはん)へ加増転封となった藤堂高虎は、外様でありながら徳川家康から高い評価を受け、「徳川家」(とくがわけ)の重臣として江戸幕府を支える存在となっていきました。藤堂高虎の細やかな気遣いや実行力は、徳川家康の心を掴み、晩年の徳川家康は、藤堂高虎に対して厚い信頼を寄せるようになっていたと言います。
その信頼度を表すエピソードとして、1616年(元和2年)に徳川家康が死に瀕した際、藤堂高虎を枕元に招いて自分の廟所の建立を任せたいと遺言を託したと語られています。徳川家康の死後、藤堂高虎は藤堂家屋敷地を献上し、1627年(寛永4年)、ここに徳川家康を祭る「上野東照宮」(うえのとうしょうぐう)を創建しました。
また、屋敷地跡には徳川家の菩提寺「寛永寺」(かんえいじ)が建てられ、藤堂高虎はこの寺内に「寒松院」(かんしょういん)という東照宮の別当寺(べっとうじ:神仏習合が行なわれていた江戸時代より前に、神社を管理するために置かれた寺のこと)も建立しているのです。
寺名は、藤堂高虎の法名である寒松院に由来しており、藤堂高虎が寒松院へと改名するに至ったいきさつが伝わっています。
あるとき、徳川家康から枕元に呼ばれ「そなたとは宗派が違うため、来世で会えないことが心残りだ」と嘆かれた藤堂高虎は、その場で徳川家康の側近である「天海」(てんかい)に改宗の儀を執り行なって貰い、寒松院という法名をいただきました。
主君を何度も替えた藤堂高虎でしたが、徳川家康には来世まで忠誠を誓ったのです。