「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)は、のちの歴史からみると、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)亡きあとの日本の行く末を決めた戦いです。「徳川家康」(とくがわいえやす)率いる東軍と「毛利輝元」(もうりてるもと)・「石田三成」(いしだみつなり)率いる西軍が、1600年(慶長5年)9月15日に、美濃国(みののくに:現在の岐阜県南部)関ケ原を舞台に開戦し、結果的に徳川家康が勝ち、江戸幕府開府へと向かう、まさに「天下分け目の戦い」でした。
そこにはもちろん、語り尽くせないほどのドラマがあったのですが、全体として捉えると、いよいよ天下に王手のかかった徳川家康に、「石田三成と豊臣官僚集団」が「待った」をかけるため挑んだ戦いという構図が見えてくるのです。敗者となった西軍の実質的な代表者である石田三成に焦点を当ててご紹介します。
「石田三成」(いしだみつなり)は、豊臣政権下での所領が19万石強と小さかったものの、「東海道」、「中山道」の京・大坂(現在の大阪府)へ至る要衝で、誰もがその所領を欲しがる近江(おうみ:現在の滋賀県)の佐和山に居城を持ち、「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)からの信頼が特に厚かった人物です。
石田三成は、戦国の世にあっては非常に稀有な考え方の持ち主でした。一般的に、武家社会とは「武士道」(武士階級における道徳体系)を思い描きますが、これは江戸時代に儒教の思想が導入されてから浸透した概念であり、戦国の世には存在しなかったのです。
戦国時代は、主家替えも下克上も認められ、何より「利」を重んじ、利によって主従の関係を築くことが「是」とされた世の中。戦国武将にとっては、忠誠心よりも、いかに生き残るかが大切でした。
事実、豊臣秀吉の全盛期は、「豊家大事」(ほうけだいじ)を謳い、諸侯達は競うようにしてその幕下に付きますが、豊臣秀吉亡きあと、「徳川家康」(とくがわいえやす)が天下人への野望を剥き出しにすると一転、新しい権力者になびく者が続出します。
そのなかにあって、石田三成は「忠義」(主君や国家に対して真心を尽くして使えること)、「仁義」(他者への親愛)、そして「大義」(人として守るべき道義)の3つの「義」を貫いた人物でした。石田三成が、その3つの義を豊臣秀吉に向けたのは、言うまでもありません。まだ6歳の幼君「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を守るため、天下分け目の決戦へと向かうのです。
1600年(慶長5年)7月17日、石田三成は「内府ちがひの条々」(だいふちがいのじょうじょう)を諸国の大名に送ります。
これは実際には、豊臣政権の「五奉行」に名を連ねた「長束正家」(なつかまさいえ)、「増田長盛」(ましたながもり)、「前田玄以」(まえだげんい)ら「三奉行」の連名で出された書状で、「毛利輝元」(もうりてるもと)と「五大老」のひとり「宇喜多秀家」(うきたひでいえ)の副状(そえじょう)も添えられていました。
「内府」とは、内大臣である徳川家康のことで、その内容は、石田三成らの挙兵の理由を「徳川家康が豊臣秀吉の遺訓に背いて豊臣秀頼をないがしろにしたため」と記し、その罪科を13ヵ条に亘って列挙。そして、「豊臣秀吉への恩を忘れていなければ、豊臣秀頼への忠節を尽くすため、味方するよう」と訴えたのです。これはまさに、徳川家康への事実上の宣戦布告でした。
こうして、「大坂城」(おおさかじょう:現在の大阪城)には、毛利輝元をはじめ「毛利秀元」(もうりひでもと)、「小早川秀秋」(こばやかわひであき)、「吉川広家」(きっかわひろいえ)といった毛利勢の他、宇喜多秀家、筑後(ちくご:現在の福岡県南部)の「立花宗茂」(たちばなむねしげ)、肥後(ひご:現在の熊本県)の「小西行長」(こにしゆきなが)、肥前(ひぜん:現在の佐賀県、長崎県)の「鍋島勝茂」(なべしまかつしげ)、土佐(とさ:現在の高知県)の「長宗我部盛親」(ちょうそかべもりちか)などが集結し、その総兵力は、9万5,000余りに及んだと言われています。
実際には「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)以前に、その前哨戦となる戦いが45回行なわれました。1600年(慶長5年)7月19日、石田三成が西軍をまとめて挙兵した「伏見城の戦い」(ふしみじょうのたたかい)がその発端です。
石田三成自身は、膠着状態で動かない攻防戦に業を煮やし、7月29日に初出陣。西軍は半月をかけ、ようやく「伏見城」(ふしみじょう)を崩落させます。そののち、西軍と東軍は勝ったり負けたりを繰り返し、1600年(慶長5年)9月15日、関ヶ原の戦いを迎えるのです。
石田三成は、伏見城を攻略したのち、6,000余りの軍勢を率いて美濃に向かいます。1600年(慶長5年)8月11日には、西軍に属していた「伊藤盛正」(いとうもりまさ)の「大垣城」(おおがきじょう)に入城。大垣城にはそのあと、小西行長や薩摩(さつま:現在の鹿児島県)の「島津義弘」(しまづよしひろ)なども入城し、美濃における西軍の前線基地となりました。
実は、石田三成は挙兵当初から、関ヶ原の重要性を考えていたと言われています。
関ヶ原は、「不破関」(ふわのせき:古代東山道の関所のひとつ)が置かれた交通の要衝で、中山道・北国街道・伊勢街道の分岐点。
周囲には小高い山々が点在しており、この関ヶ原を抑えたなら、東軍は近江に進むことはできないと考えていました。
そのため、石田三成は、関ヶ原の狭い平地を見下ろす位置にあった「松尾山城」(まつおやまじょう)に西軍の主力を入城させ、東軍の西上を阻もうと城を改修させています。
そして石田三成は、ここに西軍総大将の毛利輝元を配置する予定でした。しかし、当の毛利輝元は大坂城を一歩も動きません。そこで、同じ毛利一族の小早川秀秋を配置しました。一説には、小早川秀秋が勝手に入ったとも伝えられています。関ヶ原の西には、毛利秀元を配置しました。さらに「大谷吉継」(おおたによしつぐ)もすでに関ヶ原入りしており、決戦前夜の1600年(慶長5年)9月14日の深夜には、石田三成ら西軍主力も大垣城を出て関ヶ原へ向かいました。
石田三成は、この関ヶ原で徳川家康を阻み、その間に丹後(たんご:現在の京都府)の「田辺城」(たなべじょう)や近江の「大津城」(おおつじょう)を攻めていた部隊を呼び戻せば、兵力的にも東軍を圧倒できると考えていたのです。
1600年(慶長5年)9月15日午前、石田三成は総攻撃の狼煙(のろし)を上げ、関ヶ原の戦いが始まります。
石田三成勢は笹尾山(ささおやま)、宇喜多秀家勢は南天満山に布陣。東軍の前線部隊は徳川家康の本隊を除いて4万5,000強。
対して西軍は、なぜか小早川秀秋勢と毛利秀元勢が動かず、3万5,000余り。それでも高地に陣容(じんよう:軍隊の配置・編制)を配していた西軍が善戦し、まさに一進一退の攻防になったのです。
このとき、徳川家康は「なぜ小早川秀秋は動かないのか?」と周囲に焦りと苛立ちを隠さなかったと言われています。
実は徳川家康は、「東軍に寝返れば上方に2ヵ国」と条件を出すなど、小早川秀秋と早くから内応し、小早川秀秋が西軍に反旗を翻すのを待っていたのです。もっと言えば、それに賭けていました。そうでなければ負ける公算が高かったのですが、小早川秀秋は迷い続け、動きません。
一方、石田三成達西軍も、この小早川秀秋が動かないことで窮地に陥りかけていました。何とか徳川家康の本隊を関ヶ原の狭い平地に引きずり出し、どちらかと言うと戦況は西軍有利に動いてはいたものの、小早川秀秋は松尾山を駆け下りず、毛利秀元も徳川家康の背後を突かないなど、東軍を壊滅的な状況に追い込む包囲網が、いまだ取れずにいたからです。
ぬかりのない石田三成のこと、小早川秀秋には懸念を持っていました。石田三成は、笹尾山に布陣し、大谷吉継らと軍議を開いたあと、小早川秀秋の陣所へ赴きました。しかし、小早川秀秋を東軍側に付かせたい「稲葉正成」(いなばまさなり)が2人との接触を嫌い、結局会えずに戻っています。
小早川秀秋は、迷いに迷っていた訳ですが、もうひとりの毛利秀元は、なぜ動かなかったのでしょうか。実は、毛利秀元配下の吉川広家が徳川家康と内通しており、「毛利家」(もうりけ)の家臣「福原広俊」(ふくはらひろとし)と連名で、「毛利勢が戦いに参加しないのであれば、毛利輝元が西軍総大将となったことは咎めず、毛利家の領地はそのままで良い」という条件を徳川家康から引き出していたのです。当の毛利輝元も毛利秀元も知らないことでした。
毛利輝元がなぜ、大坂城を一歩も出なかったのか、その確かな理由は分かっていません。戦後、多くの大名に書状を送り、西軍総大将としての活動をしていたことは明らかになってはいます。
結果的に、関ヶ原の戦いが東軍勝利で終わった歴史からも分かるように、小早川秀秋に賭けた徳川家康の大勝負は見事に当たりました。1600年(慶長5年)9月15日の午後、小早川秀秋はついに決断し、西軍を裏切り大谷吉継隊を撃破。この戦況を見て、大谷隊指揮下にあった何人かの武将が次々と東軍に寝返り、裏切りの連鎖の末、関ヶ原の戦いは開始からわずか6時間で決着したのです。
8万強を集めた西軍ですが、そのうち東軍と積極的に戦っていたのは、石田三成勢、宇喜多秀家勢、小西行長勢、大谷吉継勢くらいであり、その数は3万5,000余り。刻一刻と不利な状況に追い込まれていくなか、それでも最後まで戦い続けたのは、石田三成隊だったと言われています。東軍「黒田長政」(くろだながまさ)や「細川忠興」(ほそかわただおき)らの猛攻を5時間以上に亘って防いでいましたが、いよいよ軍を支えきれなくなると、石田三成は戦場を脱し、逃走しました。
関ヶ原の戦いに勝利した東軍は、その夜のうちに、小早川秀秋らによる攻撃隊を石田三成の居城であった「佐和山城」(さわやまじょう)に向かわせます。お城を守っていたのは、石田三成の兄と父の「石田正継」(いしだまさつぐ)で、残る城兵は少なく関ヶ原の戦いから2日後の1600年(慶長5年)9月17日に佐和山城は落城。
6日間、逃亡を続けていた石田三成も、1600年(慶長5年)9月21日に伊吹山の山中で捕らえられ、小西行長らと共に10月1日に京の鴨川河川敷六条河原で処刑されます。
なぜ石田三成は、大谷吉継隊の壊滅時に、佐和山城へ向けて撤退し再起を目指さなかったのでしょうか。そうすれば、大坂城からの援軍が到着したかもしれず、豊臣秀頼の出陣や助命嘆願も期待できたかもしれないのです。ではなぜ、最後まで孤軍奮闘を続けたのか、その答えを知る資料は現在のところ、どこにもありません。
ただ、「徳川家」(とくがわけ)が天下を治めた江戸時代を通じて石田三成の評価が低かったなか、徳川家康の孫「徳川光圀」(とくがわみつくに)は儒学者的立場から「主君のために尽くした人」と擁護しています。
石田三成は、自らの旗印に「大義」に掛けた思いを「大一大万大吉」(だいいちだいまんだいきち)として示しました。
「ひとりは万人のために、万人はひとりのために尽くせば、天下の人々は幸せになれる」という意味です。
また、落城した佐和山城に金銀は少なく、私利私欲の人ではなかっただろうと言われています。