「徳川家康」は、戦国時代における最後の勝者と言っても良いでしょう。戦国時代という激動の時代を生き抜いた徳川家康にとって、自らの身を守る甲冑は切っても切れない物でした。
若かりし頃から権力をその手に握ったときまで、戦場において徳川家康が運命を共にした甲冑を通してそのときの徳川家康に迫ります。また、徳川家康の兜について、イラストでご紹介しております。
徳川家康が若かりし頃に身に着けていた甲冑は、人目を引く物でした。
それが「金陀美具足」(きんだみぐそく)。
金箔押しや金漆塗りで仕上げられた甲冑は一見絢爛豪華ですが、決して贅を尽くした物ではなく、素材などは一般武士と同等の物を用いていたと言われており、実戦での使用に耐えられる実用本位で仕立てられた甲冑だったのです。
この甲冑にまつわる話として、徳川家康による決死の任務があります。それは、1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」にまつわる「大高城兵糧運び入れ」です。
当時、松平元康(まつだいらもとやす)の名で今川義元の下で人質生活を送っていた徳川家康は、今川軍の一員として参戦。今川義元の命により、決死の覚悟を持って、織田軍によって包囲されている「大高城」(おおだかじょう)へ兵糧を運び入れたのでした。
桶狭間の戦いにおいて、今川義元が織田軍に討たれたことにより、徳川家康の人質生活も終了し、地元・岡崎に戻りました。甲冑の「仏胴」(ほとけどう:継ぎ目のない胴)や「臑当」(すねあて)に残る無数の細かい傷から、戦いの中に身を置いてきた血気盛んな徳川家康の姿に思いを馳せることができます。
「関ヶ原の戦い」は、言わずと知れた徳川家康を天下人へと押し上げた戦い。
そのときに着ていたと言われているのが「伊予札黒糸威胴丸具足」(いよざねくろいとおどしどうまるぐそく)。兜にシダの葉状の前立を施していたことから、「歯朶具足」(しだぐそく)とも呼ばれていました。
この甲冑は、徳川家康(徳川家)にとって吉兆の鎧と位置づけられたとされ、豊臣家を滅亡させた「大坂の役」においても、徳川家康の傍らに置かれていたと言われています。
伊予札黒糸威胴丸具足で特徴的なのが、兜の形です。鉄板を打ち出した形が「大黒天」の頭巾のような形をしていることから、「大黒頭巾形兜」(だいこくずきんなりかぶと)と呼ばれています。
この兜は、関ヶ原の戦いを直前に控えた時期に、徳川家康の夢の中に出てきた大黒天を再現させた物。七福神の一柱である大黒天は、現在のイメージとは裏腹に仏教の守護神であり、軍神や戦闘神としても知られていました。
「天下分け目の戦い」を控え、さすがの徳川家康も神様にすがりたい気持ちになっていたのかもしれません。
兜、胴、袖、籠手(こて)、草摺(くさずり)、脛当をびっしりと熊の毛で覆った、ワイルドないでたちの一領。
この甲冑は「熊毛植黒糸威具足」(くまげうえくろいとおどしぐそく)と呼ばれており、兜の横から天に向かって突き出している大きな脇立(わきだて)は、桐製で黒漆を塗った物で、水牛の角をイメージしています。
熊の毛を用いた黒褐色の色使いと巨大な角があいまって、観る者を圧倒するほどの迫力を醸し出しています。
徳川家康は、この甲冑を好んで着用していたと言われており、豊臣家を滅亡させた大坂の役でも着用していたとする説もあるほどです。
金蛇美具足や伊予札黒糸威具足は派手な装飾などがほとんどなく、実用重視と言える物でしたが、この熊毛植黒糸威具足は趣が異なり、質実剛健を是とする徳川家康の「変身願望」が詰まっている一領です。
この甲冑は、尾張徳川家に伝来する唯一の徳川家康所用の具足と位置付けられ、「名古屋城」小天守内において、別格扱いで保管されていました。