「城郭」(じょうかく)とは、お城のことです。日本には数千ものお城があると言われますが、歴女でも意外と基本的なことを知らずにいるのではないでしょうか。お城にはどんな種類があり、どんな目的で作られたのか。なぜこれだけ多くのお城があるのか。どこから材料を調達して、誰がどのように作ったのか。歴女必見、城郭の基礎知識をご紹介します。
海外にも多くのお城がありますが、日本のお城とはどう違うのか、歴女の皆さんはご存知でしょうか。
海外の例を見ていくと、韓国では水原の華城、中国では万里の長城、インドのアグラ城など、それらは「石造り」の建築物です。
一方、日本のお城は主に「土」と「木」で造られています。また高い壁ではなく、深い「堀」を造りました。それは、日本は海外に比べて、地震や水害などが多かったからと言われています。
「城」という漢字は「土から成る」と書きますが、文字通り、土を掘って堀を造り、その土で壁を造っていたということです。
なお、どちらのお城にも共通するのは、狭間や石落としなど、敵を撃退する「防衛」の機能が附属していたこと。近代になると、防衛のためのお城ではなく、居住性や美観が重要視されるようになってきた点も同じです。防御から美しさへと進化したお城は、やがてまちのシンボルとなり、多くの人々に愛されてきました。
お城への思いは世界共通。これからもお城は、多くの人を魅了する存在であり続けるでしょう。
では、お城は何のために造られたのでしょうか。築城の進化によって、お城は4つの顔を持つようになりました。大名達は、立派なお城を造ることで、その役割を最大限に利用したのです。
お城のそもそもの目的は、敵の侵攻を防ぐための軍事基地。お城が戦いの舞台になった場合には、籠もって戦うだけでなく、そのために必要な武器や食糧を備蓄するという役割もありました。
また、攻めにくそうなお城を建てると、それだけで敵国の侵攻意欲を削ぐというメリットもあったのです。
城内には、城主や領地に住む家臣達が集まり、政務を行なうための御殿が建てられました。
御殿とは、今で言う県庁や市役所のような場所。現在も、お城の敷地はそのまま市役所などに使用されている例もあります。
「お城に住む」とは言え、城主は天守に住んでいるのではありません。普段、天守や櫓は物置として使われ、生涯に一度も天守に上がったことのない城主もいたとのこと。
城内には、本丸や二の丸御殿といった建物が建てられ、そこに城主や家族の住まいがありました。他国からの使者を迎える応接間や会議を開く広間もそこに備えており、歴女もうっとりするような、豪華な造りとなっていったのです。
日本には、数千ものお城があったと言われますが、そこには一体誰が住んでいたのでしょうか。
戦国時代には、有力な大名はひとりでいくつものお城を持っており、自身の居城である「本城」、そして本城を取り囲むようにたくさんの「支城」を造っていました。支城には、信頼のおける家臣を城主として住まわせ、そのネットワークによって、効率よく領地の統治を行なっていたのです。さらには、部下も小規模なお城(又支城)を任されることがありました。
又支城の城主に選ばれたのは、普段は農業に従事し合戦になると戦うという、そんなに身分は高くない、出稼ぎ武士達。このシステムがあったからこそ、3,000~5,000というお城が生まれたのです。
ところが、江戸時代になると、江戸幕府が制定した「一国一城令」により、多くのお城が破却されてしまいました。お城をなくした大名達は、その代わりに代官の住居及び役所となった陣屋に住まうことになります。
陣屋に藩庁を置く大名は「無城大名」、あるいは「陣屋大名」と呼ばれ、 無城大名が城主格大名へ昇格しても、国許の陣屋をお城に転換することはできず、城門の構築を許されるのみでした。
江戸時代の軍学者による分類では、お城は「山城」(やまじろ)、「平山城」(ひらやまじろ)、「平城」(ひらじろ)の3つに分けられています。
戦国時代の幕開けに登場したのは、山の地形を活かして建てられた山城です。敵に攻められた場合に備えて、水の確保や、周辺の山々の高さも気にしながら、籠城戦にも備えたお城を建てました。
しかし、標高400m級の山城ともなると住むには不便なため、平時には、ふもとに建てた館に住んでいました。
例えば、甲斐武田氏の「躑躅ヶ崎館」(つつじがさきやかた)と「要害山城」(ようがいやまじょう)がその例です。
そのうちに、どちらの利点もかね備えた場所、つまり平地に挑む丘陵にお城を築き、平地には曲輪を配した平山城が誕生しました。
領地に山がない場所には、河川に面した水城や、周囲に堀を幾重もめぐらせた平城が築かれるようになり、そのときの状況や地形によって、最適な場所に最適な方法を選択していったと考えられます。
このように築城の場所が変わっていった理由としては、以下の3つが考えられます。
築城は、まずお城の構造(縄張)を考えて設計図を作り、それをもとに普請(土木工事)から作事(建築工事)の順番で工事が行なわれます。
まずは「どこにお城を建てるか」。領主のお城を築くなら交通の要衝が良いところでしょうし、支城を建てるなら敵との国境付近がふさわしいというように、用途によって最適な土地を選び、規模や大きさを決定します。
そこへ、建物や堀、石垣などの配置や曲輪の形をレイアウトしていくと設計図が完成。現在の建設でも、この作業は同様です。
「加藤清正」(かとうきよまさ)や「藤堂高虎」(とうどうたかとら)といった「築城名人」と呼ばれた大名は、地形の良し悪しを見極め、都市計画を練り上げました。
彼らのもとには優れた城大工がおり、安土城を築いた「岡部又右衛門」(おかべまたえもん)や徳川家のお気に入りだった「中井正清」(なかいまさきよ)など、大名の地位が与えられるほど厚遇されました。
「普請」(ふしん)では、お堀の掘削や曲輪の造成、石垣の積み上げが行なわれます。
山城では、斜面を削り平坦にするという作業が基本で、掘ったお堀の土を使って積み上げて土塁を造るというように、とても無駄のない方法で造られました。
しかし、地形を活かした山城に対して、平山城・平城では、土木作業も格段に増え、工事も困難。高い部分から斜面を崩していき、曲輪を造りましたが、平城の場合は、水が湧き出てくることもあったうえに、粘質で水分を含んでいる平地の土は造成に不向きだったため、掘った土を使わずに、わざわざ近隣の小山を崩して運び込んだ土を使用したのです。
現代のように、重機などない時代のこと。すべての工事は人手によって行なわれていたと思うと、途方もなく大変な作業だったということが分かります。
「徳川家康」による「天下普請」(てんかぶしん:江戸幕府が全国の諸大名に命令し、行なわせた土木工事)では、特に巨石の運搬は築城の見せ場のひとつであり、パレードのように派手な衣装と音楽で人足(にんそく:力仕事をする労働者)達を盛り上げたり、大名が自ら石材の上に乗って音頭を取ったりするなど、まるで祭りのような賑やかさだったとのこと。
築城には、多くの人達の力が必要となるので、城下町には食事処や芝居小屋などが建ち並び、町も活気付いていました。
石垣積みというと、職人集団として有名だったのは、近江(滋賀県)出身の「穴太衆」(あのうしゅう)です。もともと古代に日本にやってきた百済の渡来系で、古墳の造営を中心に技術を伝えた人達。
延暦寺伽藍の石垣が壊れないのに感心した織田信長が、安土城の築城のために召し抱えたことで、多くの権力者達に重宝されるようになりました。彼らの活躍により、石垣の技術が格段に進化したのです。
普請が終わると、天守や門などを建てる建築工事「作事」(さくじ)が始まります。作事には、左官や大工など専門の職人が雇われました。
大勢の人足や技術者の手によって築き上げられたお城は、まぎれもなく人もお金も手間もかけた、壮大な芸術品だったと言えます。
築城に使われた木材や石材はどのように運ばれてきたのか、歴女の皆さんならご存じでしょうか。
例えば、江戸城の場合は、築城地のそばでは採石できなかったため、伊豆(静岡県)から石を運びました。石は石材運搬用の船で運ばれますが、巨石を運ぶ船はバランスを取るのが難しく、江戸に辿り着くのは至難の業。運良く港に着いたとしても、陸上を運ぶのが一苦労でした。
さらに、運搬しているときに落としてしまった石は、「城が落ちる」(落城)につながるとして、築城には2度と使用できません。このような石は「残念石」と呼ばれて、その場で捨てられたのです。
また、天下普請のお城では、多くの藩が作業をしているため、苦労して運んだ石を強奪されることもあり、現場は常に一触即発状態。刻印を付けて他大名とのトラブルを防ぎました。
木材は、木曽(長野県)の山中から切り出され、川へ流して運搬。川の上流でいかだを組んで、江戸へと流されました。このように、材料の確保も運搬も大変なものだったことが分かるのです。