現在、私達がイメージする日本のお城とは、どんな建造物でしょうか。豪華な天守に立派な石垣に堀、その周囲には家臣や職人が住む城下町が広がる。そんな風景が思い浮かんだのではないでしょうか。実はこれは、「織田信長」が作り上げたと言われているイメージなのです。
ここでは、日本におけるお城の歴史や、「戦国三英傑」による築城についてご紹介します。お城めぐりは、歴女の「聖地巡礼」の中で定番とも言えるイベント。知識が増えれば、お城めぐりがより一層楽しくなること間違いなしです。
日本全国には、分かっているだけでも50,000もの城跡があると言われています。その成り立ちは古く、力によって領土を争うようになった古代までさかのぼります。やがて大がかりな軍事拠点となり、築城、戦闘、奪還、取り壊し、廃城を繰り返しました。
まずは、お城の歴史を見てみましょう。
日本のお城の起源は、弥生時代と言われています。きっかけは、農耕のはじまりです。
各地で農耕がはじまると貧富の差が生まれ、各地で紛争が勃発しました。
当時の人々は侵略や略奪から身を守るために、自分達の住む集落のまわりに「濠」(ごう)と呼ばれる溝を掘り、その外に土を盛り上げて土塁を築き、「環濠集落」(かんごうしゅうらく)を生み出したのです。
10世紀、平安時代半ばになると、武士が出現。次第に武士中心の世に突入していきます。
そうした中で、平時の居住地への防護と共に、戦時に使用する防護施設の必要性が生じて、小規模ながらも防御能力の高いお城が発達していきました。
この形態のお城を普及させたきっかけは、「楠木正成」(くすのきまさしげ)率いる軍勢による「赤坂城」、「千早城」の籠城戦です。
約100日間立てこもった楠木正成軍は、鎌倉幕府の大軍を撃退。以後、武将の間に籠城による戦法が浸透していきます。そのため、当時のお城のほとんどが険しい山に建てられた山城で、軍事的拠点という要素が強くなっていきました。
山城の建造では、自然の山を削ったり、掘ったりしながら、堀や土塁(どるい:土を高く積み上げ、敵を簡単に城に入り込ませないようにする)、曲輪(くるわ: 城や砦の周囲にめぐらして築いた土石の囲い)などを築いていくのが一般的。
この時代の城はほとんどが土で築かれ、建物は木造で簡易的に作られていました。それゆえほとんど現存していませんが、南北朝時代や戦国時代には相当な数のお城が造られたと言われています。
攻めにくく守りやすいお城にするには、堀が重要です。堀の幅は、およそ五間(約10m)前後が一般的だとされています。これは当時の弓矢の射程距離と関係がありました。
もっとも、戦国時代半ばになると、弓矢の倍以上の射程距離を持つ鉄砲が登場。これにより、それまで以上に広い堀が必要となったのです。
また、この時期になると、お城は軍事拠点に止まらず、行政の拠点などでも使われるようになります。お城を中心として、武士、町人などが生活する城下町が形成されるなど、お城は領国の経済の中心でもありました。
こうした流れの中で、お城は次第に、なだらかな山や丘、平野に築かれるようになっていきました。これが「平山城」です。
徳川幕府によって「一国一城令」が出されると、お城(日本式城郭)発展の歴史は終焉を迎えました。
戦国時代以降に造られたお城や城跡として、分かっているだけでも数千はあると言われており、お城を見上げると、歴女ならずとも、人々が抱いた憧れを思い浮かべることができます。
織田信長と言えば、父「織田信秀」(おだのぶひで)と同様に、本拠のお城をいくつも移していたことでも有名です。
戦国武将は、領地を広げても、本拠のお城は変えないのが一般的。
織田信長が、他の大名に先駆けて天下を獲れた理由は、このように本拠のお城を頻繁に変えたことにあるとも言われています。
「勝幡城」(しょばたじょう)に生まれ、「那古野城」、「清州城」、「小牧山城」、「岐阜城」、安土城と居城を変える中で、織田信長は築城の技術とまちづくりの理想を追求していきました。若い織田信長が、何もないところからはじめて手掛けたのが、小牧山城。
小牧山城は、岐阜城、安土城へと続く「原点」として、重要な位置付けにあるお城です。小牧山城では、見上げるような総石垣を築き、まっすぐな「大手道」(おおてみち)を造りました。
そこでは、「楽市楽座」(らくいちらくざ:戦国時代から近世初期にかけて、戦国大名が城下町を繁栄させるための商業政策。それまでの座商人の特権廃止や市場税の廃止、また、座そのものの廃止によって、新興商人の自由営業を許した)を導入し、商人や工人を配置した城下町を形成。織田信長の天下構想が、お城や城下町という形で表現されていました。
古くからの権威であった清須の守護や守護代の狭間を抜け出し、小牧の地に理想とするお城を造り上げた行動力が、その後の岐阜城、安土城へとつながり、織田信長を天下人まであと1歩のところまで押し上げたのです。
小牧山城・岐阜城・安土城を巡礼し、織田信長の「天下統一ロード」を体感することも、歴女ならではのお城巡りだと言えます。
1560年(永禄3年)に、「桶狭間の戦い」で「今川義元」を下し、天下にその名を知らしめた織田信長は、三河の徳川家康と手を組みます。
そして、美濃攻めの準備の一環として、美濃に近い小牧山に城を築いて拠点としました。
最上階は金色、下階は朱色の八角形の5層7階の建造物で、織田信長が住み、来賓を迎えるための城として贅を尽くしたと言われています。
織田信長の手法を受け継ぎ、発展させた豊臣秀吉のお城造り。
織田信長の死後、次なる天下を狙う者として、織田信長同様、大坂城の築城によって権威を誇示しました。
このお城を訪れたイエズス会宣教師「ルイス・フロイス」は、「すべてにおいて織田信長の建造物を上回る」と驚く人々の評判を書き留めています。
不便であっても安土城の天守に住んで、天上人であることを意識させた織田信長と違い、豊臣秀吉にとって、大坂城の天守は生活の場ではありませんでした。金銀や高価な武具、茶道具などの財宝でこれでもかというほどに飾り立て、賓客を招いては、自ら説明し財宝を見せびらかしたと言います。
これは、ただ単に成金趣味の自慢という訳ではありません。表御殿の黄金の茶室から、「三国無双」と呼ばれた天守、洋風ベッドを置いたという奥御殿の寝室へ連れて行き、また日を改めて茅葺(かやぶき)の茶室へと接待する、というように豊臣秀吉自らゲストをもてなしていたのです。
「人たらし」と呼ばれた豊臣秀吉であれば、客との会話を盛り上げながら、飾り立てられた財宝をより魅力的に観せ、自らの権力の大きさを十分に誇示することができたでしょう。潔癖な性格から、絶対的権力として君臨しようとした織田信長に対して、成り上がりの豊臣秀吉は、天下統一をすすめるために大名の心をほぐし、良好な関係を築こうとしました。豊臣秀吉のお城とは、最上級のもてなしをするための迎賓館だったのです。
現在の大坂城(大阪城)は戦後に再建された建造物ですが、その雄大な姿から、豊臣秀吉が築いた往時の大坂城に思いを馳せる歴女もいることでしょう。
豊臣秀吉は、京都や経済の中心地・堺に近い大坂(現在の大阪)に注目し、三重の堀と運河に守られた要塞を造りました。
また、城内には山里のような風情を持つ「山里曲輪」(やまざとくるわ:城内に、 戦闘面を考慮せず、庭や池、茶室を設けた曲輪)という一角も造り、大名や有力商人達を招き茶会や花見を楽しみました。
政治的要素をかねた茶会の場で、豊臣秀吉は政治経済を友好に動かしたのです。
徳川家康が築城した代表的な城は江戸城ですが、それより前の江戸城は、石垣ではなく芝土手で、板葺きの粗末な屋敷があるばかりの荒れた場所だったと言われています。
豊臣秀吉からの褒美として与えられた領地ですが、田舎に追いやられたも同然の扱い。
しかし、台地が多く、港もある江戸の可能性を見抜いた徳川家康は、1603年(慶長8年)に征夷大将軍となると、ここを天下の政庁とすることにしたのです。
その当時の江戸城の姿は、2017年(平成29年)に発見されて「松江歴史館」に所蔵されている「江戸始図」(えどはじめず)によって知るところとなりました。それに描かれたところでは、現存する江戸城跡(改修後)の姿と、徳川家康が築城したと推定される江戸城の姿は全く異なっているのです。
徳川家康が造った江戸城の姿は、姫路城に類似した、大天守と小天守を組み合わせた連立式天守。大天守も圧倒的な大きさで、石垣を含めた城全体の大きさは、およそ68m(ビルに換算するとおよそ23階)と推定され、織田信長の安土城、豊臣秀吉の大坂城の高さをゆうに超える建造物であったと言います。
これまでに見たことのないほど圧倒的な規模のお城の完成に、諸大名は、徳川の世のはじまりを実感したに違いありません。
さらに、複雑で防御性の高い天守曲輪(詰丸)を備えるだけでなく、南側の大手には五連続の外桝形を連ね、かつ北側には三連続の「馬出し」を配置。戦国時代を生き抜いてきた徳川家康は慎重な性格で、お城を要塞と考えていました。
例えば「小牧・長久手の戦い」では、廃城であった織田信長の小牧山城に手を加え、何重にも曲輪を造って全く違う城にして戦いに備えたように、その慎重さは若い頃から並外れていたのです。
同様に、江戸城においても完全なる要塞を求めました。徳川家康は、お城及び城下町を整備することによって、江戸の一極集中を進めます。目指したのは、大坂城下・伏見城下のように、諸大名が住む都市空間。すべての武家を自分の居城下に集め、行政の頂点である幕府が完全に支配する体制を構築したのです。
江戸城跡は現在、皇居として使用されていますが、敷地をぐるりと囲んでいる堀に沿った外周は、市民ランナーのジョギングコースとしても知られています。
ジョギングをする歴女も、しない歴女も、往時の江戸城のスケールを感じることができるポイントです。